NHK歴史秘話ヒストリアより
戦国の世を最後に制した男 徳川家康・・「織田がつき羽柴がこねし天下もち座りしままに食うは徳川」 天下統一までを謳った江戸時代の落首ですがまるで家康は楽して天下を捕ったみたいですが・・・??
実は、若き日の家康は楽するどころか度重なり降りかかる無理難題に悩まされながら必死に前に進む日々を送っていたのです。
episode1 ぼくが ”家康” になったわけ 名前が秘めた運命
天文11(1542)年 徳川家康は、三河の国(愛知県)松平家に生まれました。幼名は「竹千代」 松平家の後継ぎに付けられる由緒正しく縁起の良い名前です。
しかし当時の松平家は、西の織田家、東の今川家という大国の争いに巻き込まれ両家の顔色を窺いながら生き延びる有様でした。
竹千代最初の最初に悲劇は母との別れ、松平家が今川寄りに対して母の実家は織田寄り、離縁で竹千代は3歳で母を失います・・6歳で人質とし尾張の織田家に送られる・・更に2年後、織田と今川の取引の駒(人質交換)として今川家の本拠地・駿府に送られる。
しかし竹千代の駿府での教育係は、太原雪斎 これは今川家の跡取りに準じるほどの高待遇、14歳で元服する際は、今川家より見事な鎧を送られます。
極めつけは名前・・今川の当主義元は、自分の名から一字「元」を与え、「松平元信」 と名乗らせます・・これは人質としては異例の扱いです。
(今川義元の後継ぎ・氏真がダメ息子だったので竹千代を補佐役として育てようとした)
「元信」 の名には今川の一員として生きよという意味が込められていたのです。
しかしこの高待遇はとても危険なものだったのです。
弘治2(1556)年 元信15歳の時、父親の法事の為、久々に岡崎への帰国を許されます・・そこで見たものは、鍬を手に畑を耕しているのが農民ではなく武士、なんと自分の家臣だったのです。
領主だった父親が死に後継ぎの元信が不在の三河には、今川から代官が派遣され三河から取れる農作物を召し上げられて松平の家臣たちは貧しさにあえいでいたのです。・・更に今川が織田と戦をするたびに危険な先陣を命じられ命を落としていったのです。
「今川が自分を優遇するのは、三河の武士を利用する為なのだ」 と元信は気付きます。
家臣を苦境から救うには、自分が三河に戻るしかない・・ここで元信は名前を改めます・・かつて三河の国を統一した英雄、祖父「清康」 から一字もらい受け、「元康」 とします。
今川の子飼いではなく松平家の当主として生きてゆく自覚と決意を新しい名前に込めたのです。
この後、元康は三河武士を率い今川軍の一員として宿敵・織田信長との戦いに臨みます・・「戦いで功績を上げ三河に戻る事を今川家に認めてもらおう」 と奮戦します。
しかしどれほど功績を上げようと今川義元は、元康が三河に戻る事を認めようとしません・・はがゆい思いで過ごす中、19歳になった元康に大きなチャンスが訪れます。
永禄3(1560)年 元康19歳 今川義元は上洛を果たすため2万5000人の軍勢で通り道の尾張に侵入します。・・ここでいわゆる ”桶狭間の戦い” が起こるんです。
信長を倒して尾張が手に入れば三河は敵との緊張状態から解放され境遇は良くなるはずです。・・この戦いは元康たちにとっても大事な戦でした。・・元康の任務は最前線に味方の城に兵糧を運びこむ事、しかし味方の城は敵地深くです・・危険極まりない困難を極めた作戦でしたが見事に成功させます。
ところがその直後、元康の下に衝撃的な知らせが届きます。そうです織田軍の奇襲に合い桶狭間で総大将 今川義元が打ち取られたのです。
今川軍は総崩れで駿府に引き返していったのです・・混乱の中、元康は駿府に戻らず三河に踏みとどまったのです。・・「自分は三河を見捨てるわけには行かない」 元康は単独で信長と戦い続ける決意を固めます。
ところが半年後、信長から元康に意外な申し出が届きます。・・長年の宿敵同士である ”織田と松平の同盟” 今川と手を切り織田と結ぶよう持ちかけてきたのです。
信長と結べば三河の独立が実現します・・しかし大国今川を敵に回して勝てる保証はありません。・・一方、信長との同盟を断れば信長が本格的に攻め込んでくるのは確実です。
どちらも危険な ”二者択一” ・・しかし元康の決断は信長との同盟だったんですね。
(今川にいれば今川の一員でしかない、今川保護国・・独立国ではないのです)
三河の独立を果たした元康は、今川義元から与えられた 「元」 の字を捨てます。。そして名乗ったのが 「家康」 だったんです。
「家康」 という名には、ギリギリの判断を迫られた若者がリーダーとしての一歩を踏み出した決意が込められていたのです。
episode2 家族か?信長か?信玄か? 家康究極の選択
織田信長との同盟で三河の西側との不安を解消した家康は、自分と同じく信長と同盟を結んでいた武田信玄と協力して今川領を攻撃、今川領の西半分の遠江を手に入れます。
一方、信長は美濃を攻め取り京都への足がかりを築く。
永禄11(1568)年 信長は上洛を果たします・・都へのぼった信長は朝廷や幕府を軽視し各地の大名を格下に見なしはじめます。
この信長の態度に大名たちは、反発し各地で兵を上げ、反信長包囲網を展開し始めます・・これに武田信玄も同調し、信長との同盟を破棄し信長を倒すため2万5000の大軍を西へと向かわせます。
ここで家康大ピンチ! 信玄の本隊が最初の目標としたのが信長と同盟を続ける徳川家康の浜松城だったのです。
武田軍の兵力は、家康軍の倍以上、まともにぶつかれば家康はひとたまりもありません。
しかし信玄は、なぜか家康の浜松城を無視して素通り、尾張へ向かおうとしたのです。・・これを見た家康は攻撃を決断、城を出て信玄の大軍に挑んだのです。
黙って見過ごせば戦わずに済むのにいったいナゼ??
武田軍を浜松で食い止めるのが信長との約束だったと推測されます。・・素通りするのを見送ったら信長から何を言われるかわからなかった・・信長に責められるのが家康は怖かったのだと分析します。
元々勝てる見込みの無いこの 「三方原の戦い」 で家康は武田信玄に大敗・・徹底的に叩きのめされ1000人近い兵が命を落としました。
これは惨敗の直後、家康が書かせた肖像画 「しかみ像」 です。自分の判断で大勢の命を犠牲にした家康はこれを生涯座右に置き自分を戒めたと言われています。
ところが家康の命がけの行動について信長が下した評価は、
「浜松表 不慮のていたらく」
家康の敗北を、なんとぶざまな事よと批判しています。
この辺りから家康に対する信長の態度は対等な同盟者から部下のような扱いに変わって行きました。
6年後の天正7(1579)年 38歳の家康を信長が更に追いつめる事件が幕をあけます・・信長から家康に下されたあまりに理不尽な命令 「家康は嫡男信康を処分せよ!」 ・・信長は家康の後継ぎ信康が武田と組んで謀反を企てていると疑い処分を求めてきたのです。
「これ以上、信長の身勝手に振り回されるくらいならいっそ武田と組んだ方がましだ」・・こんな声も出たようですが織田の後ろ盾がなければ徳川は立ち行かないのです。
家康は信康に切腹を命じ、更に正妻であり信康の母・築山の殺害も命じます。・・家康は信長の意図を斟酌し最も厳しい決断を下したのです。
家と家臣を守るため妻と息子を犠牲にした家康、記録はこう伝えています・・「家康公は涙にむせびあそばされていた」 徳川実記より
事件の後、家康は信長と力を合わせ武田との戦いに全勢力を注ぎ込みます・・武田を滅ぼした最後の戦いでは駿河を攻略する大手柄を上げます・・信長はその功績を称え家康に駿河の統治をゆだねます。
天正10(1582)年 家康41歳 事件から3年、家康は3つの国を治める大大名にへと成長しました・・理不尽に耐え、守り続けた信長からの信頼、家康は信長最大のパートナーとして飛躍を遂げたのです。
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episode3 対決!秀吉vs.家康 ”鳴くまで待とう” の極意とは
「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトホギス」豊臣秀吉
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトホギス」徳川家康
これは、秀吉と家康の性格をくらべた歌ですが家康は積極性に欠ける印象がありますが大きな誤解です・・家康はただ待つのではなく 戦略的な ”待ち” をしていたのです。
その神髄が発揮されたのが秀吉とのただ一度の直接対決
天正10(1582)6月2日
天下の大事件 「本能寺の変」 明智光秀の謀反により、織田信長(49歳)天下統一目前にして死す。・・信長の同盟者だった家康は、これまで苦労を重ねて得た地位を一夜にして失います。
しかし絶好のチャンスでもありました。
家康は兵を上げます。目指す敵は明智光秀、見事信長の仇を討てば新たな実力者として天下に名乗りを上げられる・・しかし信長の家臣、羽柴秀吉が誰よりも早く光秀を打倒、信長の後継者として大きくリードしたのです。
出遅れた家康にもはや出る幕はありませんでした・・この後、家康は京都を中心とした天下の行方に背を向けます。・・しかし家康はあきらめたわけではありません・・信長の死によって空白地帯となった東国の信長領に兵を進めたのです。
家康は、わずか一年で甲斐・信濃を手に入れ領地は130万石に膨れ上がります。
一方、信長の後を継いだ秀吉は更に勢力を伸ばし天下取りへの地盤を着々と固めつつありました。
別々の場所で急成長した二人の対決は避けられなくなります。
しかし秀吉の軍勢は数多くの大名を従えた大軍、一大名の家康に勝ち目はありません・・そこで家康は、秀吉に反発する勢力に呼びかけ秀吉包囲網を作る作戦を試みます・・四国の長宗我部、紀州の根来・雑賀衆、北陸の佐々、関東の北条と同盟を結ぶ事で秀吉を外から取り囲もうと言うのです。
しかし家康のもくろみは外れます・・大名の多くは秀吉の力を恐れて立ち上がろうとはしませんでした・・これでは家康に勝ち目はありません・・あきらめて秀吉に服従して家臣として生き延びるしかないのか!!
しかし家康が選んだ道は秀吉との決戦でした。
家康は戦いを挑む事で事態を打開し可能性を切り開こうとしたのです。
天正12(1584)年 小牧長久手の合戦
秀吉と家康は、尾張と美濃の国境近くの小牧で対峙します。
秀吉軍10万
家康軍1万6千
兵力を補うため家康は本陣の小牧山城に土塁を巡らすなど万全の備えをします・・この堅固な守りに秀吉軍は攻め込む事が出来ません。
一方、家康も動きません・・秀吉の大軍を前に小牧山城の守りに徹し続けるだけです・・家康は秀吉が隙を見せるのを待ち続けました。
にらみ合う事1ヵ月、「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトホギス」秀吉が我慢比べを破りました・・2万の別働隊を三河の中心都市岡崎に派遣、家康の本拠地を攻撃して家康を小牧山城から引きずり出そうと試みます。
家康は、この動きをいち早く察知するや一気に動きます・・なんと半数9000の軍勢で率いて秀吉の別働隊に向かい長久手で秀吉軍をとらえます。
家康軍のまさかの攻撃・・しかも思いもよらない大軍の攻撃に秀吉の別働隊は総崩れ、家康は待ちに待った末、勝利をおさめます。
ただちに軍勢を小牧山城に戻した家康は、その後も秀吉に城攻めの機会を与えず和睦へと持ち込みます。・・大将同士がぶつかっていない局地戦での勝利、しかし家康にとっては、これで十分でした。
”秀吉敗れる” この知らせは、またたく間に京都に伝わり、秀吉政権に関わる人は家康の実力に驚きます。
家康が必要としたのは、秀吉本人を倒すより 「秀吉に負けなかった」 という実績と名声・・その一瞬のチャンスをひたすら待ち続けたのでした。
天下に自らの実力を示した家康は、それを最大限に利用します。天下統一を果たした秀吉も勝負に負けた手前、家康に対し強く出る事が出来ません・・家康は、秀吉政権の下で特別な地位を築いたのです。
我慢比べのうえ秀吉を動かした家康、そこにはまさに 「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトホギス」 の極意が秘められていたのです。
家康は、この後、関ヶ原の戦い、大阪の陣を制し徳川の世を完成させると元和2(1616)年75歳でこの世を去ります・・まさに苦難と戦い続けた生涯でした。