旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

石高から見た桶狭間での織田信長の実兵力

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石高から見た桶狭間での織田信長の実兵力

次の数字は何を表わすでしょう?
駿河15万石
甲斐22万石
信濃40万石
上野50万石
おわかりですよね。…答えは各国の石高です。

ただしこの数字は、慶長3(1598)年、関ヶ原直前のものです。…戦国大名の経済力、軍事力を割り出すのは容易ではありません。
江戸時代の大名と違って支配領域も石高もわからない。仕方ないのでよく用いられるのが石の数字…これは太閤検地を経た後にようやく明らかになった数値ですが、とりあえずの目安になります。

たとえば武田信玄は家を継いだ時に甲斐一国を治めていたから20万石くらいの大名に相当する。…その後、10年で信濃を制圧しますので、合わせて60万石ぐらい。
信玄の最盛期には、上野の西半分、駿河も占領しているので収穫高は100万石ってところでしょう・・これを軍事力にリンクさせてみましょう。

永禄4(1561)年 川中島の戦い
武田兵は2万人といわれています。…この時の領地は60万石に当たりますので、30万石で1万人の兵力。
元亀3(1572)年 三方原の戦い
信玄晩年の徳川家康を打ち破ったこの戦いでは、3万人の兵を動かしました。

江戸時代の大名は、10万石で2000人の兵を養うように義務付けられていました。これに比べると信玄の30万石で1万人は、かなり無理していたんですね。…食うか食われるかの戦国時代という事で目をつぶっていただいて、30万石で1万人を基準にしてみます。

さて懸案の桶狭間での兵力です。
史実では、「今川軍2万5千VS.織田軍2千」となっていますが当時の今川領は、駿河15万石、遠江25万石、三河30万石、合計70万石ですので総力を結集すれば今川義元は、2万5千人の大軍勢をなんとか準備出来るでしょう。

一方の尾張織田信長
信長は、桶狭間の戦いの前年までには、尾張の統一を成し遂げています。…この戦いで存亡の危機に立たされた信長は、義元以上に懸命に領国から兵をかき集める努力をしたはずです。

そこでまた問題です。…尾張の石高はいかがでしょうか?
地図を広げると尾張の面積は駿河の半分、伊豆と同じぐらい。伊豆の石高は7万石です。…尾張もそれぐらい?

いいえ、いいえ、実は尾張は57万石もあるんです。日本全国でもずば抜けて生産量が高かった国、それが尾張なんです。…皆さんがご存知の通り、商業に関しても津島、熱田は商業拠点として栄えていましたし、信長の父、信秀は朝廷に4千貫文(4億円)もの献金をしています。こんな気前の良い大名は他にいません。…中国地方の覇者毛利元就ですら半分の2千貫です。


■そうするとどうしても疑問が浮かび上がってきます。桶狭間の戦いに参加した織田信長の軍勢2000人…たったこれだけのはず無いんじゃないですかね。

■いや…もう絶対おかしいでしょう!…信長の兵力は少なくとも1万人以上いたのでは?…と思わざる得ないのです。…皆さんどう考えますか??

■文献が残っていない時代…自由に楽しく空想しましょう…(笑)