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『信長公記』の精読で覆された桶狭間「迂回奇襲伝説」の真相!

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信長公記』の精読で覆された桶狭間「迂回奇襲伝説」の真相!

誰もが信じた大勝負は江戸時代の創作だった。
多くの日本人、とりわけ合戦に興味を持つ人々にとって「桶狭間の戦い」といえば「奇襲攻撃」の代名詞だった。

今川軍2万5000に対して、3000人に満たない織田軍が大勝利をおさめたのだから、人々が歴史を語る時、胸躍る伝説のひとつになったのは当然だろう。

桶狭間に着陣後、緒戦の勝利と兵力差で油断し、謡いを楽しみながら美酒に酔っていた今川本隊へ、敵に悟られないよう山道を迂回した織田軍が大勝負をかけて突入し、見事に今川義元の首を取った。

桶狭間の奇襲攻撃は、おおよそこのような筋で語られていた・・年輩者から30代の人まで、織田信長の伝記、歴史の授業、あるいはテレビドラマで桶狭間の戦いをこう見せられ、聞かされ信じたはずだ。

ところがここ20年ほどの間に、この戦いに対する認識が大きく変わった・・その契機は昭和57年に軍事史研究家の藤本正行氏が 「桶狭間で、信長が敵前で迂回コースをとって今川義元の本陣にせまり、奇襲して撃破したというのは、完全なるフィクションである」と発表したことにある。

藤本氏は従来通説とされてきた「迂回奇襲攻撃」に疑問を抱き、史料を丹念に分析した。…その結果、迂回奇襲攻撃は江戸時代初期に、儒医の小瀬甫庵が書いた『信長記』から広まったことを確認する。

桶狭間の戦いから4年後に生まれた甫庵が、合戦の詳細を知るはずがなく、伝聞による記述には創作や誇張が多い。

そこで藤本氏は、織田信長の家臣だった大田牛一が記した『信長公記』を信憑性の高い史料として着目した。…自身も桶狭間周辺を踏破して、「桶狭間の戦いは迂回奇襲ではなく、中島砦から今川軍をまっすぐ攻撃した」という新説を発表したのです。

藤本氏は著書『信長の戦争』(講談社学術文庫)で、信長が迂回路を進まなかった根拠として『信長公記』の「信長御覧じて、中嶋へ御移り候はんと候つるを、(中略)無勢の様躰、敵方よりさだかに相見え候」という記述をあげる。

敵から丸見えの状態で中島砦に移ったという家臣の言葉から、「信長に隠密に行動して義元に奇襲をかけるという意図などなかったことが明らかである」と藤本氏は述べています。

さらに藤本氏は、迂回路といわれる道を歩き、その経路が深い藪に覆われ、今川本隊まで到着するまでかなりの時間がかかる事を実証する。

たとえ「敵は休息中」との情報が織田軍に入っても、長い時間かけて迂回路を進軍している間に相手が移動してしまえば元も子もない。…信長が非合理的な迂回奇襲作戦を採った可能性はありえないと藤本氏は主張する。

藤本氏が発表した「信長正面攻撃説」は、発表後、多くの支持をを集めた。…ただし現在では若干の異論もあります。

横浜国立大学教授の有光有学氏は『静岡県史 通史編2 中世』の中で、織田軍が今川軍の本隊を攻撃できた理由について、「考えられるのは、今川方が早朝から鷲津・丸根砦を攻撃し、大高城に兵糧を入れていたことである。…すなわち、沓掛城から東海道を離れて桶狭間に進行したのは、大高城を目指したのだと考えられる」 と述べています。

したがって山間の道に伸びていた今川軍のうち、「織田軍は義元の本隊を側面から攻撃することが出来た・・今側方としては思わぬ方向からの攻撃であったがために、対応できず敗北するという結果に終わった」と推論している。

つまり、織田軍が中島砦から直接、今川軍を攻撃したという藤本説を取り入れつつも、それは結果的に「側面攻撃」であったというのです。

ただ、いずれにせよ中島砦から織田軍がまっすぐに今川軍に攻撃を仕掛けたという点には、現在では有力な異論はなく、山中を迂回急襲したという説をとる研究者はごく少数になっている。

 

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「奇襲伝説」に酔いしれた…日本人の“見果てぬ夢”

さて、「桶狭間の奇襲戦」が、天下泰平の江戸時代に読み物として人々に広まったのは自然な出来事だった・・織田軍が真っ向から攻撃した話より、山中を迂回して急襲した話の方が面白いからだ。

だが、「奇襲説」を史実として誰も疑わなくなり、日本が諸外国と戦争を始めた近代以降、歴史の歯車が狂い始める。

話を再び藤本正行氏の研究に戻そう・・この「桶狭間の奇襲戦」の経緯は陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史』にまとめられ戦略研究の教材になった。

藤本氏は、『信長の戦争』で、「太平洋戦争のおり、圧倒的な連合軍を前にした彼らが日本軍を織田軍にたとえ、敵を今川軍になぞらえたとしても怪しむにたりない」と述べている。

そして連合艦隊総司令官・山本五十六をはじめ、多くの軍人の日記、手紙、回想録に「桶狭間」という言葉が奇襲の代名詞として登場することから、奇襲が日本の軍人の精神的支柱となったと指摘している。

敵の側面や背後に回り込んで奇襲をかける作戦は、昭和17年ガダルカナル総攻撃など幾度も試みられた・・ところが「殆どが事前に迂回を敵に察知されたり、予定時に戦場に到達できなかったりして失敗に終わっている」と藤本氏は述べる。

そして桶狭間の戦いで小勢が大軍を破ったという「先例」が、日本軍が迂回奇襲に固執した一因ではないかと推測している。

源義経が活躍した「一ノ谷の合戦」など、日本には他にも奇襲伝説があるので、桶狭間の戦いだけが日本人の奇襲信仰を深めたとはいえないかもしれない。

しかし、成立に様々な条件を要し、かつ成功率が低い奇襲を近代戦になっても画策したことが日本軍の被害を拡大させたという問題提起は、今後も検証する必要があると考えます。