毛利元就(1497-1571)
歴史好きの永遠のテーマ 戦国大名、一番強いのは誰?
歴史好きが飲みながら熱く語りあうテーマは数あれど、その代表といえば、「戦国大名の中で、だれが一番強かったか」にとどめをさします。
そりゃあ、軍神・上杉謙信だよ。司馬遼太郎は何という作品だったか忘れちゃったけれど謙信と信玄のふたりは、世界の戦上手の五指に入る、と書いてたし。ええっ、そうかなあ。2人が戦上手なのはいいとしてさ、川中島の戦いは実質的には武田の勝ちでしょ。謙信より信玄じゃないかな? いやいや、坂口安吾は信玄と織田信長が戦えば、総力戦で信長が勝つと書いていた。おれもそれに賛成。おいおい、もうちょっと局地的な戦闘にも目を向けてもらわないと。そうなると、立花宗茂(むねしげ)だろ。これ、最強!
もちろん、歴史学の論文になるような話では、もともとない。本当の戦争は、実際には悲惨で残酷なものでしょうけれど、それはちょっとこちらに置いておいて。お酒の勢いも借りた、他愛のない議論はとても盛り上がるわけです。
え? ぼくは誰が強かったと思うか、ですって? そうですね、そう尋ねられたときの答えは、実は決まっているんです。それはですね、えーと、毛利元就。ちょっと意外ですか? 元就って、謀略家のイメージが強くって、戦上手っていう印象がない。だけど、それなりの根拠はちゃんと用意してあるんですよ。
戦いは多勢の方が有利。兵力差で圧倒すればするほど、勝利に近づく。それが基本です。だから戦国大名たちは、行政に励み、経済にも十分に留意して、一生懸命に国を富ませる。国が豊かになれば動員できる兵力が増大し、鉄砲も購入できる。補給路もしっかりする。これで軍勢は強くなる。
けれど、それが王道ではあるのですが、戦国大名は時として、「少ない兵で、大軍を迎え撃つ」という事態に直面してしまうときがあります。
まともに戦えば、勝てそうにない。この時に、彼は知恵をふりしぼり、勇気の限りを尽くして困難に立ち向かう。そして、ついには絶対的に不利な条件を覆し、勝利をつかむ。後世に名を残した大名には、そうした勲章を持っている人が少なくない。
有名なのは、いうまでもなく、桶狭間の織田信長です。今川義元を討ち取りました。それに河越城の夜戦の北条氏康。8千の兵で数万の上杉勢を蹴散らし、武蔵国を制圧しました。豊臣秀吉も木下藤吉郎の時代に、金ケ崎からの退却戦(浅井長政が裏切ったために、織田軍のしんがりとなって、朝倉勢と戦った)を成功させています。
まあ、こうした結果は、運も味方してくれないと実現できない。だから勲章は、あったとしてせいぜい一つ。桶狭間以後の信長が、必ず優勢な兵力を用意して戦いに臨んだことでも分かるように、やはり「少ない兵で、大軍に勝つ」というのは、邪道なのです。
ところが、人生で、三度、こうした戦いを勝ち抜いた大名がいる。勲章を三つももっている戦上手がいる。それが誰あろう、毛利元就なのです。
■代々小領主だった毛利元就
毛利氏は鎌倉幕府に仕えた毛利季光(すえみつ)に始まる。その父は幕府の草創に功績のあった大江広元で、相模国毛利荘を4男の季光に譲った。彼は父と異なり、武士としての人生を歩んだ。のちに宝治合戦(1247年)で妻の実家の三浦氏にくみし、戦死を遂げている。