旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

決戦関ヶ原! 石田三成の一途な戦い

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上記写真は、天下分け目の関ヶ原 「家康討伐の檄文」 です。
豊臣政権を奪おうとする徳川家康を倒そうと戦いの2か月前、各地の大名に呼びかけたもの差出人には
毛利輝元
宇喜多秀家
長束正家
増田長盛
前田玄以
・・・「え!」・・石田三成の名前がありません・・関ヶ原の戦いと言えば、「家康VS.三成」 当然名前がありそうなもんですが??

 

NHK 歴史秘話ヒストリア
episode2 君には○○が無い! 関ヶ原は、「家康VS.三成」 では無かった?

三成は豊臣政権の重役、秀吉の側近中の側近、・・大名や武将を秀吉に取次ぐのは三成の役目、有力な大名でも三成を通さないと秀吉と話が出来ません。

慶長3(1598)年8月 豊臣秀吉死去 三成38歳
秀吉は後継ぎのまだ幼い豊臣秀頼を残しこの世を去ります・・そして「秀頼が成人するまで」 という事で5大老、5奉行の協力態勢に政権をゆだねたのです。

5大老 : 徳川家康毛利輝元宇喜多秀家前田利家上杉景勝
5奉行 : 石田三成増田長盛浅野長政長束正家前田玄以

三成は秀吉の遺言どおり、皆で力を合わせて幼い秀頼を盛りたてて行くことこそ自分の使命と誓います。・・しかし家康は、「ここがチャンス」 と政権乗っ取りに動き出します。

家康は、次々と大名たちを自分の派閥に取り込み勢力を拡大、意に沿わぬものは謹慎、反逆者として処罰したりやりたい放題・・慶長3年3月、ついに5奉行筆頭の三成も領地佐和山での蟄居に追込まれます。

三成は、親友の大谷吉継に打ち明けます。
「天下は家康のものになろうとしておる・・家康は太閤秀吉様の政治にそむくだけでなく、秀頼様もさげすんでいる・・今こそ家康を討つのだ」
三成の決意に大谷は共感、共に家康打倒に立ち上がります。

しかし大谷吉継、ここで親友である三成に忠告
「おぬしは発言やふるまいが横柄だと皆に言われている。度量が小さいのだ!毛利輝元殿、宇喜多秀家殿を上に立てその下について事を計った方が良い」・・つまり、君には人徳が無いから表に出るなって事ですね。

三成の仕事のやり方は、公正第一・・三成は武将達の戦場での戦いを秀吉に報告する際、彼らの失敗や不利な情報も容赦なくそのまま伝えていました。
合戦で命を賭けている武将達にとって三成は秀吉の権威をかりて偉そうにしている嫌われ者、「人徳が無い」 という耳の痛い大谷の指摘も否定できませんでした。

慶長5(1600)年7月17日 大阪城から徳川家康を糾弾する檄文が各地の大名に発せられました。
「家康は数々の誓約に違反した・・相談の結果、武力をもって制裁する事とした・・諸将は秀頼様の元にはせ参じるべし」
差出人には、毛利、宇喜多、豊臣政権で5大老、5奉行をになった重役がずらり・・しかし三成の名前はありません・・彼らを立てて三成は裏方に回ったのです。

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
episode3 決戦関ヶ原! 石田三成の一途な戦い

慶長5(1600)年9月14日
家康率いる東軍7万5千が三成の居城、佐和山城に向かいます・・迎え討つ三成率いる西軍8万2千は東軍の進路を防ぐため関ヶ原に布陣・・軍勢の数、陣地の布陣では迎え討つ西軍有利です。

しかし三成には不安があります。
西軍の総大将、毛利輝元は3万の大軍勢を率いながら大阪城に籠ったまま戦場に来ようとしません・・更に味方の中に不穏な噂が・・軍勢1万5千を率いて参加している小早川秀明が家康に内通しているというのです。

これは家康の策略・・西軍諸将になんと184通の手紙を送っていたのです・・内容は、自分に付けば所領安堵・領土を与えるなどです。

慶長5(1600)年9月15日 関ヶ原の戦い
西軍は、総大将・毛利輝元不在のまま決戦の朝を迎えました。
全体の指揮をとる石田三成は戦場全体を見渡せる一番奥に布陣、大谷吉継、小早川秀明など西軍諸将20人は東軍を押し包むように布陣・・そして午前8時関ヶ原の戦いの火ぶたが切られました。

戦いの序盤は互角・・頃合いを見計らって小早川ら高台で待機する軍勢を動かし東軍を包囲するものでした・・勝機は西軍に有り!

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午前11時 三成は待機していた武将に総攻撃の合図を出します・・ところがどの軍勢も動く気配がありません・・三成の指示は無視されたのです。

対し家康は、東軍に内通している小早川秀明の軍に威嚇射撃・・小早川に寝がえりを実行させようと決断を迫ったのです・・戦場に慣れた家康ならではの行動でした。

この脅しが効いて小早川軍1万5千は雪崩を打って西軍に攻め込みます・・それに呼応するように小早川の前、4人の武将も西軍に攻撃をかけます・・思わぬ裏切り、更に東軍の総攻撃をかけられ大谷軍、宇喜多軍は次々壊滅し西軍は総崩れになります。

午後2時、三成は関ヶ原から退却・・三成一人の決意から始まって西軍みんなで挑んだ戦いはこうして終わったのです。

関ヶ原から25キロ、三成が収めた近江の国、滋賀県北東部の古橋、・・戦いの後、三成は彼を慕う人々に数日間、古橋の洞窟で匿われます。

やがて近江の国にも東軍の追ってが迫り、三成を匿った者はその一族まで殺すと言う御触れが出ます・・生きて家康を打倒したい・・しかし自分のせいで村人たちに危害を与えたくない・・三成の答えは、「かまわぬ我を徳川に渡せ」 でした。

慶長5(1600)年10月1日 石田三成斬首 享年41歳
主君豊臣秀頼をたぶらかし政権を乗っ取ろうとした謀反人としてその首は、京都三条河原に晒されました。