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上司とのうまいつきあい方 徳川家康

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NHK 先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)
上司とのうまいつきあい方 徳川家康

信長型上司とのつきあい方
徳川家康 天下取りの処世術(前編)

静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
徳川家康は75歳まで生きました…当時中世の平均寿命30代後半からすると2倍の長寿です」

各地の武将が覇権争いをしていた戦国時代、最後にトップに立ったのが徳川家康、…織田信長豊臣秀吉の後を継いで天下を統一、江戸に幕府を開きます。

織田がつき
羽柴がこねし
天下餅

座ったままで
食うは徳川

…江戸時代の落首では、家康がまるで楽をして天下を手に入れたように歌われていますが、実はその苦労たるや、並大抵のものではありませんでした。

家康は、信長、秀吉…いわば上司の二人に振り回され続けます。

信長はキレやすく自分勝手、気に入らなければ誰でも首にする独裁者、…
「長男、信康を切腹させろ!」

秀吉は天性の人たらし、したたかな交渉術で家康を翻弄…
駿府を譲ってくれるか…江戸をやろう」

次々と理不尽な要求を突きつけてくる二人の上司、家康はこのやっかいな上司と上手く付き合えたからこそ戦国の世で生き残り、天下を取る事ができたのです。

知恵その一
キレられる事を恐れるな
家康は、三河の小大名・松平家の嫡男として生まれます。当時松平家は、隣接する駿河の大大名・今川家の支配下にありました。

家康も幼い頃、人質として駿河に送られ10年以上、今川家で暮らしていました。そんな家康と尾張織田信長が急接近したのは、桶狭間の戦いはキッカケです。

この戦いで信長は、今川軍に打ち勝ちます。これにより今川家の支配下にあった松平家は、事実上の独立を果たします。しかし弱小大名である事に変わりはありませんでした。

一方、信長も戦いで勝利したものの、まだ尾張全体を治める力はありませんでした。二人の周囲には、武田、斎藤などの有力大名がひしめいており、生き残るため同盟を結ぶ道を選びます。

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しかし兵力に劣る家康の立場は、信長と対等ではありませんでした…その上、信長はキレやすく、傍若無人、家康は信長に翻弄され続けます。

元亀元(1570)年 信長と家康が浅井・朝倉連合軍の対峙した姉川の戦い出の事、戦闘直前の直前の軍議では…

織田軍=朝倉
徳川軍=浅井
…で戦う事が決まります。

ところが翌日、信長は浅井軍の方が朝倉軍より兵が少ない事を知ると、前日の決定をアッサリと覆して…「わしが浅井を攻める…徳川は朝倉に当たれ!」

しかし徳川軍は朝倉郡の1/5の兵力、家康の家臣は憤慨、…ところが家康は、 「大軍に向かう事は勇士の本意である」 家康は信長に逆らっても不利だと判断、理不尽な決定に従います。

そして見事、朝倉郡軍を撃破し、勝利に導きます。しかし家康の我慢の日々は続きます。

天正2(1574)年、甲斐の武田勝頼が家康との国境にあった高天神城に侵攻、高天神城長篠城とともに甲斐との国境を守る重要な砦です。

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3万の軍団で攻めてきた武田軍に対し、家康の兵力は8千、たまらず家康は信長に援軍を要請、ところが信長は、 ”持ちこたえるように” と言うだけで動こうとはしません。

結局、高天神城は落城、もはや国境を守る砦は、長篠城しか残されていません…1年後、武田勝頼が再び兵を率い、長篠城に侵攻してきました。

ここを失えば武田の大軍が一気に三河に押し寄せてくる…絶体絶命のピンチ、この危機に家康はこれまでにない行動をとります。

再び信長に使者を送り、強い口調でこう言わせたのです…「今回、援軍が無ければ武田側に寝返り、勝頼とともに尾張に流れ込む所存」 …いつもは忍耐強い家康、信長に対しここぞという時にキレて見せたのです。

この時の信長の反応が残されています…

”信長大いに驚き援兵を出せり” …信長は自ら3万の兵を率いて援軍に向かいます。

実は家康の強気の行動には計算があったのです…当時、信長は四方を的に囲まれ、家康を失う事は織田軍の崩壊を招きかねない状況だったのです。

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織田信長包囲網)

家康は冷静に情勢を分析、キレるタイミングを図ったのでした。…織田の援軍を得た徳川軍は、武田軍に見事勝利、長篠城を守り切ったのです。

 

知恵その二
上司の得意分野を見つけろ…そこが攻めるポイント
滋賀県近江八幡市で毎年3月に行われる春を迎える祭り、左義長祭り…色とりどりの衣装をまとった男たちが派手な飾りを施した山車をかずき、町を練り歩きます。

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左義長祭り)

実はこの華やかな祭り、信長が安土城下で行ったのがルーツだといわれています。信長はドハデな事が大好き、自らも奇抜なファッションで参加したといいます。

祭りの噂は、京にいる天皇の耳にも届き、見てみたいという意向が信長に伝えられます。

天正9(1581)年、それに応えて信長は大イベントを計画します。会場は御所の東に作られた巨大な馬場、南北400m、東西100m、信長は織田軍を総動員し、大規模なパレードを行いました。

”京都御馬揃え” です…豪華な衣装に身を包んだ柴田勝家明智光秀が行進を披露しました。

この時の天皇の言葉が伝わっています…「これほどの見世物、今まで見た事が無い」(『信長公記』より)

天皇を驚かせた信長、実は日頃から上に立つ者の心構えをこう語っています…

「手の内に無い事をするのが真の武将だ」
…誰もが思いつかない事をするのが武将にとって大切だと考えていた信長、サプライズイベントは、信長が得意中の得意とする分野でした。

そんな信長にサプライズを仕掛けたのが、常日頃、倹約家として知られる家康でした。

天正10(1582)年、信長が甲斐の武田家を滅ぼし、安土に戻る途中の事、信長は突然、富士山が見たいと言いだし、家康の領土・駿河を通る事を決めます。

山道を進み、駿河に入った途端、信長の目に飛び込んできたのは驚くべき光景でした…
1. 街道は大木や大きな石が取り除かれ、眩いばかりに整備されています。そして両側には、ずらりと並んだ警固の兵。

2. 宿場では、信長のために立派な宿が用意され、更に家臣のために1500軒の家を新築していたのです。

3. 信長が天竜川に差しかかった時の事、そこは流れが速く、橋が掛けられない場所、その代わり川には多くの船が並べられていました。

そして船を固定するために家康の家臣たちが両岸から大綱を引いていたのです…しかも信長が渡りやすいように、船の上には板が渡されていたのです。

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この趣向には、信長もビックリ、…「三河武士の馳走を受けるわ」 と船の橋を渡りました。

そして富士山に大満足した信長、家康に8000俵の米と黄金200両を送りました。

信長の得意分野だったサプライズイベント、家康は信長が情熱を注ぐ分野に挑戦すれば、ひと際、気遣いが評価されると見抜き、信長を上回るほどのサプライズを仕掛けたのでした。


静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
「… 今でいう公共工事です。当時は1000軒あったら大都市です…つまり都市一つ作っちゃった感じですね。

現代の価値で500億円の建設費、…信長は元々、こういう事が好きなんです。だからこそ家康の苦労も分かるのです。

それに家康は計算もしています。インフラ整備ですよ。1500軒の新築はその後、家康の家臣も使える…道路整備も元々必要な事です。…」

 

 

 

 

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NHK 先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)
上司とのうまいつきあい方 徳川家康

豊臣秀吉型上司とのつきあい方
徳川家康 天下取りの処世術(後編)

家康は、信長、秀吉…いわば上司の二人に振り回され続けます。

信長はキレやすく自分勝手、気に入らなければ誰でも首にする独裁者、…
「長男、信康を切腹させろ!」

秀吉は天性の人たらし、したたかな交渉術で家康を翻弄…
駿府を譲ってくれるか…江戸をやろう」

次々と理不尽な要求を突きつけてくる二人の上司、家康はこのやっかいな上司と上手く付き合えたからこそ戦国の世で生き残り、天下を取る事ができたのです。


知恵その一
どんな上司でも良い面を見つけろ
天正10(1582)年、本能寺の変で信長が死去すると後継者争いが激化します…ここで様々な策略を駆使し、しぶとく勝ち残ったのが、豊臣秀吉でした。

しかしその頃、家康は秀吉についてこう述べたと伝わっています…

秀吉の仕方にては
始終保つことは成り難く
末々は瓦解なるべし

…秀吉は今は勢いがあるがそれが続くとは考えられず、あのやり方ではいつか破綻するだろう。家康は秀吉の力を認めず、従属する事を拒み続けます。

ところがそんな家康が秀吉の恐ろしい手腕を目の当たりにする出来事が起こります。

天正12(1584)年、小牧・長久手の戦い…信長の次男・織田信雄が秀吉に反旗を翻して挙兵します。家康は信雄に頼みこまれ加勢する事になりました。

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小牧・長久手の戦い

徳川家康織田信雄 VS. 豊臣秀吉 …家康は当初、戦いを有利に進めます…しかし秀吉はとんでもない計略で形成を逆転します。

巧みな交渉術で戦いを始めた張本人、織田信雄を抱き込み和睦を結んでしまったのです。…梯子を外された家康、大義名分を失い駿河に撤退します。

家康は戦いに勝ち、外交に敗北したのです。

翌年、秀吉はしたたかな交渉術で更に家康を追い詰めます…家康の懐刀と言われた家老・石川数正を引き抜いてしまったのです。

石川数正は家康の4歳年上の幼馴染、家康が今川家の人質になった時、一緒についていったのが数正でした。

その後は、家康の側近中の側近として活躍、徳川家の外交面を支え、更に戦いでは先陣を努めるほど武勇にも優れていました。

家康から厚い信頼を得ていた数正、…秀吉はそんな数正をどのようにして引き抜いたのか…。

それは小牧・長久手の戦いの後、秀吉が徳川家に人質を要求した事に始まります。家康の多くの家臣たちは反対、しかし数正だけが受諾を主張します。

外交官として秀吉に何度も会った事で、時流が秀吉にある事を判断したのです。冷静な情勢分析による意見であったにも関わらず、数正は他の家臣から、 ”秀吉に買収されている” と非難されます。

実際に秀吉は、数正が使いに来るたびに名刀・黄金など過分とも思える褒美を与えていたのです。

数正はその事を家康に報告していました。しかし中傷は治まらず、次第に数正は追い詰められます。

孤立した数正、とうとう秀吉の元に走ります。秀吉は、過分な褒美を与える事で数正が孤立することを見越していたのです。

数正寝返りの報告を受けた家康は、茫然自失、… 『信用し申さず』 と述べたと伝わっています。

二度も秀吉に煮え湯を飲まされた家康、しかしここに至って家康は、秀吉の力を率直に認め、豊臣家に従う事を決めます。

最初は見下していた秀吉にも優れた点を見出したら従える、家康の柔軟な姿勢でした。…しかも家康は秀吉の交渉の技を積極的に学びとりました。

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦い直前の事、五大老の一人、宇喜多秀家の家中で重臣同士の争いが起きました。…それは一方が殺害されるまでに発展します。

秀家は重臣たちを厳罰にしようとします。そこに待ったをかけたのが家康でした…重臣たちをかばい命を命を助けてやったのです。

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この事が関ヶ原の戦いで思わぬ効果を発揮します…宇喜多家は西軍(石田三成)について家康に敵対、しかしあの事件で恩義を感じていた重臣たちは、秀家の元を離れ、家康に味方してしまいます。

その結果、大きく戦力ダウンした宇喜多家は敗北、それはまさに家康の狙いでした。宇喜多家のお家騒動に口を挟み、周到に重臣を抱き込んだのです。

かつて秀吉にしたたかな交渉術で重臣を引き抜かれた家康、その挫折を乗り越えそのテクニックを学びとった事で天下を引き寄せたのでした。

 

知恵その二
絶えず安心感を与えろ
小牧・長久手の戦いの後、秀吉に従う事になった家康、その時の家康の心情が残されています。

秀吉は才略で世の人を
籠絡してきた人だから、
才を誇示して智某のある人と
見られるのはよくない

ただ篤実一遍の人と
思われる方がよい。
(『東照宮御実記』より)

家康は秀吉にはあえて知略を見せず、愚直に仕えて安心感を与える事に努めます。

家康が秀吉に仕えてすぐの事、秀吉は薩摩の島津家を討つために九州へ遠征します。家康は関東の北条家を押さえるため、駿河にとどまっていました。

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ところが秀吉が凱旋して来るや否や、遠路はるばる戦勝祝いに駆けつけたのです。その後も馬や太刀などの献上を名目に秀吉の元に通い詰めます。

文禄4(1595)年、秀吉の甥・豊臣秀次が謀反の疑いで切腹させられます。誰が敵で誰が味方なのかと不安に駆られる秀吉に対して、家康はいち早く忠誠を誓う、起請文を提出し秀吉を安心させます。

この年、家康はいつでも秀吉の元に駆けつけられるよう、自国の江戸にいるよりも伏見にいる日数の方が多かったといいます。家康の秀吉に対する気遣いが最も現れた出来事が…

文禄5(1596)年、慶長伏見大地震です…京都伏見一帯を襲ったM7の大地震で秀吉の住む伏見城天守閣が崩壊、混乱の中で一時は秀吉の生死も分からない状態でした。

家康はすぐに秀吉の元に見舞いに行こうとしますが家臣たちは、誰もが殺気立っている時に無防備に行くのは、命を捨に行くようなものと反対、しかし家康はそれを振り払い、瓦礫の中に踏み込んでいきました。

家康の忠義ぶりは、家臣たちも呆れるほどの徹底したものでした。

才覚一つで農民から天下人まで上り詰めた秀吉、家康はその秀吉に才覚を誇示することは、かえって警戒感を煽ると判断、誠実な態度で安心感を与え続けたのでした。


店主 井上二郎アナウンサー
静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
漫才師 増田英彦
作家 伊東潤

 

 

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