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本当に桶狭間は「奇襲」だったのか? 否定の新説は?

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本当に桶狭間は「奇襲」だったのか? 否定の新説は?

敵の大将の首を狙って一気に勝敗を決しようとした戦いもあった。…その代表が永禄3(1560)年の桶狭間の戦いです。

駿河遠江(とおとうみ)・三河、3カ国の太守である今川義元は、上洛をこころざし2万5千といわれる大軍を率いて織田領である尾張に侵入する。…若き織田信長は、2千の精鋭でもって義元の本陣を奇襲し、見事にその首級をあげた。…大将を失った今川勢は散り散りになり国元に敗走した。…この戦いは、かつて広くそう理解されていました。

現在の解釈は、これに比べると相当に変化しています。

1.今川の軍事行動の目的について
義元の狙いは、京都への進軍などではなく尾張三河の国境地帯の制圧だろう…織田家に打撃を与えて、尾張占領の足がかりを作ろうとしたのではないか。

2.奇襲説の否定です
この戦いの基本資料は、太田牛一が記した『信長公記(しんちょうこうき)』ですがそれをきちんと読むならば、奇襲という解釈は成り立たない。…信長は正面から今川軍に戦いを挑み、そのうえで義元を討ち取っているというのです。

まずは、1.の上洛が目的ではないに賛成です。…仮にに織田を滅ぼしたとしても、その先には、信長が7年かけて攻略した美濃、稲葉山城の斎藤氏がいる。…更には北近江の大名、浅井氏が立ちはだかり、琵琶湖の南には六角氏だっている。…これらを一辺に降すのは不可能だと思います。

それと2.のたった2千の信長軍が2万5千もの今川勢に「正面から戦いを仕掛けた」というのは???

歴史解釈には、ときに常識が必要になることがある。…たとえば皆さん自分1人で10人以上の敵に立ち向かえますか?…「織田VS今川」の比率ではそうなります。…おいおい、それはないよと思いません?…いくら史料を厳密に読んだからといって、ちょっと常識はずれ、典型的な「学者ナントカ」と言われてしまう気が僕はするのです。
本郷和人

■確かに織田信長桶狭間の奇襲説は、疑わしいですね。…それと今川義元があの当時2万5千で上洛しようとしたとする説は、明らかにおかしいです。

■信長ですら上洛するのに京都までの道を確保する為に、まず美濃を手に入れて、妹「市」を浅井長政に嫁がせて近江を通過できるようにした。…そして足利義明を立て名目上の旗頭とした上で上洛軍を興した。…義元にそんな準備をしたなんて記録は残っていませんからね。