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「信長死すべし」決断の真因は

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織田信長(1534-1582)

「信長死すべし」決断の真因は

明智光秀は、なぜ織田信長に謀反したのか。それは邪馬台国の場所はどこか?坂本龍馬暗殺の真犯人は誰か?とともに、日本史上の3大ミステリーなのだそうです。私は古代史はよく知りませんし、坂本龍馬暗殺犯は今井信郎じゃないの?くらいしか言えません。

議論に参加できるのは、本能寺の変くらいなので、もう一度取りあげてみたいと思います。

光秀謀反の理由としては、繰りかえしになりますけれども、怨恨説、将来悲観説、足利義昭黒幕説、朝廷黒幕説、イエズス会黒幕説、それに四国出兵説など、多様のものが提案されています。私が解釈の基本としたいのは野望説といわれるもので、史料編纂官を務め、国学院大学教授でもあった高柳光寿(1892-1969)によって提起されました。

本能寺の変当時、織田家の有力部将は地方にいて、強敵と戦っていました。羽柴秀吉は中国の毛利氏と、柴田勝家は越後の上杉氏と、滝川一益は関東の北条氏と、それに丹羽長秀は長宗我部氏と戦うため四国に渡ろうとしていた。

加えて徳川家康は僅かな供と、畿内に来ている。これならば信長を討つのはたやすい。しかもそのあと、畿内をしっかりと掌握すれば、地方から反転してきた羽柴や柴田とも十分に戦える。信長に代わって天下人に昇りつめる、千載一遇のチャンスである。光秀はそう判断し、反逆に踏み切った。

まさに、ありきたり。シンプルこの上ない説です。でも冷静な史料批判によれば、信長と光秀のあいだに格別な確執は認められない。一級史料である宣教師の記述からすると、二人は合理的な性格で、相性も良かったはずです。

たしかに全国の統一事業が完成すれば、地方には飛ばされるでしょう(薩摩島津領とか、仙台伊達領のイメージです)けれど、そんなことで将来を悲観する必要はないだろうし。

黒幕説への反証としては、変後の光秀の行動を挙げれば十分です。朝廷にせよ、足利将軍にせよ、伝統的権威から命令を受けているのなら、それを声高に主張して、一人でも多くの味方を募るはず。でも彼はそれをしていない。ということは、黒幕なんて本当にいたの?

また、他の説を否定する以上に重要なのが、当時を支配していた価値観の検討であって、それこそが「下克上」です。

とくに室町時代後期から、格式やタテマエが尊重されていた日本社会に、実力やホンネが台頭してきた。力のある下の者が、能力の乏しい上の者を倒す。

それが社会の風潮だったわけです。だったら、光秀がその例外である必要はない。光秀はたとえば松永久秀荒木村重(むらしげ)らが謀反したのと同じく、今こそ好機だ!と信長を襲った。それが実情だと思うのです。

加えて、その光秀の背中を押したのが、前回に記した「四国出兵」説です。せっかく苦心して長宗我部家を説得してきたのに、いまさら武力討伐に方針を転換するだと? 私の面目は丸つぶれじゃないか。上様のやりようはひどすぎる…。

そんな信長への不満が、いつもは心の奥底に秘めていた野望を一挙に燃え上がらせた。かくて光秀は軍を返し、京都本能寺を目指したのではないでしょうか。


織田信忠(1557~1582)
信長の長男で、後継者。本能寺の変が起きたときに、京都の妙覚寺に滞在していた。信長自害の報を聞くと二条御所に立て籠もって明智軍と戦い、父のあとを追った。もしも信忠が京都からの脱出に成功していたら(織田長益(ながます)や前田玄以(げんい)らは逃げ延びている)、歴史はどう変わっていただろうか。

本郷和人 東大史料編纂所教授