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関ヶ原、奇跡の敵中突破! 九州最強・島津兄弟の生きる力

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NHK 歴史秘話ヒストリア
関ヶ原、奇跡の敵中突破! 九州最強・島津兄弟の生きる力

400年前、天下分け目の関ヶ原・・島津義弘の軍勢は、関ヶ原の戦いで敗北しても後に逃げず、僅かな兵で目の前の大軍に向かって突撃、見事脱出するという強烈無比な戦いを見せ 「これぞ島津義弘の敵中突破」 と言われる名場面です。

一方、兄の島津家当主の島津義久は、一族のトップであるにもかかわらず肖像画も残っていない(上の写真は義弘の肖像画)・・派手で勇猛、天下に名を馳せた弟、義弘とは対照に影が薄そうな兄、義久・・何やらトラブルの予感がしますが果たして??

二人のチームワークで九州最大勢力となった島津兄弟、1587年には九州統一まであと一歩というところまで来ていましたが・・巨大な敵、豊臣秀吉九州征伐に乗りこんでくるんですね。

天正15(1587)年 秀吉は、みずから九州に遠征全国から20万人以上の兵を動員・・島津軍は秀吉勢に攻め込みますが数千丁の鉄砲で撃ちかけられて撤退、島津軍は最初の戦いで秀吉の強大さを思い知らされます。

ここで当主の義久は、素早い判断を下します・・みずから秀吉軍の陣地へ出頭、頭を丸めて和睦を申し入れたのです・・秀吉は和睦を受入れます・・これによって薩摩一国を残して島津の領地の多くは取り上げられてしまします。

これに弟の義弘は反発、各地の山城に立てこもり秀吉方への抵抗を開始したのです・・秀吉軍は堅い守りに攻めあぐみます・・ここに秀吉軍の弱点が露呈します。

秀吉は、戦いの長期化を恐れていたのです。日本各地から九州までの長い遠征で兵士達は疲弊し物資の補給も困難になっていたのです。・・軍勢を早く引き上げたい秀吉方は、義弘側を説得、戦闘をやめる条件として元の領地の多くを戻さざる得ませんでした。

兄は降伏し弟は徹底抗戦、専門家の意見は、
志學館大学教授 原口泉さん
「秀吉政権に対して2人の意見が同じなら完全に降伏するか最後まで戦うかどちらかです・・2人の足並みが揃わなかったと言うよりも、それぞれの役割を分担した事が島津の生き残りに役立ったと考えます」・・との事。

あうんの呼吸で役割を分担して領地を守った島津兄弟、方針が一つではないからこそどのような事態にでも対応できるそれが生き残る力になったと言えるようです。

勇猛果敢な島津家の二男、義弘は意外と筆まめ・・国家老に宛てた手紙には、
「手元には兵士の人数が無く何事もなしがたい」
「戦場への到着に日本一の遅れをとり面目を失った」
「手元に人数が無くなにごともなしがたい、もし一つでも不手際があれば島津は消えてしまう」
・・と現場で苦労している愚痴が続きます。

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この苦労の原因は、義弘の援助要請に国元の兄・義久が満足に答えてくれないため・・豊臣秀吉が天下を治めた時代、島津家は豊臣政権の下で生き残る道を選びます・・しかし秀吉の命令は過酷なものでした。
「挨拶に来い!」
「寺を作るから大木を運んで来い!」
「北条氏を討つから小田原まで兵を出せ!」
・・行ったり来たりで疲労困憊、お金も飛んでゆきます。

そのあおりを受けたのが義弘です。兄・義久に代わって京都や大阪で秀吉の対応をしていたのです・・ところが財政難で上の手紙の通りの泣き言が出るのです。

天正20(1592)年 朝鮮出兵 義弘57歳
島津家に大規模な動員がかけられます。全国の大名が肥前名護屋から次々と海を渡って行きます・・しかし義弘はなかなか出陣出来ません本国から船も兵も送られてこなかったからです。

義弘「島津家のために命を捨てる覚悟でいるのに船が来ない為、日本一の遅陣となり面目を失い無念千万・・あまりのみじめさに涙もとまりません、国元の仕打ちを恨みます」

しかしこの時、本国の兄・義久も財政難だけでなく、秀吉の圧迫に抗議した家臣が豊臣政権打倒を叫び城に立てこもるなどの騒乱が起こっていたのです・・当主の義久は追いつめられます。これ以上秀吉の命令に従えば家臣の反発は激しくなり国が危うくなります。・・家臣の反発をおさえるため挑戦への兵員派遣を控えざる得なかったのです。

文禄4(1595)年 義弘60歳、なんとか朝鮮に渡った義弘は少ない兵力で奮戦し鹿児島に戻ります・・そこに秀吉から兄弟の間を裂きかねない命令が下されます。
「義弘は兄・義久に代わり鹿児島城に入れ!」

鹿児島城は、島津家の当主が住む本城、鹿児島城に義弘が入ると言う事は、島津家の当主が変わる事を意味しています。

義弘は秀吉の命令通り、城を出て鹿児島城に向かいます・・ところが義弘は途中で移動をやめてしまったのです。その理由は、「秀吉様の命に従い本城へ移るつもりでしたが準備があるので急には出来ません・・そのため中宿、仮の宿を設けしばらくとどまる事にしました」・・結局、義弘は秀吉が世を去るまでの3年間動こうとしませんでした。

慶長3(1598)年 豊臣秀吉 死去
島津家を翻弄し続けた天下人、秀吉がこの世を去りましたが島津兄弟の苦難は続きます・・新たな壁となったのが天下を狙う徳川家康です。

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慶長5(1600)年9月15日 関ヶ原、天下人を目指す徳川家康の東軍とそれを阻止しようとする石田三成の西軍、合わせて17万の軍勢が激突・・天下分け目の合戦が始まりました。

島津義弘は西軍に参加、兵力が1万を超える武将が数ある中、島津軍は1000人・・国元から兵は送られてこなかったのです・・この僅かな兵で大決戦に巻き込まれたのです。

巨大な軍勢がぶつかり合う中、義弘の軍勢は自分を守るだけで必死、生き残ったのは僅か数百人・・戦闘開始から3時間後、戦局が動きます。西軍に中に裏切りが発生、あっという間に総崩れに。

次々と後ろに退却する西軍の武将達、しかし義弘の軍勢は動きません・・迫りくる徳川方の大軍・・義弘は叫びます。
義弘 「敵はいず方が猛勢か!」
家臣 「東よりの敵、もってのほか猛勢」
義弘 「その猛勢の中にあい駆けよ!」
的に背中を見せても追われて全滅するだけ、的に攻め込み犠牲をいとわず活路を見出す島津流生き残り戦術に打って出たのです。

義弘軍は敵の大軍にキリのように突撃し死に物狂いで突破、猛将 福島正則の軍さえ手出し出来なかったといいます・・更に家康の本陣をかすめ戦場を離脱しようとするのを徳川四天王(井伊直正・本田忠勝など)と呼ばれた猛者達が追撃します。

ところがそこで島津側数人の兵が踏みとどまり楯となります。彼らが全滅すれば次の兵がとどまり防戦、義弘脱出の時間を稼ぐ戦法 「捨て奸」(全滅覚悟で敵の追撃を次々と防ぐ戦術)です。・・島津勢の捨て身の防戦に追撃していた徳川方にも犠牲者が続出、義弘達はようやく戦場を脱出しました。

戦いから19日後、島津義弘、鹿児島に帰還・・ともに帰り着いたのは僅か数十人、あまりにも大きな犠牲でした。

その後、家康は、関ヶ原に敗れながら謝罪を表明していない島津に対して数万の軍勢を派遣、屈服を図ったのです。・・ここで兄・義久が立ち上がります。関ヶ原に送らず本国に温存していた兵を動員、城を修復し国境の守りを固めた。

土地を守る事を決めた島津の武士たち徳川方も手出しが出来なくなりました・・にらみ合いが続く中、家康は島津に交渉で圧力をかけます。・・家康は義久に上方に来るよう命令、しかし義久は、家康からの命令を巧妙にかわして行きます。
「国境の道が軍勢でふさがれていてどうにも通行出来ません」
「旅費が足りないので少し延期させて下さい」
「病気になりました仮病ではございません」
攻撃をためらう家康をあざ笑うかのように何とものらりです。

交渉が進展しない中、家康の思いもよらない場所で大きな打撃をこうむります・・「薩摩沖で明からの商船二隻が襲われ積荷が奪われ乗組員全員を殺害、船は火を放たれ沈められる」 という事件が起こります。

襲撃されたのは、明国との貿易船、家康は天下統一後の国家運営に充てる為、明との貿易で富を蓄えようとしていたのです。・・その大事な船が薩摩沖で沈められた・・事件の黒幕は島津義久でしょう。

志學館大学教授 原口泉さん
「これは家康に対する強烈なデモンストレーション、島津をつぶすとこういう事件が起こるんだ!・・もし最後まで戦うと我々は海に散らばる・・経済的基盤を固めなければならない家康は、島津が海のゲリラとして抵抗勢力になるのを怖がったんですね」

一年後、家康と島津の交渉は決着します。
「薩摩・大隅などもとの領地を安堵する。私と義久は親しいので私に刃向かった義弘はおとがめなしとする」・・結果は家康の根負け。

義久は、関ヶ原で敗れた大名の中でただ一人、家康に一切頭を下げること無く元の領地の保全を認めさせたのです。

国を襲う危機の中、兄・義久は当主として国を守りきったのです・・島津家は、この後、江戸時代も領地を守り抜き結果、鎌倉時代から明治の初めまで700年同じ土地を治め続けました。

「島津に暗君なし」 こんな言葉が生まれるほど勇猛果敢さと政治、外交能力は受け継がれて行きます・・また家臣からも優秀な人材が生まれ幕末、明治には西郷隆盛大久保利通という軍事・政治の両輪で日本を大きく変えるコンビが登場します。

異なる個性がお互いを補完しあいながら一つの目標を達成して行く・・まさに島津義久・義弘、兄弟を生んだ鹿児島ならではのコンビかもしれません。