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徳川家康・非情の天下取り ~大阪の陣・豊臣家滅亡の時~

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NHK その時歴史が動いた
徳川家康・非情の天下取り ~大阪の陣・豊臣家滅亡の時~

慶長19(1614)年、慶長20(1615)年、徳川と豊臣の決戦…冬夏2度にわたる大阪の
陣です。…徳川家康は20万の大軍を率いて豊臣秀頼の立て籠もる大阪城を攻めました。

家康を待っていたのは豊臣方の強い抵抗でした…家康は一時は切腹を覚悟したと言われるほど追いつめられました。…秀頼の元には反徳川の勢力が結集していたのです。

豊臣の勢力を手ごわいと見た家康は和睦を持ちかけます…しかし、秀頼は聞き入れません…秀頼を滅ぼす決意をした家康は、南無阿弥陀仏の念仏を書き写す事を始めました。(その数6万編)

徳川の天下のため非情な決断をする家康、…その胸のうちに秘められた思いを描き出します。


天下人 秀吉の死

慶長3(1598)年、天下人・豊臣秀吉が病に倒れました…秀吉は徳川家康ら主だった大名を呼び集めました。…「返々秀より事たのみ申候」息子・秀頼の事を頼むと言い残して秀吉は世を去りました。

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慶長5(1600)年9月15日、関ヶ原の戦いが起こります…この戦いは、実は豊臣家の大名同士の争いでした。…家康は、加藤清正福島正則ら秀吉子飼いの大名を率いて東軍とし、石田三成ら西軍と対抗しました。

関ヶ原の戦いに勝利した後、家康は自分に味方した秀吉子飼いの大名に大きな領地を与えました…そして実質的に天下を握りました。

慶長8(1603)年、家康は征夷大将軍となり江戸に幕府を開きます…名実ともに家康が天下の主であると世に知らしめました。…しかし大阪には、秀吉の子・秀頼が家康に臣下の礼をとらない大名として健在でした。

幕府を開いた同じ年、家康は孫娘の千姫を秀頼に嫁がせました…千姫を秀頼に嫁がせる事は、亡き秀吉との約束でした。…まだ政権の基盤が固まっていない家康は豊臣家との婚儀を結ばざるを得ませんでした。

丁度その頃、“豊臣の威光は衰えていない” そう家康に思わせる出来事が起きました…秀頼が天然痘を患ったとき多くの大名が密かに見舞いに訪れたのです…豊臣の勢力はまだ侮りがたいものでした。

加藤清正福島正則加藤嘉明など秀吉に恩を受けた西日本の大名たちは関ヶ原の戦いが終わったあとも、万一の時に備えて巨大な城を築いていました。


加藤清正の忠臣

中でも加藤清正は、最も秀頼に対し忠誠心を持った大名でした…清正によって築城された慶長の頃の熊本城の様子を詳細に描いた図面には、秀頼をいざというときに向かえる部屋が描かれています。…豊臣家に忠誠を誓う武将の存在は家康を脅かしていました。

慶長16(1611)年3月、家康は京都の二条城に秀頼を呼びつけました…その時まで秀頼は大阪城の奥深くに大切に育てられていたのです。この時、家康70歳、秀頼19歳、堂々たる体躯の若者であったと記されています。

秀頼の傍らには加藤清正が控えています…秀頼に万が一の事があったら家康と刺し違える覚悟だったといわれています。…見事に成人した秀頼、豊臣家の跡取りの力量を見せつけられた家康、徳川の天下の為に秀頼を滅ぼすという気持ちが固まったのはこの時だといわれています。

この会見の後から家康は、南無阿弥陀仏の念仏を書き写す事を始めます…家康は暇を見つけては写経に励むようになったと伝えられています。

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秀頼と家康の会見の3ヵ月後、加藤清正が世を去りました…続いて浅野幸長池田輝政ら豊臣家所縁の大名たちが相次いで亡くなります。


家康ついに牙をむく

丁度その頃、彼らの死を待っていたかのように徳川と豊臣の諍いが表面化します…きっかけは豊臣家の建てた寺・方広寺でした。

この寺の鐘に「国家安康・君臣豊楽」という文字が刻まれています…これは家康の名前を分断し、豊臣だけの繁栄を願うものだと因縁を付け、豊臣家を滅ぼすと脅しました。

驚いて許しを求めて来た豊臣家に家康は条件を出します…
1. 秀頼が徳川の臣下に下る
2. 母親の淀殿を人質に出す
3. 秀頼が大阪城から退去する
豊臣家の軍事力を奪い、人質をとって徳川支配体制の中に組み込もうという狙いでした…形だけは家康こそ秀頼の家来であると思っている豊臣方には、とうてい承服できない条件でした。

やむなく豊臣家は徳川との戦いの準備に入ります…大阪城には豊臣の旗印の下、全国から続々と将兵が集まってきました。…その数10万、その多くが関ヶ原で敗れて領地を没収され、徳川家に恨みを抱く浪人たちでした。


大阪冬の陣
豊臣方の意外な健闘

慶長19(1614)年10月、家康は20万の大軍を率い豊臣との決戦に向け大阪に向かいます…大阪城落城の半年前の事でした。

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慶長19(1614)年11月18日、家康は大阪に到着しました…家康が本陣を敷いたのは大阪城天守閣から4キロ南の茶臼山、ここからは秀頼が立て籠もる大阪城を目前に見られるのです。

大阪城は城作りの名人といわれた秀吉が築いた難攻不落の城でした…城は幾重もの堀に守られ、その外側に広大な陣地を持っていました。…更にその回りに全長8キロの惣堀と呼ばれる堀がありました。

この城に立て籠もる豊臣方の主力は、全国から集まって来た浪人たちでした…関ヶ原の敗北で領地を失った浪人たちは秀頼に味方することで今一度時代を豊臣の世に戻し、一旗上げようと思っていました。

中でも武勇の誉れが高かったのが真田幸村でした…関ヶ原の戦いのとき西軍に組した幸村は、家康によって紀州九度山に流され浪人生活を送っていました。

茶臼山の家康の陣の前に立ちはだかった砦があります…幸村が作った真田丸です…茶臼山に向かい合った小高い丘に櫓や柵で作った出城でした。

真田丸は大軍勢の徳川軍の中に孤立しているかのように見えました…しかし家康は武勇で名高い真田家の策略を警戒しました。

しかし真田軍の策略にまんまとはまって700騎以上の将兵を失うという大苦戦を強いられます…そして戦いは長期化し、12月に入りました…厳しい寒さが徳川勢を苦しめます。

20万におよぶ徳川軍の兵が野外に陣を張っています…寒さをしのぐために鎧をしまう箱まで燃やして暖を取っていたと記録されています。

更に食糧不足も深刻でした…米がない為、兵たちはおかゆすら口に出来ず、米のとぎ汁を飲んで飢えを凌いでいました。…このままでは徳川方崩壊の可能性もありました。

12月8日、家康は使者を豊臣方に遣わし改めて和睦の条件を示します。
1. 母親の淀殿を人質に出す
2. 秀頼が大阪城から退去する
3. 大阪城の堀を埋める
4. 城内の牢人を追放する
秀頼と淀殿は激怒します…戦は豊臣が勝っている和睦などとんでもないというのです。

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家康はこの時、73歳、寒い中で戦いが長引くことは老いて体力に自信のない家康にとって危険な事でした。

何としてもこの戦いを和睦に持ち込まなければならない…家康の焦りはつのります。…大阪城落城の4ヶ月前の事でした。


淀殿への心理作戦

家康が狙いを定めたのは秀頼の母・淀殿でした…豊臣家の実権を握っていた淀殿は、戦国大名浅井長政の娘です。長政が滅び城が落ちたときまだ6歳でした。

幼いとき味わった城攻めの恐ろしさは淀殿の胸に染み付いていました…広大な大阪城の奥深くにいる淀殿、その身辺に届くように家康は威嚇を加えます。

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慶長19(1614)年12月9日の夜、大阪城を包む闇の中から突如、ときの声が上がりました…家康が兵たちに一斉に声を上げるように命じたのです。

この夜以来、毎日、夕暮れ時から明け方にかけて幾度となく、ときの声が淀殿を悩ませました…その度に敵の夜襲ではないかと恐れ、淀殿は神経をすり減らしました。

家康は更に淀殿を威嚇するために大砲を用意しました…家康は大阪城に向け大砲を次々と撃たせました…当事の砲弾は爆薬が詰められていないために破壊力は僅かでした。

しかし12月16日、偶然、砲弾が天守閣を直撃、淀殿の次女7、8人が即死しました…こ
のままでは肝心の秀頼と自分に当たるともかぎらない…淀殿は取り乱します。

そして18日から和睦の話し合いが行われ、豊臣方は堀の埋め立てと牢人の追放の2つの条件に応じる事になりました。

12月23日、堀の埋め立てが始まりました…僅か数日で城の外堀は埋め尽くされました…堀を埋める様子を見ながら家康は、こう言い残して大阪を発ちました…「3歳の子どもでも上り下り出来るようしかと埋め立てよ」(『大阪御陣覚書』より)

外堀が埋まっても徳川軍は工事をやめず内堀まで埋め始めました…和睦の約束では大阪城の最も外側を巡る惣堀だけを埋めるはずでした。…しかし徳川軍は、外堀だけでなく、二の丸と三の丸の掘りも埋めてしまったのです。

豊臣方は驚いて抗議しましたが徳川軍は聞き入れません…難攻不落を誇った大阪城は裸同然になりました。


大阪夏の陣
豊臣家滅亡へ

慶長20(1615)年3月、和睦の僅か2ヵ月後、徳川と豊臣の仲は再び険悪となりました…「家康は相変わらず豊臣を攻め滅ぼそうとしている」そういう噂に耐え切れず、牢人たちを再び呼び戻します。

家康はまた豊臣方に条件を出し、応じなければ攻め滅ぼすと迫ります…牢人を城から追放するか秀頼が城から退去するか…豊臣方には絶対飲めない条件でした。

慶長20(1615)年4月4日、和睦から4ヵ月後、家康は15万の兵を集めて再び大阪に向かいます…大阪城落城まで一ヶ月前の事でした。

慶長20(1615)年5月5日、家康は大阪城攻めの本拠地としていた京都・二条城から大阪に向けて出発しました…家康に従う軍勢は15万、…守る豊臣方は5万、徳川の勝利は明らかと思われました。

5月6日、両軍は戦端を開きました…大阪夏の陣の始まりです。…最初のうち徳川軍は予想通り優位に戦いを進めます。

ところが予期せぬ事が起こります…再び秀頼に味方した真田幸村が思わぬ突撃を仕掛けて来たのです。…真田隊は家康の命をとる事だけに狙いを絞り、いかなる犠牲もかえりみず突進してきます。

真田隊のこの捨て身の攻撃に徳川軍は家康本陣の近くまで攻め込まれます…まさか敵が本陣まで迫ると思っていなかった旗本たちは大混乱に陥りました。

大阪夏の陣を記録したパゼー日本キリスト教史によれば、この時、家康は切腹の覚悟までしたと記されています。

自分の首がみすみす真田幸村に渡り、徳川の権威を落とすことを恐れたといわれています…家康は3度にわたり真田隊に本陣を脅かされましたが必死に追撃をかわし、ついに真田隊の手から逃れました。

次第に体制を立て直した徳川軍は、数にものをいわせ真田隊を押し戻していきます…5月7日の午後、激戦の末、真田幸村を討ち取ります…勢いに乗った家康の軍は大阪城に向けて攻め込みました。

5月7日午後4時、ついに大阪城は炎に包まれました…ところがその時、家康の元に思いがけない報せがもたらされます。

本丸の一角に焼け残った蔵がありました…秀頼と母親の淀殿がそこに逃げ込んでいるというのです。…その夜、徳川方の陣に豊臣方から一人の女性が送られてきました…秀頼に嫁いだ家康の孫娘・千姫です。

千姫は秀頼と淀殿の命乞いをするために豊臣方から送り返されてきたのです…家康が滅ぼそうとしている豊臣秀頼は、可愛い孫娘の婿でもありました。…秀頼の命だけは助けるか…家康は決断の時を迎えました。

既に城は落ち秀頼は裸同然で蔵に閉じこもっています…家康は秀吉の死に際に秀頼の行く末を頼まれ誓いの言葉も交わしています。

やがて家康は口を開きます…「74歳になったよにばちが当たるなら、当たってもよい」(『永日記』より)…たとえ自分が批難を浴びようとも徳川の世を乱す火種は絶たねばならない…家康は決断します。

「秀頼を切腹させよ」

家康の命を受け、秀頼の潜む蔵に鉄砲が撃ちかけられます…秀頼を蔵から引きずりだして首を刎ねるのではなく、切腹させることにより、武士としての名誉だけは保たせる…蔵の外から鉄砲を撃ったのはそういう家康の気持ちからでした。

慶長20(1615)年5月8日、家康の意を知った秀頼と淀殿は自ら命を絶ちました…豊臣家滅亡により、およそ150年続いた戦国の世は終わりを告げました。

家康は朝廷に願い出て年号を元和と改め元和偃武(げんなえんぶ)という言葉を世に唱えました…元和は平和の始まり、偃武とは武器を蔵にしまい二度とその鍵を開けないという意味です。

秀頼自害の後も家康は豊臣家の名による反乱の芽を絶つことに努めます…京都に潜んでいた秀頼の息子・国松、8歳を捕らえ京都六条河原で斬首、秀頼の娘には出家を命じます。

豊臣家の血筋は途絶えます…大阪の陣が終わった後、家康は前にもまして念仏の書き写しに励むようになりました。…多いときは1日に1000回に及んだといわれます。

東京の五島美術館に収められている家康が書き写した念仏の一部です…長さ11mの巻物に綴られた念仏は、6万編、家康は死ぬ直前まで念仏を書く日課を続けました。

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元和元(1615)年7月、大阪落城の2ヵ月後、家康は全国の大名に向かって法令を発しました…武家諸法度です。

全13ヶ条の掟書きは、ようやく勝ち得た徳川の天下を不動のものとし、二度と大阪の陣のような戦乱を起さぬようという表れでした。

死期の近づいた家康は、将軍・秀忠や御三家など自分の子どもたちに形見分けを行いました…家康が分け与えたのは膨大な数の書物でした。

元和2(1616)年4月17日 徳川家康 死去 …大阪の陣で秀頼が自害したあくる年の事でした。

 

 

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