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織田信長の城革命 天下統一への知られざる戦略

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NHK 先人たちの底力 知恵泉スペシャ
信長の城革命 天下統一への知られざる戦略

人間五十年
下天のうちを比ぶれば
夢幻のごとくなり
(信長が愛した舞『敦盛』の一節)

織田信長といえば常識を打ち破るアイディアと非情ともいえるリーダーシップで天下統一の道を切り開いたと思いますよね。

ところが近年、信長の城の発掘調査が進み、城にこそ信長躍進のカギがあるのではないかと考えられるようになってきました。

1.信長が最初に築いた小牧山城、山頂から姿を現したのは謎の巨石、そこから見えてきたのは戦国初の意外な戦術でした。

2.信長が天下取りの夢に邁進した岐阜城、この嶮峻な山城で行ったのは戦ではなく、なんと ”おもてなし” 豪華な料理に鵜飼での接待、信長はいったい誰を招いたのか。

3.そして日本史の中に突如として現れた安土城、天下統一へのシンボルとする為、信長はどんな技術を結集させていったのか。

信長が築き上げた3つの城、日本の城の在り方に革命を起こし、天下取りの切り札とした信長の知恵を読み解きます。

 

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東京大学歴史編纂所 教授 本郷和人
「皆さん感じている信長のイメージとは、誰かが書いたものに従って、僕らが膨らませたもの、だから学問的にいうと『歴史文献学』んです。今回は信長が作ったもの、遺物、を媒介として…だから学問的には『歴史考古学』のお話をして行きます」


小牧山城の知恵
出土した『石垣』信長の狙いは?
愛知県小牧市、信長は30歳の時、ここに初めて城を築きます。小牧山城です…最近の最近の発掘調査で幅、1mを超える大きな石が次々と出土、小牧山は土の城と考えられていたため、この事実は衝撃でした。

今から450年前、信長は戦国大名が築いたものとして初めてといえる本格的といえる石垣を築いていたのです。

調査の結果、標高80mの小牧山の山頂付近に高さ最大3.8mの頑強な石垣が幾重にも巡らされていました。

 

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なぜ初めての城造りで石垣を積んだのか?…そこには信長が20代後半で直面した絶体絶命ともいえる窮地がありました。

永禄3(1560)年 桶狭間の戦い今川義元に勝利した信長は、勢いそのままに尾張一国の支配者となります。次の目標は隣国美濃、当時清州城にいた信長は美濃を支配していた斉藤義龍を攻撃します。

 

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しかし、何度出陣しても負け戦ばかり、信長は勢力拡大の糸口を掴む事が出来ませんでした。…家臣の中には信長を見限る者が現れます。

数々の戦で活躍し、前線の犬山城を任せていた、いとこの織田信清が敵に寝返ったのです。すると呼応するように小口城、黒田城も反逆、…織田信長は美濃攻略どころか家臣団の分裂の危機に瀕したのです。

 

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ここで信長は常識外れの行動にでます。織田家の居城、清州城を離れ、敵の城から僅か4キロにある小牧山にその本拠を移したのです。

 

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しかもそこは、砦や堀といった防御施設の無い未開発の地でした。一見すると捨て身とも思える行為、信長の勝算はどこにあったのでしょうか?

信長の知恵
シンボルを生み出し
衝撃を与えよ

新たな居城となった小牧山は、平野の中でひときわ目立つ山でした…今回の調査で敵のいる山の北側に最も高く石垣が積まれていたことがわかりました。

信長は、この石垣を敵に見せつけ、自らの動員力や統率力を示すシンボルとした事がうかがえます。…当時石の運搬は、屈強な男たちが掛け声を出して引っ張る大仕事、山の回りでは敵のスパイが情報収集にあたっていたと推測されます。

しかし、信長は山の木々を全て伐採し、あえて作業を隠す事はしませんでした。

小牧山教育委員会 小野友記子さん
「大人数は山中で毎日作業していれば、敵方からすると騒がしくもあり、いつ何時、その人たちが刀を手に向ってくるか分からない緊張感も常にあったと思います」

 

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東京大学歴史編纂所 教授 本郷和人
「時際にも抜群の効果があったのです。…『信長公記』(信長の一代記)にも小口城が小牧山城の築城を見て 「これはかなわん」 と降伏して城を明け渡しています。…また尾張というのは統一されて間もない時期なのに裏切る家臣が殆ど出てないんです…そういう両面の意味が小牧山城、築城にはあったと考えられています」


岐阜城の知恵
天下布武』を打ち出した岐阜城
岐阜の町にそびえ立つ金崋山、標高300mのこの山全体が岐阜城です。天守かからは、尾張と苦闘の末に信長が手にした美濃が一望できます。

 

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永禄10(1567)年、岐阜城に移った信長は、次なる目標を打ち出しました。…”天下布武” 武力による天下統一を意味する刻印をこの城で使い始めたのです。

実は天下統一に向けた信長の戦略を知る上で重要な手掛かりが近年、見つかったのです。…5年前から続く発掘調査で城の一角から15000平米に及ぶ信長の屋敷跡が見つかりました。

検証の結果浮かび上がってきたのは戦国時代の城としては比類のない、巨大庭園を持った迎賓館でした。

 

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・清らかな湧水を引きこんだ池が4つ
・急な斜面を巧みに利用した滝

なぜ信長は軍事施設である城にこれほどの迎賓館を作ったのか…

信長の知恵
人脈づくりは ”場” にこだわれ!

当時の信長は、尾張と美濃の二国を支配したにすぎない、一戦国大名、天下統一のためには…

・公家との親睦
・商人からの支援
・有力大名との戦略的同盟

これらが不可欠でした…それで人脈づくりの場として細部までこだわった迎賓館を作ったのです。当時、京の都でしか見らせないような贅をこらした手法、資材をふんだんに使用した庭園でした。

 

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日本庭園の黄金期といわれた室町時代武家の最高位に君臨した歴代の足利将軍たちは、自らの邸宅に庭園をつくり、様々な人を招いていました。

京都造形芸術大学 仲隆裕 教授
「邸宅の中に庭園をつくる、これは将軍のステータス。天下の覇者を目指す信長にとっては、やはり自らの邸宅に最高の庭園をつくる必要があったんだと思います」

天下統一のための人脈づくり、その切り札として岐阜城に造ったのが国内最高峰の迎賓館だったのです。

東京大学歴史編纂所 教授 本郷和人
「信長の人間洞察です…
・商人をもてなす ⇒ 鉄砲が入ってくる(軍事)
・朝廷の貴族 ⇒ 政治力
戦国大名の家臣 ⇒ 外交
…こうして人脈をどんどん広げていったんです」

このようなもてなしを受けた公家は、次のように言い表しています。
『言語不可説』(言継卿記)…言葉に表す事ができない。

 

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安土城の知恵
天下統一へのシンボル 安土城天正7(1579)年 築城)
メードインジャパンの伝統を生かせ!!
琵琶湖のほど近くにある安土城、信長がこの城を建てたのは宿敵、武田氏を長篠の戦いで破り、天下統一の仕上げにかかる時でした。

城郭研究家 加藤理文さん
「石垣が小牧や岐阜よりも圧倒的に高いでしょう…」

 

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高さ5mを超える石垣、これほどの石垣を使ったのは安土城が初めてでした。…それに加え、城の要所要所に巨石を積み上げその権威を一目で示そうとしています。日本の城の姿を大転換させてきた信長、ここ安土城でも持てる知恵を凝縮させています。

贅をこらした天守内部、全体は緊迫で覆われ、壁には見事な障壁画(狩野永徳作)…信長は安土城を作るため全てにおいて一流の技を求めました。

石垣を積む技術、宮大工の技術、彫金の技術、漆塗りの技術、職人技の結晶は、城を戦のための無骨な建物から ”見せる為のもの” へと変化させたのです。

古くからあるものを生かし、新たなものを築いて行く信長の知恵が天下統一へ御シンボル、安土城の建設を実現に導いたのです。

城郭研究家 加藤理文さん
「信長は、全く隙のないクオリティーの高いものを完成させる事によって、”この人に逆らってはいけないんだ” と知らしめる…それが戦わずして日本を平定する近道だと信長は考えたのではないかと思います」

東京大学歴史編纂所 教授 本郷和人
「信長は、俺の権力はこうだから逆らったって無駄だぞ…ということを安土城でいってたんです…だからピカーって光る天守閣が必要だったんだと思います」

天下統一への戦略が込められた安土城天守
それは信長の姿そのものだったのかもしれません。