「治部少(じぶしょう)(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」という歌が残っています。そしてこれとそっくりなものが次の歌。
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐のかしらに本多平八」
本多平八とは、徳川四天王の一人、平八郎忠勝(1548年~1610年)みごとな戦いぶりを見せた彼を敵方の武田勢が称賛したのです。「唐のかしら」とはヤクの毛を飾りに使った兜ですが家康個人の兜としては、このタイプは現存してないんじゃないかな。
忠勝の名は、徳川家中随一の勇将としてあまりにも有名です。鹿の角をあしらった兜に肩から大数珠をさげた漆黒の具足・・名槍 「蜻蛉切」 をかいこみ名馬 「三国黒」 にまたがって50回を超える戦いに参加し一度も傷を負うことがなかった。信長にも秀吉にも賛辞を贈られた彼は、生きながら半ば伝説となっていたといっても過言ではないでしょう。
その彼が真の侍とは、と語りのこしています。特別な手柄を立てる必要はないのだ。どんなときにも挫けず、主人が立ちゆかなくなったら枕を並べて討ち死にする。それが侍であると(『本多中書家訓』)。思いもしないようなことが起きる、肉親ですら信じられない。
それが乱世です・・清く正しく生きても懸命にがんばっても武運つたなく挫折することはあったでしょう・・そんな時、夢破れた主人につきあい何も言わずに一緒に死ぬ。それが侍の忠誠だというのです。深い言葉のように感じられませんか。
これと関連して思い出すのが備前の大名、宇喜多直家(1529年~1582年)のエピソードです。この直家ともかくズルがしこい。寝首を掻く、狙撃する、裏切る。品のない言葉を許していただくなら、「どぎたない手段」を使いまくって一代で身を起こしました。
さて悪行三昧の彼にも最期の時がやってきます。病(大腸がんのようなものか)を得て余命幾ばくもないと悟った彼は、何をしたか・・主だった家来を一人ずつ病床に呼び寄せ、お前は私と一緒に死んでくれるよな?と殉死するようプレッシャーをかけたのです。
その結果として、はい分かりましたとOKした人の名を記した 「殉死ノート」 を作成し肌身離さずもっていた。
最後に呼ばれたのが第一の家来、戸川秀安。もちろんこいつは喜んでお供してくれるものと思っていたところ、「遺(のこ)された若君(のちの秀家。豊臣五大老の一人)をお守りする責務がありますから」とにべもなく断られた。
オイ、それはないだろう、と再考を促すと、 「私はいくさ働きには自信がありますが、あの世への道案内はとんと不得手です。私などより、お坊さんをお連れになられたらいかがでしょう?」 とあくまでもつれない返事・・
しょげかえった直家は、 「殉死ノート」 を破り捨ててしまった(『武将感状記』)。秀安があんなこと言うんだものなあ。こんなもの信用できるか!と思ったのでしょう。梟雄(きょうゆう)も最後は一人ぼっち、というお話。こちらは何だか、とっても切ないですね。
本多忠勝の実像
本多忠勝は関ケ原の戦いののち桑名10万石に封ぜられ、その嫡流は岡崎5万石の大名として明治維新を迎えた。この画の原本は同家に伝わったもの。描かれている漆黒の具足は今に伝わっていて、それをもとに計測すると豪勇をうたわれた忠勝はかなり小柄であったという。