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秀吉はなぜ家康を“厚遇”したか

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秀吉はなぜ家康を“厚遇”したか

天正18(1590)年、豊臣秀吉の攻撃によって、さしもの天下の名城・小田原城も落城。五代百年の繁栄を誇った北条氏は滅亡します。

空白になった関東の地にだれを封じるか。一説によると 「名人・久太郎」 こと堀秀政もその候補だったということですが、彼が小田原戦の最中に病没したこともあり、結局は徳川家康が東海地方から移ってくることになります。

歴史好きな方はご存じだと思いますが、家康の新領国は約250万石。一方で秀吉の直轄地がおよそ220万石。なんと家臣である家康の方が、多い。ちなみに後の徳川将軍家天領が400万石、旗本知行地が300万石、あわせて700万石。

この圧倒的な数字から見ると、秀吉と家康のバランスは実に奇妙です。なぜ秀吉は、家康をこんなに厚遇したのだろう? 私は不思議でなりませんでした。

それに対して一定の解答を与えてくれた考え方が、前回とりあげた 「遠国」 の論理でした。室町幕府は東は東北・関東、西は九州を 「遠国」 もしくは 「鄙(ひな)(いなか、ということです)」 と認識していて、この地については、将軍の思うとおりにならなくても、まあいいやと放っておいた、というものです。織田・豊臣政権も、前代のこの室町幕府の認識を継承していた、と想定したらどうでしょう?

信長にとって、また、秀吉にとって、一番大事なのはむろん京都・安土・大坂・伏見を含む畿内なのでしょうけれども、次いで大事だったのは中部・中国・四国地方

室町幕府が称するところの 「都(鄙に対する先進地域、の意)」 だった。東海地方にある家康の本領を取り上げて、 「鄙」 にほうり出してしまいたい。そうすれば領地が拡大しようとも、徳川家の勢力を実質、そぐことができる。秀吉はそう考えたのではないでしょうか。

山本博文氏の 『天下人の一級史料』(柏書房、平成21年)を読み返してみて、今更ながらにああ、そうか、と思いました。というのは、秀吉は全国一律にあの 「刀狩り」 令を発しているわけではないのですね。

この法令は島津征伐の実施に際してのもので、刀を差し出せ、と命じているのは九州に対してです。次いで、その後に出兵の対象となった関東・東北でも適用された。つまり、 「都」 地域は 「刀狩り」 の対象から外れていた。

統一政権の成立と天下の平和を宣言し、勝手な戦いを止めるように呼びかけた 「惣無事令」。前回ふれたように、これも、これから関東以東と九州を制圧しようという時点で出されています。

さて、そこでまとめて考えてみると、次のように言えるのではないでしょうか。天正14年、前年に四国を制した秀吉のもとに徳川家康が赴き、臣下の礼をとった。これにより名実ともに「都」地域は豊臣政権下に組み込まれ、天下統一事業、第1弾が終了した。

信長からの懸案であった 「天下統一」 は、実はこのときにほとんど達成されたのであり、4年後の小田原落城による「鄙」地域の制圧=天下統一事業第2弾、これは秀吉にとっては「おまけ」のようなものだった。おまけ、はちょっと言い過ぎかもしれませんが、都と鄙の戦いは、矛を交える以前に、勝負がついていたように思えます。

天下人・秀吉
この肖像画を所蔵する西教寺大津市坂本にあり、天台宗の一流、天台真盛宗の総本山である。15世紀末、真盛上人が中興の祖となり、戒律と念仏を重視、朝廷の崇敬を得た。近江坂本城主であった明智光秀との縁が深く、有名な光秀の肖像は同寺に伝わっている。

本郷和人:東大史料編纂所准教授