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戦国最強の鉄砲集団、信長と戦う! 雑賀衆とそのヒーロー 鈴木孫一 奇跡の大逆転

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NHK 歴史秘話ヒストリア
戦国最強の鉄砲集団、信長と戦う! 雑賀衆とそのヒーロー 鈴木孫一 奇跡の大逆転

 

episode1
信長、撃たれる!
謎の鉄砲集団 登場
15世紀末より、日本は各地の大名たちが群雄割拠する戦国乱世に突入、その中から台頭してきたのが織田信長でした。桶狭間の戦いで劇的な勝利をおさめ、その後、強豪たちを次々と撃破して行きます。

近畿一帯を瞬く間に、勢力下におさめていった信長、その信長の支配をかたくなに拒んだのが比叡山延暦寺長島一向一揆越前一向一揆、でした。

元亀2(1571)年、信長は京都を中心に信仰を集めていた比叡山延暦寺に攻め込みます。僧侶はもちろんの事、近隣の民衆に対しても容赦なく攻撃を加え、壊滅させました。

長島や越前までも屈服させた信長、その総仕上げとして狙いを定めたのが石山本願寺です。浄土真宗門徒をたばねる一大勢力でした。

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後に豊臣秀吉の居城として知られる大阪城、戦国時代この地は石山本願寺があった場所でした。支配者から信者を守るため、僧侶・顕如は高台に堅固な石垣を築き、独立と自治を保っていました。

天正4(1576)年4月、信長は明智光秀などに命じ精鋭軍を編成、石山本願寺の攻略に乗り出します。…「いかに本願寺の備えが堅固であろうと武士もいない烏合の衆、大軍で攻めればひとたまりもあるまい」、というのが信長の読みだったのでしょう。…信長軍の作戦は、石山本願寺を四方から囲み、退路を断って一気に叩く、というものでした。

天正4(1576)年5月3日、信長軍の先方が突撃を開始、しかしその時、思わぬ事が起こりました。ろくな武器もないと思われていた石山本願寺側から突如、鉄砲の一斉射撃が行われたのです。…しかもその射撃は極めて正確なもの、信長軍は多くの兵を失います。

信長軍、苦戦の一方は後方の京都で戦いの結果を待っていた信長にただちにもたらされました。…信長はこの時、「寝巻のままで飛び出していった」(『信長公記』より)と記録されており、いかに予想外の事態であったかがうかがえます。

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精鋭揃いだった信長軍がなぜここまで苦戦したのか…『信長公記』から読みとれます。圧倒的なのは石山本願寺側の鉄砲の数、数千丁と記されています。…信長軍が持つ鉄砲を遥かに上回る数でした。

しかも銃弾は 「雨のように間断なく浴びせられた」 とあり、信長軍に逃れるすべはなかった事がわかります。

急ぎ信長は大阪に駆けつけ味方の軍勢を立て直して、総大将自ら指揮を執ったことで戦況は激変、信長軍は一転優勢となりますが…一発の銃弾が馬上の信長を貫きます、…『信長公記』によれば信長は足を撃たれる深手を負いました。

百戦錬磨の信長の命をも脅かした本願寺軍、…実はこの戦に備えて本願寺側が特別な助っ人を読んでいた事がわかっています。その名は、『雑賀衆』…リーダーは、鈴木孫一という人物、鉄砲を携えた紀州の民を束ねて本願寺軍の主力となっていました。(『言継卿記』より)

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雑賀衆の強みは大量に装備していた最新鋭の鉄砲、しかもそれを誰にも真似できない技で操れることでした。

この戦で雑賀衆とともに戦った毛利家に伝わる資料『陰徳太平記』には、…「50人の部隊を25人づつに分けて合図で撃たせる」 というものだったとあります。

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1組の部隊を2組に分けて撃つ…玉ごめの時間のロスを補うため、交代で撃ったのです。この戦法の実施には密集しながらも火薬を素早く正確に扱う技術が必要、説法を知り尽くしていた雑賀衆のみ可能な戦法だったのです。

交代しての射撃といえば、信長が長篠の合戦で用いたとされる戦術が有名ですが、当時の記録にその記述はなく、近年では伝説にすぎないと言われています。…信長軍でも不可能なほど難しい戦法だったのです。

雑賀衆の予想外の奮戦に苦しめられた信長、この戦いで石山本願寺を落とすには至らず、やむなく和睦を結ぶ事になりました。

和歌山市立博物館 総括学芸員 大田宏一さん
「これほど信長を苦しめた例というのはあまりありません。雑賀衆がかなり信長にとって手ごわい相手だった…信長の全国統一という野望が遠のいてしまったのです」

天下統一の野望を思いがけない伏兵に阻まれた信長、復習に燃える信長は、雑賀の故郷、紀州に直接乗り込んで行く事になるのです。

 

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episode2
戦国最強の鉄砲集団、誕生の秘密

延々と連なる紀伊半島の深い山々、険しい地形によって京の都と隔てられた紀州の地は、権力者たちの支配が及びにくく古くから民衆による自治が行われてきました。

それと信仰です…雑賀の地では室町いらい、浄土真宗真言宗などが広く根付き、仏への熱心な祈りが続けられてきました。…こうした厚い信仰心によって雑賀の人々は強く結び付いていったのです。

戦国時代、雑賀衆と呼ばれたのは、紀州の海沿いの5つの里に住む人々、多くは漁業や農業を営んでいた。…当時の自治を物語る資料(雑賀衆起証文)があります。記されているのは連名で書かれている11人の代表の名、…

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特に定まった主君を持たず、代表者による合議制で物事を決めていたことがわかります。

和歌山市立博物館 総括学芸員 大田宏一さん
雑賀衆は今で言う民主主義のルールのようなシステムを持っていたのです。 ”多分の儀” といいますが多数決を行って議事をしていく、そして『惣国』の国の判断を舵取りをしていったのです」

『惣国』とは村々の集まりによる自治集団、室町時代その一つとして生まれた雑賀衆は、大名や貴族の支配を拒み、独立を保っていたのです。

しかし、やがて戦国大名たちが全国統一を目指すようになると各地の惣国の自治は脅かされ、大名の武力による支配下に組み込まれるようになります。

この時、雑賀衆が手にしたのが当時ポルトガルから日本に伝わってきたばかりの最新兵器「鉄砲」でした。…種子島に伝来した鉄砲の内の一丁だ紀州にもたらされたのがきっかけといわれ、戦国末期にはそれが数千丁にも増加していたのです。

希少で高価だった鉄砲をなぜ雑賀の人は、それほど沢山入手できたのでしょうか。…和歌山市内には鍛冶屋町という場所があります。昔から鍛冶屋が集まっていた場所の名残です。

鉄砲鍛冶12代目 出来可也さん
「海に面していたことで砂鉄を輸入したり、国内からでも海路を使って沢山入れる事で鉄製品は出来ます…鉄を加工する技術というのは優れたものがありました」

当時、雑賀の地には良港があり、国内だけでなく海外とも交易を行っていたのです。…海のルートで鉄などの原料だけでなく鉄砲自体の輸入も行い数を増やしていったのです。

大名を遥かにしのぐ鉄砲を保有していた雑賀衆、やがて高度な射撃術も発達して行きました。…毛利家に伝わる資料『陰徳太平記』には雑賀の射撃の名手を指す記述があります。

「名手として評判、下針、小雀、蛍」それぞれの特技を現したあだ名です。
・下針:遠くに吊るされた針に弾を当てられる
・小雀:素早く飛び回る雀をしとめられる
・蛍:夜目が効く

こうした環境の中に戦国の世にリーダー的存在として頭角を現したのが孫一でした。…孫一によってまとめられた雑賀衆は、やがて大名の攻撃に苦しむ石山本願寺などから支援を請われるようになったのです。

自由と信仰を守る民衆の切り札となった雑賀衆、全国支配を目論む信長とのやがて訪れる全面対決は宿命だったのかもしれません。

和歌山市立博物館 総括学芸員 大田宏一さん
雑賀衆が考えていたフラットなヨコの連合体、それを信長は許さない…信長は縦社会の秩序、主従関係の主人と家来、武士と百姓、という秩序を作ろうと考えているので、そこが相いれない…どうしても抵抗しなければならない理由でした」


episode3
秘密兵器は「壺」!?
雑賀衆 奇跡の大逆転

天正4(1576)年、信長は天下統一の拠点、安土城に入城します。…この前年、信長は長篠合戦で最大の脅威であった甲斐の武田家を撃破、返す刀で未だ攻略できずにいた石山本願寺の主戦力である雑賀衆を討つ事を決めます。

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天正5(1577)年、信長軍が向かったのが紀州、雑賀の本拠地・紀州を直接攻め、雑賀衆そのものを滅ぼす作戦でした。

前回、雑賀衆の鉄砲に手ひどくやられた信長は、10万の大軍に加え大量の鉄砲も用意、長篠の合戦を経て将兵もこの頃には鉄砲の戦に慣れて来ていたのです。

10万の信長軍に対して迎え撃つ、雑賀衆は僅か数千人、兵力の差は一目瞭然でまともにぶつかれば勝敗は明らかでした。しかし地元の記録(『紀伊国名所図会』)によるとこの時、雑賀衆は一歩も引かず、秘策を持って信長の大軍に挑んだ事が記されています。

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信長の精鋭部隊は秋葉山にこもる雑賀衆に攻撃を開始、一気に川を渡ります。待ち受けた雑賀衆が鉄砲で狙い打ったのです…川底に事前に壺・桶を埋めておいて馬が立ち往生、竿立ちになる…止まっている標的は面白いように命中するのです。

「つわものどもが多数討ちとられた」(『信長公記』より)

一気にかたをつけるつもりが思惑を覆されてしまった信長軍、うかつに攻撃が出来なくなり思わぬ長期戦を強いられます。

対して雑賀衆は地の利を利用してのゲリラ戦に出ます。雑賀衆の粘り強い攻撃で戦いは泥沼状態が一月続いたのです。

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信長にとってこの戦いの長期化は望ましいものではありません…当時、中国地方の毛利家、越後の上杉家と信長は戦う相手を背後に抱えていたのです。

天正5(1577)年3月15日、戦は思わぬ形での決着となりました。…記録に残されているのは、何と ”赦免” 信長は、『赦してやる』という言葉を残して兵を引いてしまったのです。

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ポルトガル宣教師、ルイス・フロイスの記録によれば、信長は再び8万の軍勢を率いて雑賀の里へ攻め込んだといいます。しかしまたも雑賀衆を倒す事は叶わず、多くの兵を失ったとされています。

石山本願寺の合戦に始まり、3度も信長と渡り合ってその全ての戦で互角に戦った雑賀衆、…最強の鉄砲集団、鈴木孫一たちの武勇は戦国の世に轟く事となったのです。

3度に渡って信長を退けた雑賀衆、しかしついに滅亡の時が来ます。

天正13(1585)年、雑賀に攻めよせたのは、本能寺の変の後、信長の後を継いだ羽柴秀吉でした。…秀吉もまた雑賀衆を天下統一の最大の障害と考えていました。

10万の大軍を率いてきた秀吉は、全長7キロにわたる堤防を建設し、雑賀衆がこもる大田城に水攻めを実行、得意の鉄砲を封じる大規模な作戦を前に雑賀衆はなすすべもなく敗れました。

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ここに室町以来、100年にわたり自治を続けてきた雑賀衆の歴史は幕を閉じたのです。

大田城落城当日の4月22日、秀吉は降伏した雑賀の民衆から武器を残らず取り上げました。…これが有名な 『刀狩り』 の始まりだったのです。