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”ひょうきん”に命がけ~戦国武将・古田織部 美の革命~

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NHK 歴史秘話ヒストリア
”ひょうきん”に命がけ~戦国武将・古田織部 美の革命~

episode1 ようこそ!”ひょうきん美学”の世界へ
古田織部(重然)戦国武将です・・故郷は岐阜県南部・美濃の国、当時美濃は東から京都を目指す武将たちにとって重要な土地でした。

永禄10(1567)年 織部24歳、美濃に織田信長がやってきます。美濃を拠点に天下統一を目指す信長との出会いが織部を大きく変えます。

とわいえ若き武将、古田織部が得意とした任務は、”使番”戦場の連絡係です・・織部には戦いで武勲を上げた記録は無く、勇猛果敢といったタイプではなかったようです。

天正6(1578)年 織部35歳、織部が得意としたのは説得工作、話合いで敵を味方に引き入れてしまう事でした。・・戦は苦手、しかし使番としては一流、人の心をつかむ能力を認められた織部は信長が本能寺で死ぬまで家臣として仕え続けました。

一方、織部にとって信長は、主君であるとともに”美の革命家”でした・・信長が造った安土城は「城は戦いの道具」といった当時の常識を覆し、美しさと威厳で人々を圧倒します。

また信長は見の回りにまだ日本に持ち込まれたばかりのヨーロッパの品々、南蛮美術を取り入れて行きます・・「自分が気に入ればそれが美しい」・・織部は信長のそばで芸術の常識が塗り替わる新しい時代の息吹を目の当たりにしたのです。

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(黒楽茶碗「俊寛」)
織部は30代の頃、もう一人、重要な美の師匠と出会います・・千利休茶の湯で天下一と讃えられた人ぶちです。

茶の湯とはお茶を味わう作法だけを指すのではありません・・茶室という空間で見えるもの、聞こえるもの、触れるもの、味わうもの全てに気を配り、五感を駆使して客をもてなす、いわば総合芸術・・そうした茶の湯の名人、利休は当時の流行を左右する文化人のリーダーでした。

利休が愛用したり、作らせたりした品々は、『利休好み』と呼ばれ人気を集めます・・そうした中から静かな風情を磨く ”詫び” の美学を完成させたのです。

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(茶碗「十文字」)
織部の美意識がよくわかるのが茶碗「十文字」、織部のお気に入り・・いわゆる「織部好み」です・・この傷は、織部がわざと割ってからツゲ直したと言われています。

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(水指「破れ袋」)
織部が褒め称えた水差し・・ひしゃげてヒビが入っています・・「破調の美」静けさを破る意表を突く変化に織部は美しさを見出したのです。

こうしたセンスは戦国の終わり、新しい価値観を求める時代の中で評判となります。

古田織部は完全な茶碗はつまらない物だとしてわざと壊して用いた・・良くない趣味だと言う人もいるがそもそも茶道の風流とは決まり切ったものではないのだ」(当時の茶人の記録 茶話指月集)

天正19(1591)年 織部48歳、千利休豊臣秀吉の怒りを買い切腹を命じられる・・織部は死の間際に利休からもらった手作りの茶杓(「泪」)を位牌に見立てて拝み続けました。

利休の志を受け止めた古田織部は新たな日本の美を打ち立てようとします・・やがて織部が認めた焼物・茶室・庭などが『織部好み』として大流行するのです。

そんな織部好みの評価について京都で行われた織部の茶会の茶会の記録が残っています。

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「瀬戸茶碗ひずみ候、ひょうげものなり」(豪商 神屋宗湛の日記)・・ゆがんだ茶わんなんともひょうきんだ・・茶会に出席した人のビックリした表情が伝わってきます。

あえて割り、あえてヒビを面白いと評した古田織部、ひょうきんでどこか明るく楽しい古田織部のこのみが日本中にうけていたのです。

京都には古田織部、所縁の茶室を守り続けている家があります・・400年続く茶道の藪内流家元のお宅です。


episode2 織部焼は、誰が?どうやって?


古田織部の用いた茶碗は、ヘウケモノ=ひょうきんなもの・・と言われました・・この『ヘウケモノ』というタイトルで織部の精神を現代に蘇らせようとしている漫画家、山田芳裕・・2005年から古田織部を主人公としているマンガを連載しています。

 

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漫画家 山田芳裕
織部焼は、古田織部がプロデュースしたのでは、という発想からイメージを膨らませました」

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織部焼というのは、京都の商人がデザイン・形などをプロデュースし美濃で作られたのではないかと考えられています。


episode3 ”ひょうげもの” 天下に反抗する

慶長5(1600)年 織部57歳、古田織部は歴史を変えた大戦で大きな役目を果たした事があります・・徳川家康が天下人への王手をかけた関ヶ原の戦いです。

戦いの直前、江戸から戦場に向かう徳川家康織部に大事な頼みごとをします・・水戸の武将、佐竹義宣を味方に引き寄せて欲しいというもの・・西へ向かう家康は背後を佐竹に突かれるのを恐れていました。

佐竹もまた織部と同じく茶の湯を愛好する武将です・・織部は佐竹との話合いの末、味方にする事に成功、人を魅了する才覚と茶人としての広い人脈が織部の実力だったのです。

慶長15(1610)年 織部67歳、2代将軍、徳川秀忠茶の湯の指南役に抜擢されます・・茶人としての力量、武将たちへの影響力は徳川も認めざる得ないものだったのです。

関ヶ原から10年後、徳川家康は更なる野心を見せ始めます・・家康は徳川の未来のためには一点の傷も見過ごせないと考えました・・その傷とは豊臣家です。

当時、豊臣家は政治権力は失ったものの大阪城で権威を保っていました・・家康にとって邪魔な存在です・・家康からの度重なる挑発に対立を深める徳川と豊臣、そんな中。古田織部は謎の行動をとり始めます。

江戸で将軍秀忠に謁見する際に豊臣家の武将、片桐且元を伴います・・片桐は豊臣側の和平交渉を役割を担っていました・・しかし豊臣を追い詰めつぶす事が徳川家康の野望、和平交渉を快く思うはずがありません。

家康の方針にはむかうような織部の動き・・天下一の茶人として徳川と良い関係を築いていた織部がなぜこのような動きにでたのでしょう。

歴史研究家 久野治さん
織部は、文化人であり、ハト派であったと思います・・徳川と豊臣との両家の間に平和的に共存は出来ないものかと行動したわけです・・徳川家の茶道指南役という立場でありながら徳川の方針に反対したわけです」

しかし家康はこれをはねのけ、更なる策を展開・・豊臣家が作った鐘に刻まれた銘文『国家安康』の文字が自分の名を分断し落としめていると難癖を付け、豊臣を追い詰めます。

家康はこの時、鐘の銘文を考案した僧侶・文英清韓に蟄居を命じます・・ところが織部は、なんとこの清韓を自宅の茶会へと招いたのです・・誰の目にも家康への反抗心は明らかです。

和平を目指すならまだしも、今度はあえて家康を挑発するような謎の行動です。

国立民族学博物館名誉教授 熊倉功夫さん
「徳川支配の安定に向けて傷や乱れを許そうとしない社会への抵抗だと考えます・・織部は、安定化、秩序化に対する抵抗の精神があったのです・・抵抗の精神と安定化が衝突すると常識を破らざる得ないのです」

慶長20(1615)年 しかし時代の流れが変わる事はありません・・大坂夏の陣で豊臣家は滅亡、家康は一点の傷も無い徳川の世を完成させたのです。

戦いの直後、家康の矛先は織部へと向けられます・・織部に謀反の疑いがかけられたのです・・「古田織部は豊臣方についた息子と共謀し、京都の二条城にいた家康を討ちとろうとたくらんだ」・・でした。

家康の命じた処分は、織部切腹、古田家は断絶・・憎しみがこもった厳しい処分です。

時に古田織部・73歳、家康の命令に対しただ一言、「かくなる上はさしたる申し開きはなし」・・動きや変化を求め”ひょうげ”を愛した古田織部、最後に命がけで時代にひょうげて見せたのです。

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古田織部が死を迎えた頃、大流行していた織部焼も急速に姿を消して行きます・・果たしてそこに繋がりはあるのでしょうか?

京都市、近年街の中心部で織部焼の発掘が相次いでいます・・その数1200点以上、見つかった場所はかつて焼物屋が軒を連ねた場所、当時流行した織部焼が数多く出回ったエリアです。

とこりが発掘状況は意外なものでした・・織部焼は庭の隅にゴミと一緒に埋められていたのです・・一世を風靡した織部焼に何が起こったのでしょうか。

京都市埋蔵文化財研究所 調査課長 吉崎伸さん
「廃棄された時期が寛永の終わりという事なんで徳川幕府が政権を固めてきて違った流行が始まって商品としては流行遅れになったのではないでしょうか」

また織部焼誕生の地、美濃の久野治さんは、織部焼が急に姿を消したのは古田織部が徳川に刃向かって死んだ事に関係があるのではと考えています。

歴史研究家 久野治さん
「1615年、織部が亡くなると同時に美濃にあった窯は全て閉鎖されて陶工は四散します・・織部焼は御法度ですから」

流行が去ったからか反逆者として逆らったから一掃されたのか・・織部焼は徳川の世が固まるとともに消えて行きました。

それでも織部焼古田織部が流行した僅かな時間、ひょうげもの・・ひょうきんで刺激的な光が日本を一瞬明るく照らしたのです。