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「畿内の覇者」と天下人はどう違う

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波多野秀治(1529年~1579年)

畿内の覇者」と天下人はどう違う

必要があって源頼朝の父、源義朝の事跡を調べていたのですが、義朝を支えていた家人といえば、一に山内首藤氏(義朝の乳兄弟の鎌田正清はこの家の人)、二に波多野氏。

山内首藤氏の本領は、鎌倉を含む相模国山内荘。波多野氏の本領は、現在の神奈川県秦野市にあった同国の波多野荘。義朝は波多野の娘との間に、次男朝長(ともなが)をもうけています。

戦国時代の丹波で活躍した戦国大名の波多野氏は、広くいえば相模波多野の子孫だそうです。石見の吉見家(頼朝の弟の範頼の子孫)出身の清秀が母方の波多野を名乗り、細川勝元に仕えたのが丹波波多野の初代。清秀は勝元から丹波に所領をもらって同国に根をはり、その子の元清は巧みに勢力を伸長して大名へと成長していきました。

やがて織田信長畿内にやってくると、波多野秀治はこれに降ります。信長は明智光秀丹波の平定を命じ、秀治は光秀の指揮のもとで働きました。ところが天正4(1576)年、突如として織田家に反旗をひるがえす。その後は地元の豪族、赤井直正と連携し、ねばり強く抗戦するのです。

ちなみにこの赤井直正、小説などにはほとんど取り上げられていませんが、相当な戦上手だったらしい。あだ名が「悪右衛門」とか「丹波の赤鬼」。

甲陽軍鑑』には、「名高キ武士」として、徳川家康長宗我部元親と並んで名が挙がっています。また、正室が関白の近衛稙家(たねいえ)の娘、というのもすごい。なお、「浪速のロッキー」赤井英和さんは、直正の子孫であるとか。うーむ、強いわけだ。

秀治の娘の一人は隣国である播磨国の大名、別所長治に嫁いでいた。この長治も初め信長に従っていたのですが、天正6(1578)年に背き、居城である三木城(兵庫県三木市)に立てこもる。毛利家と戦っていた羽柴秀吉は、背後が危うくなって慌てて軍を引き返します。

取り残された上月城(同県佐用町)が落城したのはこのとき。毛利に滅ぼされた尼子家の再興を期していた城主の尼子勝久切腹、「われに七難八苦を与えたまえ」と月に祈った山中鹿介は捕らえられて殺害されます。

明智光秀天正7(1578)年、波多野秀治が立てこもる八上城(同県篠山市)を落とし丹波国を平定しました。これに続いて翌年には羽柴秀吉が別所長治の三木城を陥落させて播磨を手に入れました。

ところが実は、25年ほど前にも同じようなことをしていた人物がいた。それが三好長慶松永久秀です。彼らは、八上城と三木城をほぼ同時に攻めている。天文24年(1555年)八上城波多野晴通(秀治の父)と三木城の別所就治(長治の祖父)は三好の軍勢に降伏。丹波と播磨はこれ以後、三好家の支配下に入りました。

長慶は信長と同じようなことを、やっている。信長より四半世紀早く。そういえば、長慶の支配した国々は、四国の阿波と讃岐を本領として、山城、河内、和泉、摂津、大和、それに丹波と播磨。実に広い範囲に及んでいるのです。

これだけの勢力圏を持ちながら、なぜ彼は天下の統一を目指さなかったのでしょう? 信長との違いは何なのでしょう?

波多野秀治八上城に籠城し、1年半にわたって耐え抜いた。だが兵糧が尽きて降伏、安土に送られて磔(はりつけ)に処せられた。一説には光秀が助命を約束したので開城したが、信長によって約束は破られ人質になっていた光秀の母は怒った城兵に殺されたという。

本郷和人 東大史料編纂所准教授 昭和35年 東京都生まれ・・東大文学部卒 専門は日本中世史