旅cafe

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光秀はなぜ主人を見限ったか

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明智光秀(1528-1582)

光秀はなぜ主人を見限ったか

天正10(1582)年6月2日、明智光秀は本能寺に織田信長を襲撃し、これを討ちました。「本能寺の変」です。一世の革命児、信長は天下統一を目前にして炎の中に消えていったのですが、なぜ光秀は滅びる危険を冒して大恩ある主人に叛逆したのでしょう。

議論は古く、江戸時代から積み重ねられてきました。これをまとめると、怨恨説、将来悲観説、野望説、朝廷黒幕説、足利義昭黒幕説などになりますが、最近注目を集めているのが、四国出兵説です。

その内容は、次のようなものです。信長は光秀に、四国の長宗我部元親の取次(これまで、何回か言及してきた、あの取次です)を命じていた。光秀はこの負託によく応え、長宗我部家の帰順、というところまで話を進めていた。

もちろん、信長の了承を得て。ところが、信長は突如、方針を転換した。長宗我部家は武力討伐の対象とする、と表明したのだ。

取次としての光秀の面目は丸つぶれ。羽柴秀吉との出世レースにも、おくれを取ることになる。そこで光秀は叛意(はんい)をつのらせ、織田信孝丹羽長秀の四国討伐軍が堺を船出するというタイミングで、本能寺の変を起こした…。

以前に書いた本の中で、私はこれを「珍妙な考え方」と一蹴してしまいました。でも、これは私の誤りでした。いま私は反省するとともに、考えを改めています。「四国出兵説」は十分考慮に値するのではないだろうか、と。

考えを改めた理由は2つあって、1つは斎藤利三の再認識です。私は光秀が取次として働くうちに、重臣の利三の妹を元親の妻とした、と誤解していた。四国を征服しようかという元親が、織田家の家来の光秀、そのまた家来の利三の妹なんかを妻にするのかな。うさんくさいな、と勝手に思っていました。

ですが、違った。利三は美濃斎藤家の嫡流なのですね。ものすごく家格の高い人なのです。だから、彼の妹(異父妹。

幕臣石谷光政(いしがい・みつまさ)の娘)が元親の正室(かつ、嫡子である信親の母)なのは全く不自然ではない。

順序は逆で、利三と長宗我部の縁戚関係が先。光秀が利三を家臣の列に加えたのがあと、なのです。

理由のその2は、四国の再認識です。正直なところ、私の中では四国の評価が低かった。それは、長宗我部家の評価が低かったことと連動していました。

歴史好きな女性(いわゆる歴女)のあいだでは、なぜか長宗我部元親は大人気です。

ですが本能寺以後、長宗我部家にはいいところがない。豊臣秀吉の軍にはあっさり降伏するし、九州の島津攻めに加わっては、戸次川(へつぎがわ)の戦いで大敗。関ケ原の戦いでは戦闘に参加できぬまま、家は取り潰し。

だから、信長の元親評「鳥なき島のコウモリ」が言い得て妙で、四国はまさに「鳥なき島」。その地の制圧に関わる取次といっても、たいした重責ではないだろう、と。

いやいや、とんでもない。これまで書いてきたように、四国は「都」の一部。四国を平定しなければ、天下を統一したことにならない。

長宗我部家の取次の責務を全うすることは、とても重い任務だった。その功績を認めてくれない主人に対して、光秀が叛意をもっても不思議ではないくらい、の。いまはそう考えています。


春日局(1579-1643)
名は福。父は斎藤利三。母は稲葉一鉄の娘。利三が光秀から預けられていた丹波黒井城(兵庫県丹波市)で生まれたという。本能寺の変後に父が刑死すると、伯父の稲葉重通(母の兄)の養女となり、小早川家家老の稲葉正成に嫁ぐ。のち3代将軍家光の乳母となり、大奥の制度を確立した。

本郷和人 東大史料編纂所教授