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「実力」こそ戦国大名の条件

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足利義輝(1536~1565年)

「実力」こそ戦国大名の条件

戦国大名とは何かと尋ねられれば、その地域の王者です、と私は答えます。天皇や将軍の権威を借りず、自らの実力で地域を支配する権力、それが戦国大名なのだと考えるのです。

この定義についての詳しい説明はまたの機会に譲り、今回は戦国大名が生まれてくるまでの歴史をまとめようと思います。戦国大名の先行形態として、地域には鎌倉時代の守護、室町時代守護大名がありました。これらはいったいどう関係していたのか。

鎌倉幕府は国ごとに守護を置きました。この守護は江戸時代の大名ではなく、役人であり、官人(かんにん)です。たとえば下野(しもつけ)の守護は小山氏ですが、小山氏は下野の国の土地を支配し、物産を支配し、人々を支配し、という存在ではないのです。

官人には職務があるわけですが、これが有名な「大犯(たいぼん)三ヶ条」です。
1.謀反人の逮捕
2.殺害人の逮捕
3.大番(おおばん)の催促(国内の御家人を順番に京都に赴かせ、内裏(だいり)の警護に当たらせる)。

この3つ・・さて、ここで留意すべきは、守護の職務はこの「大犯三ヶ条」を代表とする、もろもろ。ではありません。「大犯三ヶ条」だけ。「大犯三ヶ条」以外に、守護は権限を行使してはならないのです。

鎌倉幕府が倒れると、足利氏は一門の武士たちを各地に派遣し、新たな守護に任じました。斯波(しば)・畠山・細川などなど…。彼らは南北朝の戦乱に対応するために、将軍や幕府の権威を利用して、国内の武士、すなわち国人を束ねていきました。

彼らを家来として取り込み、優勢な軍事力を構築したのです。それを達成できぬ者は、容赦なく淘汰され、新たな守護が京都から任命されました。3代将軍の足利義満のころには戦乱はひとまず終息し、各国の守護の顔ぶれが確定する。ここに生き残った者たちが、新たな守護である「守護大名」であり、幕府政治の担い手ともなりました。

やがて応仁の乱などを契機として守護大名たちはそれぞれに領国に帰り、京都政界ではなく、在地への対処を重視するようになります。この動きの中で、「守護大名」は「戦国大名」へと変貌を遂げていく。戦国大名守護大名を分かつもの。それは一言でいえば「実力」です。守護大名は将軍や幕府の権威を頼る。戦国大名は他者をあてにせず、自己の才覚で支配を行う。この意味で戦国大名こそは、土地を支配し、その地に生きる人々を支配する、その地域の「王」なのです。

以上の内容をまとめてみましょう。守護とは。鎌倉幕府に任命された、国を治める官人。「大犯三ヶ条」を職権とする。守護大名とは。室町幕府に任命された守護のうち、各国の在地武士である国人の取り込みに成功したもの。国人を動員して、軍事を担う。戦国大名とは。前回の記事も参照するならば、国人のみならず、地域の地侍層までを家人とすることに成功したもの。国人を寄親(政治的な保護者)、地侍を寄子(被保護者)として、大がかりな軍事動員を可能にした。

三好長慶(ながよし)は畿内に勢力を広げながら、なお守護大名の性格を払拭しきれないでいた。織田信長は、支配を地域に深く浸透させていった。両者の違いはここに見られるのです。


■下克上された剣豪将軍
足利義輝(1536~1565年)は室町幕府第13代将軍。若年の頃より、三好長慶と和睦と抗争の日々を送った。剣の名手であったが、これは彼の将軍としての力量とは関係なく、やがて松永久秀や三好一族によって謀殺された。

本郷和人:東大史料編纂所准教授