NHK その時歴史が動いた
本能寺の変 ~信長暗殺!闇に消えた真犯人~
戦国時代人々は
新たな秩序を求めていた
100年にわたり戦乱が続いた戦国時代、この混乱を静め世の中に新たな秩序を取り戻す人物が現れることを人々は望んでいました。その期待を担って彗星のように戦国時代に現れた天才児、それが織田信長です。
永禄11(1568)年9月、信長は4万を超える軍勢を率いて京の都に上り、室町幕府の復興を目指す足利義昭を将軍の座に据え天下統一に向け、大きな一歩を踏み出しました。
新興勢力の信長と古い権威を代表する義昭、その二人の間を取り持った人物、それが明智光秀でした…光秀は名門・土岐一族の出身といわれ、かつては室町幕府の役人として13代将軍義輝に仕えていました。
都の人々に交わり、高い教養を身に着けた光秀は戦国の無秩序の中で朝廷や幕府の権威がないがしろにされている様を見るにつけ、世の混乱を収め秩序の回復をしたいと考えるようになったのです。
信長の強力な軍事力と政治力は光秀の目には、新しい秩序をもたらす有力者に相応しいと移ったのです。ところが信長の力によって将軍となった足利義昭は、たた古い権威を振り回すだけでとうてい世の中を治めてゆける人物ではありませんでした。
当時の記録『載恩記』には、義昭の無能ぶりを揶揄した逸話が記されています…ある日何者かの手によって義昭の屋敷の前に蛤が9枚並べられました。9枚の貝は公界(くがい)という言葉に通じさせます。
公界とは公の仕事を意味します…9枚の貝はいずれも割られていました。つまり義昭には公の仕事は何もできないということを都の人々は痛烈に当てこすったのです。
元亀元(1570)年、義昭が将軍となって2年の後、信長は一通の書状を出します…「これまで義昭が出した命令は全て破棄すること…天下の事は全て信長に任せること」…この書状を取り次いだのは光秀でした。
光秀は信長の申し渡しを義昭に了承させる役を努めます…光秀はこの時、義昭に見切りをつけ真の実力者である信長にあくまでも着いて行こうとしていました。
以後、義昭は陰に陽に信長に敵対するようになり、元亀4(1573)年には、ついに信長によって都から追放されてしまいます。義昭は信長への復讐心に燃え、全国の大名に信長に反して立ち上がれと呼びかけます。
義昭の求めに応じ、上杉、武田、毛利といった有力な大名が連携して信長包囲網が形成され各地で激しい合戦が相次ぐことになりました。しかし信長は組織性と機動力に富む強力な軍団を駆使し、巧みな戦術を用いて次々に強敵を撃破してゆきます。
その尖兵の一人となったのが光秀でした…光秀は難攻不落といわれた丹波の国を平定した功績を高く評価されます。
「明智が長年、丹波に出陣し尽力して、度々の戦果を上げたことは比類ない功績である」(『信長公記』より)
恩賞として丹波一国を与えられた光秀は良き領主たらんとして丹波地方の政治に邁進するようになります。手柄を立てて主君から領地をもらい、その地に善政を敷く…自分が理想とした武士の秩序と伝統が世の中に戻ってきたと光秀は感じていたのです。
琵琶湖のほとりの安土の地に巨大な城の建設を始めていた信長は、天正7(1679)年5月、天守に移り住みます。建設が進むにつれ信長は、それまで家臣たちが思ってもみなかったことを言い出すようになりました。
家臣たちは普段は領地を離れ、安土山の周辺に築かれた武家屋敷に住むようにというのです。それまでは先祖伝来の領地に館を築いて住むのが当たり前だった武士たちにとってそれは驚天動地といった命令でした。
本能寺の変の3年余り前の事です。
織田信長
武家改革に着手する
信長がその夢を託して築いた安土城、天守がそびえる安土山のふもとには、武家屋敷が建設されました。信長は配下の武士たちに本国の領地を離れ、安土に住むことを命じます。それは当事の武士の常識を覆す命令でした。
鎌倉時代以来、武士たちは本領といわれる先祖代々の土地に根付いて暮らしてきました…有力な武将に仕えて奉公するのは、この本領を安堵してもらうため、つまり土地の支配権を保証してもらうためでした。
ところが信長のやり方は違っていました…信長は新たな領地を家臣に与えるではなく、預けおくだけにしたのです。こうすれば家臣たちは、その土地の権益にとらわれることなく政治に励むことになります。
信長がこうして武士を土地から切り離そうとしたのは、家柄という過去の遺産によらず個人の能力を最大限に発揮させるためだったのです。
土地と武士の関係の信長のやり方を如実に示す文書があります。天正3(1575)年、越前国、今の福井県を支配するために信長が定めた『越前国掟』です。この掟の中に次のような一節があります。
「給人をつけない土地をいくつか残しておくこと」…給人とは、その土地から収入を得る家臣のことです。どの家臣にも任せず直轄地とする土地を残しておけというのです。将来功績のあった者に与える恩賞のためというのが理由でしたが、この掟は領地は家臣のものではなく、信長のものという考えを現したものでもあったのです。
武士を土地から切り離す…その方針は信長の家臣たちばかりではなく、戦国大名たちにも適用されようとしていました。そして光秀にも思わぬ災厄をもたらすことになります。
問題となったのは四国の支配をどう行うかということでした…戦国時代、四国では土佐に本拠を置く長宗我部氏と阿波徳島に本拠を置く三好氏とが覇権を争っていました。
信長は当初、長宗我部氏と結んで四国に勢力を伸ばそうとしていました…その仲立ちをしたのが光秀です。光秀を頼った長宗我部氏は信長に忠誠を誓うことで安心して合戦を続け、四国全土を征服しかねない勢いを見せました。
天正9(1581)年6月、ところが信長は突如として思いもよらぬ命令を発します…「阿波の支配は三好氏に任せるので長宗我部氏は三好氏を援助すること」
阿波は長宗我部氏が自らの努力で領土とした土地です…それを一方的に三好氏のものとせよという命令は承服しがたいものでした。信長に忠節を誓ったのも領地を保証してもらえると思ったからこその事、なのにここにきて突然取り上げられるとは…。
長宗我部氏が従わないと見るや信長は四国侵攻の準備を始めます。その真の狙いは四国全土の征服であることは明白でした。
光秀の面目は丸つぶれになりました…長宗我部氏の当主・元親は光秀の重臣、斉藤利光の妹と縁組していたため、光秀は長宗我部氏に信長に尽くせば安泰だと説得していたためです。思わぬ成り行きに驚く光秀を信長は四国担当から外してしまいます。
「おかしい…信長様はいったい何をしようとしているのか」…光秀の心には信長の改革に対する底知れぬ疑念と恐怖が湧き上がって来たに違いありません。
本能寺の変、その半年前の事です。
信長による
朝廷の権威への介入
信長の夢の象徴とも言うべき安土城、その姿からは天下統一の後に信長が考えていた新しい日本の体制がどのようなものであったかをうかがい知る事ができます。
最近の発掘調査によって安土城には天守の傍らに天皇の御所である清涼伝に似た建物が建てられていることがわかりました。また信長の伝記、『信長公記』には天承10年、本能寺の変の正月のくだりに“御幸の間”つまり天皇の部屋が安土城にあるという記述があります。
更にこの時期、天皇のそばにいた公家の日記にも行幸の準備が進められているという記述があり、信長は天皇を安土に招くつもりであった事がわかります。天皇を招いて自分の指揮下におく、そういう信長の考えは朝廷の権威をないがしろにするものとも受け取れました。
天正10年2(1582)月、信長は更に思い切った要求を朝廷に突きつけます…暦の変更です。天皇が定めた当時の暦では、天正11年1月に閏月がありました。しかし信長の出身地、尾張では天正10年12月を閏月とする暦が使われるなど地方によって区々でした。
その暦を信長は尾張のものに統一しようとしたのです…暦の制定は古来より日本では天皇だけが定める権限を持つ、いわば神聖にして犯すべからぬ事柄でした。その権限を侵そうとする信長の行為は多くの人々に衝撃を与えました。
光秀もまたその一人でした…古い秩序の回復を目指す光秀は朝廷の権威をないがしろにする信長の行動に危機感を強めていました。
朝廷の一部と光秀が連繋をとりつつあったと推察できる資料があります…当時の公家の日記です。そこには光秀の家臣を「信長打談合衆」と記した箇所があります。光秀と公家が信長暗殺について相談していたともとれる記述です。
天正10(1582)年5月、暦の問題がおきてから3ヵ月後、信長は光秀を決定的に追いつめる出来事を起します。長宗我部氏に最後通牒を突きつけ、四国への遠征軍を編成したのです。
5月7日、信長は四国の処分案を明らかにしました…長宗我部氏の勢力圏とはお構いなしに讃岐と阿波は信長の三男・信孝と三好氏に預け、土佐と伊予の処分は後で信長が決めるというのです。遠征軍の出発日は6月2日と定められました。
このままでは長宗我部氏は滅亡、光秀の立場も危うくなります…長宗我部氏の文書には光秀の重臣・斉藤利光が信長の四国攻撃を憂い、光秀に謀反を促したという記述が残されています。
「明智殿謀反の事いよいよ差し急がる」(『長宗我部元親記』より)…この頃、長宗我部氏と斉藤利光が何らかの連絡を取っていたことをうかがわせる記述です。
光秀は重臣からも信長討つべしという突き上げを受けていたのです…本能寺の変まであと3週間の事です。
光秀決断す!
そして本能寺の変へ
東京大学、ここに本能寺の変にかかわる重要な資料が残されていました…北陸の戦国大名だった上杉景勝の実績を記した『覚上公御書集』…信長に敵対した上杉景勝の記録や書状を江戸時代になってからまとめたものです。
上杉家の一部の人しか閲覧が許されなかったため、長い間、詳しい研究が行われていませんでした。
この中に明智光秀の名前が記された書状があります。…日付は6月3日、本能寺の変の翌日に綴られた書状です。
一昨日とは6月1日、本能寺の変の前日の事、この日に上杉方が重大な情報を掴んだという事が記されています。
「明智光秀が越中の魚津に使者をよこしてきた」(『覚上公御書集』より)…魚津は当事、上杉家の勢力圏でした。光秀は本能寺の変の前に信長の敵、上杉氏に使者を送っていたのです。
その使者が伝えた内容は驚くべきものでした…「後当方無ニ御馳走」(『覚上公御書集』より)
後当方=上杉氏
御馳走=最大限の援助
この言葉使いからして上杉氏が援助すべき相手は、将軍・足利義昭であったと推察されます。
つまり光秀はかつて信長と敵対し、都を追放された義昭のために上杉氏が働くようにと伝えていたのです。光秀はこの時すでに信長に反逆し、諸大名と連繋して義昭を担ぎ上げ時代を再び室町の世に戻そうと考えていたと見ることができるのです。
光秀はこの書状を何時したためたのか…当事の交通事情では使者が上杉氏の下に到着するにはどんなに急いでも一両日、場合によっては一週間程度の日数を要したと考えられます。
光秀は6月1日より、かなり前に信長打倒を決意し、諸大名に呼びかけていた…すなわち本能寺の変は決して突発的な事件ではなく、極めて計画性の高い大掛かりなものであった事がわかるのです。では光秀はいったい、いつ謀反を決めたのか…。
天正10(1582)年5月中旬、光秀は安土城で徳川家康を接待中に突然、中国地方に出陣せよという命を受けます。その夜、準備のため居城へ戻った光秀に信長からの使者が来ました。
何事かといぶかしむ光秀に使者は次のように伝えたと『明智軍記』に記されています。「光秀の丹波、近江の領地は召し上げ、代わりに出雲・石見をあてがう」
この時、光秀の胸中には様々な思いがよぎったに違いありません…丹波・近江はかつて信長のために粉骨砕身した褒美として与えられた領地であったはず。こここそ自分の領地として今日まで営々として領民を愛しんできた。
それを召し上げ、今だ敵の領地である出雲・石見へ行けという、武士を土地から切り離し、全国どこへでも行くように命じようとする…信長の政策はこれほどにまで容赦のないものだったのか…顧みれば四国の長宗我部氏もまもなく同じ運命にあおうとしている。
義理や名誉を重んじる光秀にとって、自分を頼ってきた長宗我部氏が過酷な処分を受けることは耐え難いことでした。四国遠征軍の出発日は6月2日に迫っています。
そして奇しくも同じ6月2日、信長は京の都にいるはずでした…中国地方出陣を前に何事かを朝廷に言上する予定であったからです。
もはや信長をこのままにしてはおけない…光秀の胸中に殺意が固まったのは、この時であったはずです。
天正10(1582)年5月26日、光秀は軍勢を連れて居城を出発、しかし中国地方へ向かうことは無く、都の近くにとどまり続けました。
5月29日、信長もまた都に入り、本能寺に到着…引き連れているのは僅かな供廻りだけでした。
6月1日、公家たちの訪問を受けた信長は、突然朝廷への要求を突きつけました…2月に要求した暦の変更を再び強く迫ったのです。このままではいずれ信長の言いなりにならねばならぬ事は明らかでした。
6月1日深夜、闇の中を本能寺を目指し進む大軍がありました…光秀の軍勢です。明け方近く軍勢は、信長のいる本能寺を囲みます。
天正10(1582)年6月2日未明、光秀は全軍突入を下知、炎の中で信長は、49年の生涯を終えました。
6月5日、光秀は安土に入城、各地に室町時代の領主を呼び戻し、古い体制を復活させようとしました。
6月7日、朝廷の勅使が光秀を訪れ、京都の守護を命じると伝えました…朝廷は光秀の行動を認めたのです。その頃、都の公家たちは度々宴を開き、大酒を飲んでいたと当事の貴族の日記に記されています。公家たちは信長の死を祝うかのような行動をとっていたのです。
信長に追放された室町将軍・足利義昭は本能寺の変を知るや各地の大名に書状を送りました…「信長を討ち果たした上は、急いで京の都へ上るための援助をせよ」義昭はあたかも自分が信長を討ったかのような態度をとりました。
朝廷、公家、将軍、信長に反対していた勢力いずれもが光秀の行動を支持しています…光秀が構想する古い時代への秩序と伝統の復活は成し遂げられたかのように見えました。
しかし、光秀が予想だにしなかった事が起こります…中国地方で毛利氏と戦い、当分は釘付けになっているはずの秀吉が軍勢を引き連れて京の都に迫ろうとしているという報せが入ったのです。
6月13日、態勢の整わぬまま秀吉を迎え撃った光秀は、天王山の戦いで惨敗、その後、落ち武者狩りにあって命を落としました。
信長の後継者として天下人となった秀吉は、朝廷と強調して天正13年には関白の座に就きます。秀吉は信長の反対勢力を政権に取り込むことで新たな時代を築いていったのです。
秀吉の政権には、かつて信長に敵対した人々が次々に参画しました…毛利、上杉、長宗我部などの諸大名に続き、終生信長と対立し続けた室町将軍・足利義昭までが1万石を与えられ秀吉のそば近くはべるようになりました。
天正15(1587)年、秀吉は大阪城を離れ、京の都の聚楽第に移り住みます…そして朝廷や公家とも密接な関係を結びながら政治を行ってゆきます。
秀吉が権力を確立してゆく過程で光秀は謀反人の汚名を一身に背負わされることになりました…諸大名も公家衆も本能寺の変に加担した可能性のいあった人々は皆口を拭い、秀吉の政権に参画することで身の安全を図りつつ証拠を隠滅したのです。
江戸時代以来、光秀の作であるとして伝えられてきた歌があります…「心知らぬ人は何とも言わば言え、身をも惜しまじ名をも惜しまじ」。
この歌は果たして光秀自身が詠んだものか否かはわかりません…しかし、後の世の人々が光秀の真意を推し量るよすなとしてこの歌を語り継いできたのは事実です。
共に日本の改革をこころざし、日本の将来を考えて行動しつつも目指す方向の違いから衝突し、志なかばにして倒れることとなった織田信長と明智光秀、二人の胸中に抱かれた夢と理想は大いなる歴史の空白として尚も本能寺の跡に眠り続けています。