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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

~日光東照宮 徳川家康と家光の絆~ 孫の私ががんばらねば!

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NHK 歴史秘話ヒストリア
孫の私ががんばらねば! ~日光東照宮 徳川家康と家光の絆~

世界文化遺産日光東照宮…日光といえば紅葉の一大名所、いろは坂中禅寺湖、更に日本三名爆の一つ華厳の滝もありますが…なんといっても日光東照宮です。年間200万人もの人々が訪れる日本を代表する観光名所です。

この日本一豪華な建物を作ったのが徳川幕府・3代将軍・徳川家光です。…実は、この東照宮の誕生には、母親の江と家光の関係が深くかかわっていたのです。

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実は、日光東照宮は夜、本当の姿を表わすんです。上記画像は、国宝・陽明門を撮影した写真、ご覧のように社殿の真上に丁度、北極星が輝いています。…徳川家康が宇宙にまでつながろうとした壮大でミステリアスな東照宮建築計画をご紹介します。


episode 1
日光東照宮 誕生ミステリー
家康の暗号を解読せよ!

慶長5(1600)年、天下分け目の合戦・関ヶ原の戦い…大勝利を収めた徳川家康は、天下の実権を握り3年後に江戸幕府を開きます。

慶長20(1615)年には、大阪夏の陣で豊臣一族を滅ぼし、天下人の地位は安泰かと思われましたが…この時、家康すでに74歳、体調を崩し駿府城にこもりがちになります。

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家康は不安を感じます。…「自分が死んだら幕府はどうなってしまうのか」…全国には、伊達に上杉・福島などつい最近まで覇を争った武将がまだ健在でした。

息子・秀忠をすでに二代将軍にしていたものの、まだ30代、自分・家康のカリスマ性によってかろうじて納まっている幕府、死後もその権威を保つ方法はないのか・・。

元和2(1616)年4月4日、死の2週間前、家康はある奇妙な考えを側近に告げます…「死後、関八州の鎮守とならん」(『本光国師日記』より)鎮守とは守り神の事、死んだ後なんと神となって関東と幕府を守ろうというのです。

いったいどういうことでしょう…京都に豊国神社の祭神は、実は豊臣秀吉…遺言によって神として祀られました。死後もこの世に魂を残し、カリスマ性を維持する事で支配に役立てようとしたのです。…家康も秀吉のやり方を踏襲したと考えられます。

東北大学助教歴史学) 曽根原理さん
「家康の頃には、まだまだ宗教的なものが力を持っていて、単に軍事力がある、身分が上だけでは人々は従ってくれません…ですから将軍の御先祖は、神様で日本を守ってくれているんだとううのは、非常に有効だった時代なのです」

家康は、そのやり方についても詳細な計画を伝えていました。それは極めて謎めいたもの…「自分が死んだら遺骸は久能山に納め一周忌の後、日光山へ魂を移せ」(『本光国師日記』より)。

元和2(1616)年4月17日、家康は駿府城で息をひきとります…すぐさま計画が側近によって実行に移されました。

遺骸が運ばれた久能山駿府城から8キロほどのところにあります。中世には霊場として知られた人を容易には寄せ付けない急峻な山です。…この山頂近くに急いで作った霊廟に遺骸は、その日のうちに葬られました。

そして一年後、また遺言に従って日光に移されました。どうしてこんな回りくどい事をしたのでしょうか?…それは、久能山と日光の二つの地点の位置に関係があるのです。…2地点を地図で見ると衝撃的な事がわかります…なんと2点を結ぶと丁度、富士山が線上に位置するのです。

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なぜ富士山が重要だったのか…実は富士山は古くから、日本最高峰の霊山とされ強いパワーを持つと信じられてきた特別な山でした。…中でも人々が期待したのが「不死」としての「富士」…不死の山を越える事によって家康は不死身の永遠の存在になろうとしたと研究者の間で考えられています。

日光には、もう一つ不思議な事があります…幕府の本拠地・江戸の丁度、真北に位置しているのです…北の空には不動の星・北極星、…つまり江戸から見て北極星を背負うように主要な社殿は建っています…家康が北極星を極めて重要視していた事がわかります。

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家康の念頭に有ったと考えられているのが中国の皇帝でした…中国・北京の世界遺産・天壇、中国を支配してきた歴代皇帝が祈りを捧げた場所です。その場所の中心に設けられているのが北極星を意味するマーク…北極星は宇宙の中心、つまり天の最高神である天帝であり、地上の皇帝・天子は天命を受けて地上を統治すると考えられていました。

長く中国を治めてきた皇帝がその権威の源としてきた北極星、家康はそれにならって北極星を掲げる事で神としての権威を高めようとしたと考えられるのです。

日光東照宮 禰宜 高藤晴俊さん
「天帝に選ばれた家康、その意を受け継ぐ徳川将軍…だから家康公が祀られるのは江戸の北、北極星の方角の日光が一番ふさわしかったのです」

■日光という場所には、こんなミステリアスな理由が秘められていたのです。

 

 

 

 

 

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夜になるとミステリアスな姿を現わす日光東照宮、また早朝にも異なる表情を見せます…朝8時の開門前に行われるお祭り(日供祭:普段は見る事はできません)…8時になると二人の神主が本殿にお供えに訪れます。

壮麗な扉の奥に祭られているのは家康の御神体東照大権現です。…供えられるのは神饌と呼ばれる神の食べ物で魚、米、野菜など…祝詞によって人々や地域の平安無事が日々祈られています…今も家康が神として生き続けて敬われているのです。

日光から60キロ離れた群馬県太田市世良田、ここにもう一つの東照宮があるのです…この東照宮こそ元祖日光東照宮、家康が死んだ直後に造られ、後にここ世良田に移されました。

全体が朱色に塗られた小ぶりな建物です…作ったのは家康の息子で二代将軍の秀忠、家康の死後、遺言通りにしたものですが全体的に簡素な印象です。

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それを20年後、突如、絢爛豪華に作り変えてしまったのが三代将軍・徳川家光…現在の金額で2000億円もの巨費を投じました。

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集めた職人や大工の数、延べ650万人…天才絵師・狩野探幽江戸城本丸を手掛けた大棟梁・甲良宗広ら当代一流の人材を投入しました。どうして家光は、これほど豪華なものを作ったのでしょうか…そこには、母・江と家光の切ない思いが秘められていたのです。


episode 2
日光名物 彫刻の謎
三代目 家光の悩み

慶長9(1604)年、家光は江戸城に生まれました…祖父は家康、父は秀忠、母は江です。…幼名を竹千代といいました…これ以上望めないほどの良い生まれでしたが過酷な運命が待っていました。

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家光の眼の乳母・春日局が書いたといわれる文書に衝撃的な事が記されています…「竹千代を二親ともに憎ませられ」…なんと江、秀忠ともに家光を憎んでいたというのです。

生まれてすぐ乳母に預けられた家光、3歳の時には重い病にかかり、死にかけるなど大変身体の弱い少年でした。…一方、家光より、2年後に生まれた国松は、母・江の手によって育てられ、健康で武術にも優れた活発な少年でした。

江や秀忠の愛情も国松の方に向けられたといいます…周囲でも次期将軍は兄ではなく、弟がふさわしいとの評判が高まります。江戸時代の記録には、12歳の家光がこうした状況を嘆き、自ら命を断とうとしたとあります。

そんな家光に目をかけたのが祖父の家康でした…ある時、家康は二人の孫に会いに来ました…事実上、どちらが跡継ぎにふさわしいと考えているかを示す場でもありました。

人々が見守る中、家康が発した言葉は、「竹千代殿、これへ、けれへ…」(『徳川実記』より)…家光をまず近くに呼び寄せたのです。

つられて前に出ようとした国松に対しては、「国松はそこにいろ!」(『徳川実記』より)…と呼び捨て、家康は優秀と評判の国松よりも、あくまで年長の家光を時期後継者と考え、それを示したのです。

周囲は、この決定をいぶかりましたが家康の考えは違いました…将軍を才能や優劣で決めてしまえば、必ず争いが起こる…それを防ぐには長子相続、つまり年長順に将軍を決めるという方針を明確に打ち出す必要があると考えたのです。

東北大学助教歴史学) 曽根原理さん
「殿様が死んだ後に誰が後取りになるかという事は、ずいぶんもめるんです…世の中を安定させるためには、争いや競争を抑える事が重要な時代だったのです」

家光は、家康の死から7年後、20歳で3代将軍となり、9年後には父・秀忠も亡くなって名実ともに将軍となります。…この時、家光29歳…しかし、その前途は多難なものでした。

居並ぶのは、伊達正宗ら歴戦のつわものたちばかり、一方、自分は戦場に立った事も無く、才能が認められた訳でもなく、将軍の子というだけで上に立っている三代目でした。

家光が就任演説とも言える場で口にしたのは、次のような言葉でした…
余は、生まれながらの将軍である
今後、皆、家臣同然に扱うが
納得できないならば国に帰り良く考えよ
それでも不承知ならこちらにも考えがある

家光は、家康の孫であるという血筋を前面に出して強がってみせるしかない状態だったのです…その家光が実質的なった後、急ぐように始めたのが日光東照宮の造り替えでした。

当時、日光には父・秀忠が造った社殿がありました…簡素ではあったもののまだ20年も経っていませんでした。…それを家光は、寛永13年4月の家康の21回忌竣工を目指し、1年5ヶ月で造り替えてしまったのです。

日光東照宮は、幕府の創始者である家康の象徴、その威光を最大限に高める事により、自らの権威を補おうとしたのです。家光は、東照宮を膨大な数の彫刻で飾り立てました。…家康の御神体を祀る本社に近づくほどその数は増していきます。

表玄関・陽明門には、龍や唐獅子などなんと500を超える彫刻が…陽明門をくぐったところ本社の入口に当たる唐門には、従来の日本建築に殆んど見られなかった装飾を施しました。

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一本のケヤキから掘り出された群像彫刻です…そこには、家光の三代目ならではの思いが垣間見えます。…表わされているのは、中国古来の伝説の帝王が臣下に謁見する場面です。(舜帝朝見の儀

中央にいるのがその人、舜帝…良く見るとその顔は家康に似ています…舜帝は堯から帝位を受け継ぎ禹に渡しました。それは徳のある者へ正しく政権が移った理想の政治とされています。

家康を立てながら実は、密かに自分に政権が渡った事は正しいと主張している彫刻なんです。

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更に本社の拝殿内部に狩野探幽に命じてユニークな絵を描かせました…想像上の動物麒麟です。…これにも意味があります。麒麟は優しい動物で徳のある王の世に姿を現し、殺生の多い王の世には姿を隠すと言われています。

麒麟がここにあるということで自分は徳のある君主だと言わんとしたのです。他にも有名な眠り猫や見ざる・言わざる・聞かざるなどにも平安の世を意味する彫刻だったのです。

つまり、家光は日光東照宮を豪華に造り変える事により、家康の威光を最大限に活用し、自らのカリスマ性の無さを補ったのです。

 

 

 

 

 

  

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日光東照宮には、家光が奉納した豪華な絵巻が残されています…家康の生涯や東照宮の成り立ちが最高級の顔料で描かれたもの東照宮で行われた家康の21回忌の場面では、人々が大行列をなして東照宮の本社に向かっていく様子が描かれています。

取り仕切るのは、三代目の家光、家光は折々に日光に参拝する事を欠かしませんでした。…しかし、将軍が江戸を頻繁に空けるわけにはいきません…そんな家光をいつの頃か家康自身が訪ねてくるようになりました。

それは夢の中、…家光の夢に出てくる家康を描いた『霊夢画像』と呼ばれる絵が残されています。


episode 3
家康が枕元に…家光の夢日記

日光東照宮の加護を受けながら将軍としての政務を始めた家光…30代に差し掛かったばかりの三代目に様々な難題が振りかかります。

まずは、全国300の諸侯を如何に統制するか…家光の世になるや不穏な動きを見せる大名が現れます。熊本・肥後52万石の大大名加藤家が謀反を働きかける文書を巻いたり、家光を侮蔑するような態度をとったりしたのです。

家光は悩みます…実質的に将軍になって間もないこの時期に、これを放置すれば幕府は瓦解しかねない…家光は加藤家を改易し、領地を取り上げるといった重い処罰を課します。

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更に続けて家光は、全国の大名の改易に乗り出します。家光が一代の間に取り潰した大名は、48家…一つ間違えば大きな反乱になりかねない難しい決断、家光は薄氷を踏むような思いで進めて行きました。

更に家光は、国内にとどまらない問題にも直面していました…それは、西洋諸国のアジア進出、とりわけポルトガル、スペインはキリスト教宣教師とともに次々と植民地を築いていました。

インドのゴア、中国のマカオ、フィリピンのマニラなどを攻略、次は日本ではないかと国内では懸念が広がっていました。…そんな折、家光に外国の脅威をまざまざと感じさせる大事件が起きます。

寛永14(1637)年、島原の乱…九州の島原や天草諸島で重税とキリシタン弾圧に対する人々の不満が爆発、キリシタンを中心とする3万人が原城に立て籠もり、12万の幕府軍と戦いました…戦闘は5ヶ月にわたり、双方合わせて4万人に近い死傷者が出る事になりました。

その後も西洋諸国との緊張した状態は続きます…幕閣の間では、アジアのキリシタンの拠点、マニラに兵を送るという強硬意見も出るほどでした。

家光は、決断を迫られます…このまま西洋諸国と交易を続ければ脅威は広がるばかり、貿易を制限すべきなのか…しかし、一方、幕府ではこんな懸念も出ていました…ポルトガルがこれまでもたらしてきた生糸や絹織物はどうなる…重要な貿易ルートを断てば大きな損失ともなります。

国際社会での舵取りという困難な課題が若き三代目の背に圧し掛かっていました…。

寛永19年~20年、更に江戸時代最大の大飢饉にも見舞われました…寛永の飢饉、日照り、長雨、冷害などが重なって凶作が続き、多数の餓死者がでます。農業政策を根本的に立て直さなければなりませんでした。

次々と苦難に直面しながら生来病弱だった家光は、頻繁に体調を崩すようになります…最近発見された家臣宛ての手紙の中で家光は、当時の苦しい胸の内を吐露しています。

 

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この天下は
権現様がお骨を折られ
矛先でお治めになったものなのに
不肖なる身で後を継いでしまった事は
恐れ多いことで
何としてでも
天下が続き治まるように
朝夕工夫しているが
あまつさえ近年は、病気になりがちで
はかばかしく天下のまつりごとを
務めかねる

こうした危機にあった家光に不思議な事が起こります…夢に祖父・家康が盛んに現れるようになったのです。家光は、祖父の夢を見ると大変感謝し、狩野探幽ら絵師にその姿を描かせるようになったのです。

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こうした霊夢画像は、20枚近く残されています…対外政策に苦しんでいたときや飢饉対策に頭を悩めていたときなど家康が夢の中に出てき、それを見た家光は、励まされたのです。

こうして祖父・家康の夢に励まされながら家光は、その後の幕藩体制の礎になる施策を完成させていきます…大名に国元と江戸とを一年おきに行き帰させる参勤交代、オランダと中国のみに長崎での貿易を認めた鎖国…幕府の権威を制度として形にしたもので200年続く太平の世の土台となりました。

慶安4(1651)年4月20日、家光は力尽きたかのように江戸城で息を引き取ります…享年48…死ぬ間際まで脳裏にあったのは、日光東照宮と家康の事でした。…家光は、こう言い残しています。

生涯 東照宮の神徳を仰ぐこと
並々ならず

されば死後も
魂は日光山中に鎮まり

朝夕 東照公の御側近くに侍り
仕えまつらん

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その思いに従って日光東照宮から500mのところに家光の霊廟が建てられました…大猷院(日光山 輪王寺)です。…東照宮とは異なり、過度な装飾は抑えられています。死して尚、家康を立てようとしているかのようです。


その後の日光東照宮

最後に…家光が亡くなったあと日光東照宮には浮き沈みがありました。窮地にあった東照宮は意外な人々に救われます。

家光の築いた礎の上に江戸の世は、安定への道を歩み始めた…家光の死後、半世紀、時代は元禄の世を迎えます。家光が築いた幕藩体制が迎える最初の黄金時代でした。

家光が眠り猫に秘めた平和の願いどおり、その後大きな戦は一度も起きませんでした。

そんな太平の世出生まれた言葉が「日光を見ずして結構というなかれ」…豊かな世を象徴するものとして東照宮は人々の信仰を広く集めるようになりました。

しかし、幕末、嘉永6(1853)年、家光が築いた鎖国が破られます…黒船来航をキッカケに幕府は倒れ、明治の世が到来、そんな中、東照宮は送れた封建時代の象徴としてすたれていきます…修理の手も加えられなくなっていきます。

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その東照宮に再び光を当てたのは、外国人達(アメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス公使アーネスト・サトウ)…来日した外国人が東照宮を訪れ、緻密で壮麗な建築に衝撃を受けたのです。

「夢にも見ない美しい形と色彩」
「日本独自の芸術と思想」

家光の作り上げた建築は、日本文化の水準の高さを世界に知らしめたのです。…外国人の増加に伴い、やがて日本人も訪れるようになり、日光は息を吹き返します。

観光する人の増加に伴ってそれまで一般の人が訪れる事の無かった近隣の中禅寺湖畔も格好の避暑地として注目されるようになります。

やがて東照宮と紅葉とが結びつき日光は、世界に知られる観光地となっていったのです。

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1999年には、歴史と芸術的価値が認められ、世界遺産に登録…今も多くの人がその美を一目見ようとつめかけています。

日光を最初に訪れた外国人の一人は、こう言いました…「私はもう日光にいるのだから結構と言う資格がある」(イギリスの旅行家イザベラ・バード

 

 

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