天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は、桂川を渡ったとき全軍に「敵は本能寺にあり」の有名な命令を発したのです。
信長は、少数の手勢に守られ京の本能寺に宿泊していたところを光秀軍1万3000に包囲され最期を遂げた・・戦国の覇者、信長のあまりにもあっけない最後です。
この歴史的大事件を起こしたのが明智光秀です。
とにかくとんでもない事をやらかした男ですよ・・日本の歴史を変えられる力を持った人物は、時代時代で存在しましたが織田信長は、その中でも群を抜いた一級品、空前絶後の人物です。
そんな信長が時代のど真中にいたんです。
「光秀なんて事してくれたんだ」と思っていたんですが司馬遼太郎著「国取り物語」全4巻を読んで光秀を知り、光秀に興味を持ちました。
光秀は、伝統文化を愛した真面目で純粋な男なんです。・・そんな光秀をいったい誰がたぶらかされて本能寺の変を起こしたかは歴史の謎です。
■巻頭写真は、司馬遼太郎著「国取り物語」全4巻です・・明智光秀の生い立ち、放浪の旅、越前朝倉氏への仕官、足利義明との出会い、信長の配下になるいきさつ・・そして本能寺の変へ。
■光秀を知る為に最適な本としてこの「国取り物語」をお薦めいたします。
※以下は、明智光秀の詳細です。
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明智十兵衛尉 惟任(これとう)光秀 日向守(1528~1582)
光秀の出身については諸説あるが、主に次の二つを取り上げる。
一つは、美濃の土岐氏の一族で、明智光綱の子という説。光綱は光秀幼少時に死亡しため、光秀は叔父の明智光安(入道、宗宿)に育てられ、16歳で元服、十兵衛光秀と名乗った。斎藤道三と、その子の義竜が争ったとき、光安は道三に組みして明智城に篭り、討死の前に、光秀に自分の子、光俊(明智光春と同一とも言われている)と甥の光忠を託して脱出させた。
もう一つは、若狭の刀鍛冶、冬広の次男という説。近江に出て佐々木氏に仕え、明智十兵衛と称した。
次に信長に仕えた経緯だが、これも諸説ある。前述の後者の説を延長したものでは、佐々木の使者として織田氏に行ったおり、信長が光秀の才を見込み、佐々木氏から貰い受け、家来にした・・という話。
が、だいたいは、諸国を流浪した果てに何らかの形で兵学に通じ、やがて越前一乗谷の朝倉氏に仕えた・・という話が主流ではないかと思われる。
とは言え、召抱えられた当初の知行が500貫と伝えられている点が謎で、一介の浪人にすぎない光秀を、なぜ朝倉氏ほどの大家がそれほどの知行で迎えるのか、その経緯もよくわからない。一説には、越前、称念寺の園阿上人の推挙と言われるらしいが、それよりも、光秀が加賀一向一揆を討伐した話もあり、その恩賞で知行アップしたと受け取る方が、自然であるような気がする。また、鉄砲の腕を買われたという説もあり、実際には徐々に認められていったのではなかろうか。
この朝倉館において光秀は、同家に寄寓していた足利義昭に目通りがかない、その直臣となる。義昭の側近、細川藤孝との親交ゆえとも言われている。藤孝と二人で義昭と信長との間を取り持つために奔走しあった、という。
織田信長
信長に仕えたとされるのは、永禄9年(1566)~11年(1568)。義昭が越前一乗谷から、美濃の信長のもとに赴くとき、光秀もこれに随行した、という説に基づくならば、11年の方が正解だろう。なにしろ、信長の家来となった翌年には、滝川一益に従って北陸遠征に参加したとされる。織田家における破格の抜擢の方は、当初から始まっていたと見て、まず間違いないだろう。
当時、光秀は、義昭と信長という二人の主人を持ったことになる。あるいは信長に義昭との連絡係としての利用価値と手腕を認められて、かなり高禄で召抱えられたのではなかろうか。
その後、三好三人衆との合戦にも参加するが、光秀ならではの真価を発揮するのは、京都奉行としてであろう。朝廷、公卿、寺社などの勢力がひしめく京にあって、光秀の深い学識と怜悧な行政手腕が頭角をあらわす。
光秀に関する記録が鮮明になってくるのは、さらに伊勢、近江、丹波などの戦に参加。それらの武功により、近江志賀郡に10万石を与えられた元亀元年(1571)からである。大津城に入城、のち坂本城城主となる。44歳。
この頃から将軍義昭と信長の確執も深まり、天正元年(1573)、織田軍の一員として義昭を攻めることとなる。
天正2年(1574)、従五位下、日向守。翌3年(1575)、惟任の姓を与えられ、丹波国領主に任じられ、これより丹波制圧戦を開始。このころ信長は、長篠合戦、安土城築城、石山本願寺攻略、松永久秀征伐などに多忙であり、光秀は都度、応援を命じられたと見られ、信長からの過度の信頼と重圧が想像できる。
天正6年(1578)、細川藤孝とともに亀山城攻略。さらに八上城に波多野秀治を囲み、翌7年(1579)に落城させ、翌8年(1580)丹波一国を加増され、亀山城、福智山城を建設。亀山城主になる。丹波一国と坂本をあわせて、実に32万石の大名にのし上がったことになる。
しかし同時に、このころから信長との間に破綻が始まっていた・・という話も多くあり最も有名なのが丹波の波多野氏を攻めたおり、信長との方針のちがいにより人質に出していた母が殺され信長への怨念を深めた、などと言われている。しかしこの逸話は、やや整合性に乏しく史実と見るに不適当と言わざるを得ない。
天正10年(1582)3月、徳川家康と穴山梅雪の接待役に任じられる。この折にも接待の不足を信長に罵倒されたり、あるいは役を解かれたと言われ怨恨を抱いたとされる根拠に加えられている。
5月17日、備中高松城を攻略中の羽柴秀吉から信長への援軍要請により光秀も出陣を命じられる。この折も信長に丹波国を没収された、とか、同輩にすぎぬ秀吉の下に置かれたなどとよく取り沙汰される部分である。
26日、光秀は、坂本城から亀山城に入り、愛宕権現に参篭。信長討伐を決意したのはこの時・・という説が主流に思われる。愛宕権現において里村紹巴と連歌会を主催。有名な光秀発句は、ここで編み出された。
光秀
「ときは今あめが下知る五月哉」
紹巴
「花落つる流れの末を関とめて」
29日、愛宕山から亀山城へ帰城。6月1日、信長に軍装披露のため、と称して、自軍に出陣の命を飛ばす。老の坂において明智光春(秀満)、明智治右衛門(光忠)、藤田伝五、斎藤利三、溝尾庄兵衛の5人に信長追討の決意を打ち明ける。ここから家中の主だった者に伝令が下り、安田作兵衛(天野源右衛門)が味方から信長へ通報する者を防ぐべく先陣をつとめた。
本能寺跡
桂川を渡ったとき、ようやく全軍に命令。有名な「敵は本能寺にあり」である。一説に「信長公を討ち天下を取る。戦功あるものはそれ相応に取り立てる。万一本人討死しても親子兄弟、親戚縁者にいたるまで身の立つようにする」ともある。
本能寺の変における光秀の信長急襲の根拠に関しては、実に様々な説がある。だいたい怨恨説、野望説、朝廷および家康、秀吉などの黒幕説に集約されると言って良いだろう。
何しろ信長を本能寺に急襲し自刃に追い込んだ光秀は、その後、盟友、細川藤孝、筒井順慶らも味方にできず、後手に回ったまま、山崎合戦で秀吉に敗れる。朝廷より宣下を受けてから、わずか3日後のことである。いわゆる「光秀の三日天下」とされる所以であるらしい。
その後、居城の坂本に逃げる途中、小栗栖にて、土地の農民の手によって殺された。死亡が推定されるのは6月13日。本能寺の変後わずか12日目のことであった。辞世は、「明智軍記」によると
「順逆無二門、大道徹心源、五十五年夢、覚来帰一元」
なお、このとき妻子と長子十五郎(光慶)も坂本落城と運命をともにするが十五郎は、亀山城で病死とも、中川瀬兵衛、高山右近に殺されたとも言われて詳細は不明。妻は、妻木範熙の娘。子は二男三女で長女は荒木村重の嫡子、村安に嫁ぐが村重謀反のあと一族の明智秀満に再嫁。次女は信長の甥、津田信澄に嫁す。三女は細川忠興夫人で、のちの細川ガラシャである。