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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

関ヶ原 知られざるヒーローたち ~戦国乱世に咲いた男の華~

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NHK 歴史秘話ヒストリア
関ヶ原 知られざるヒーローたち ~戦国乱世に咲いた男の華~

関ヶ原の主戦場から南西に1キロほどの山の中、人里離れた場所にひっそりと立つ墓があります…関ヶ原でただ一人切腹した西軍の武将・大谷吉継の墓です。

吉継の姿は、『関ヶ原合戦図屏風』(上記画像)にも描かれています。…武将たちが戦いを繰り広げる中で鎧も着けず目をつぶって座り込んでいる吉継、この時、吉継は病のため視力を失い、歩くことさえできず、とても戦える状態ではありませんでした。

なぜそんな身体で吉継は出陣したのでしょうか…忠義に殉じた男の涙の物語です。


episode 1
友情と恩義に殉じた武将
大谷吉継

慶長3(1598)年、天下を治めていた太閤・豊臣秀吉 死去…その後の覇権を巡って対立が起こります。…家臣の石田三成は秀吉の意志を受け継ぎ、豊臣政権を存続させようとしていました。

しかし、そこに立ちはだかったのが、この機にじょうじて実権を手にしようとする徳川家康でした…家康は、250万石の大大名、リーダーとしての指導力も人望もあります。

 

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対して石田三成は、僅か19万石、二人の格の違いは明らかでした…それゆえ世の武将たちの多くは、次の権力者は家康と見ていました。

三成は、打倒家康を考えるようになりますが支援者も多くは望めず、まず勝算はありませんでした。

慶長5(1600)年7月、その三成を一人の武将が訪ねます。大谷吉継です…三成とは10代の頃からともに秀吉に仕え、苦労を分かちあってきた間柄でした…この時、吉継42歳・越前敦賀5万7000石の城主を務めていました。

吉継は若くして秀吉に才能を見いだされ、豊臣政権を支える家臣となった人物でした。しかし出世街道を歩んでいた最中、吉継は病にかかります。…それは、体中に出きものができ、後には視力が衰え歩く事もままならくなる重い病です…吉継は、このため一線から退くようになっていたのです。

病の身を押して訪ねてきた吉継は、三成の話を聞いてやります…記録によれば、この時、三成は家康打倒に協力してくれるよう吉継に懇願したといわれます。

しかし吉継は、家康との格の違いを諭し、三成をとどめようとしました…「無理だ、おぬしに勝ち目はない、諦めよ」と…三成は、「おぬしは、秀吉さまのご恩を忘れたのか」と…三成は亡き主君への忠義を訴え決して諦めようとしません。

二人の話合いは、いちまでも決着が付きませんでした。…およそ10日後、吉継は再び三成を訪ねます…重ねて三成を説得すると思いきや、この時、吉継が申し出たのは共に立つ事でした…重い病であった吉継、なぜ一転して友の頼みを聞き入れたのでしょうか。

明治時代の伝記、『豊太閤』には、亡き秀吉と吉継をめぐる興味深い逸話が記されています。…それは、秀吉によって催された茶会での事、秀吉が点てた茶を作法に則り、皆が回し飲みをしていました。

そして吉継の番に来て大変な事が起こります…なんと茶碗の中に吉継の顔から膿が落ちてしまったのです…思わぬ事に皆の間に気まずい空気が漂います。…とその時「吉継その茶はうまく点てられなんだ、わしに返せ」…秀吉は吉継の失敗をかばうためにそのお茶を一気に飲みほしたのです。

秀吉の家臣への深い愛情を伝える逸話、吉継が決断した背景には、自分を大切にしてくれた主に報いたいという思いがあったのかも知れません。

引き受けた後の吉継の行動は素早いものでした…吉継は三成とともに全国の諸大名に宛て打倒家康の協力を書状で呼びかけたのです。…吉継が行ったのは、書状の差出人を三成ではなく、西国大名の毛利輝元宇喜多秀家の名にする事でした。

毛利は120万石、宇喜多は57万石の有力大名です…吉継は三成では格下過ぎると考え、あえて二人の協力を取り付けたのです。

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吉継の読みは、見事に当たります…大物二人が立つならばと全国の大名が続々と協力を申し出てきたのです。…そして関ヶ原での決戦前日、戦場に入った吉継は更なる手を打ちます。…実はこの時、吉継は見方である小早川秀秋が裏切るかもしれないという情報を掴んでいました。

小早川隊は、総勢1万5000の巨大な軍団でした。…吉継がとった対策は、いざ裏切りが起っても即座に封じ込めるよう自らの隊を小早川隊の近くに配置すること…その上で備えの部隊を4隊置きました。…西軍勝利を期しての万全の布陣でした。

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敦賀短期大学 教授 外岡慎一郎さん
関ヶ原の戦いの本戦までの部分は、吉継が陣形を整えています…戦う直前までは、西軍優勢の情勢を作ったのは吉継の戦略として考えていいと思います」

慶長5(1600)年9月15日 午前8時、いよいよ戦いが始まります…指揮をとる吉継、しかし記録によれば、この時、吉継は病の悪化で視力を殆んど失い歩く事もままならない状態だったといいます。

吉継は、家臣に戦況を尋ねながらかろうじて采配を振るいました…西軍に士気は高く予想を超える勢いで東軍をじりじり後方へ押していきます。…西軍の善戦ぶりは、挽回しようと焦った家康が自らの陣地を最前線近くに移すほどでした。

そして正午、吉継が予想していた事が起こります…小早川秀秋の裏切りです。高台で待機していた小早川の軍勢1万5000が雪崩を打って見方である西軍へと攻め込んできたのです…しかし、この裏切りをすでに読んでいた吉継は動じませんでした。

怯む事無く小早川隊を迎え討ちます…小早川隊を必死で押し返す吉継隊、”このまま防げば勝てる”そう思った時でした。…予想外の事が起こります…小早川隊の裏切りに備えていたはずの4隊が突如、吉継隊に向かって攻めてきたのです。

小早川隊の裏切りによって動揺したのが原因でした…これにより形成は一気に逆転、吉継の部隊は孤立し、これをきっかけに西軍は総崩れとなってしまいます。

次々と討たれる吉継の家臣たち…吉継の耳に入る家臣の声も少なくなっていきました。西軍の敗北を悟った吉継、残った僅かな家臣たちを集めて金を渡し、逃げ延びるよう申しつけたといいます。

そして西軍の武将たちが次々と撤退して行く中、戦場に踏みとどまり、切腹する事を選びました。

慶長5(1600)年9月15日 大谷吉継 死去 享年42

友情に殉じて戦い、敗北の責任を一身に負うようにして果てた武士の最期でした。

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
関ヶ原 知られざるヒーローたち ~戦国乱世に咲いた男の華~

手柄、出世…戦いをチェクする役目の侍もいたのです…それが上記画像の伍の旗を掲げた武士・伍番衆、主な任務は伝令ですが同時に武将たちの働きぶりを見る役目も負っていました。

武将たちがどんな手柄を上げたか見極めることで、戦の褒美を配分する際に役立てていたのです。…中でも評価が高いのが開戦直後、敵に真っ先に斬り込む一番槍、勇気がいるため成功すると大きく出世出来ました。

この一番槍に命を懸けたのが福島正則です…その情熱の源は何と言っても”出世”…関ヶ原の舞台で大出世を狙った正則の行きついた先とはいったい…。


episode 2
戦は勝ってなんぼ! 出世命の福島正則

福島正則は、永禄4年生まれ、幼くして秀吉に引き取られた正則は、寵愛を存分に受けて育った秀吉の秘ぞっこでした。

この正則の特徴は一言でいえば、”立身出世が大好き”…その出世をかなえたものが槍です。この槍を手に敵に真っ先に斬り込んでいく、一番槍が正則の得意技でした。

その活躍で最も有名なのが正則23歳の時に参戦した『賤ヶ岳の戦い』…合戦の絵に描かれているのは、皆が敵に攻め込む中、一人踵を返す正則、一番に敵の首をとった事を知らせるためいそいそと戻ろうとしています。

この活躍のおかげで正則は一気に5000石へと昇進、その後も戦の度に手柄を重ね、24万石までとんとん拍子に出世して行きます。

そんな正則に運命の転機が訪れます。主である秀吉が死去、これによってその後の覇権をめぐって豊臣政権存続を訴える石田三成と実権を握ろうとする徳川家康が対立します。

この時、正則が選んだのが忠義を訴える三成ではなく、勢力に勝る家康でした…。

慶長5(1600)年7月、秀吉の遺言を次々と破る家康の横暴ぶりに、ついに三成が挙兵します。…この知らせを受けた時、家康は正則をはじめとした秀吉に恩義のある武将たちと一緒でした。

家康は、豊臣恩顧の武将たちを何とか味方につける方法は無いかと画策します…この時、目を付けたのが正則でした。…家康は正則を呼び出し、頼み事をします…それは豊臣恩顧の家臣たちの前で家康に協力すると一番に宣言すると…皆を自分の味方に引き込むための作戦でした。

翌日、家康は武将たちを集め、三成が兵を上げたと伝えます…そして皆にどちらに着くかと尋ねました。…武将たちはざわめきます…三成と戦えば秀吉の息子・秀頼には向かう事になるのでは、…その時、正則が口を開きます。

「これは三成の企みで、秀頼様には関係ない…わしは家康殿にお味方いたす」(『名将言行録』より)…正則の効果は絶大でした。…「秀吉の秘ぞっ子、正則殿が味方するなら」と殆んどの武将が家康に着いたのです。

そして向かえた関ヶ原の合戦、午前8時、戦いの火ぶたが切られます…この日、正則隊が陣取ったのは東軍の一番前、もをちろん一番槍を狙ってのことでした。

 

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ところが正則隊は、思いもよらず他の隊に一番槍を取られ、更に西軍の猛攻によってじりじりと後退させられてしまいます。・・・この家臣のふがいなさに激怒したのが正則、どっしり構えているはずの大将なのに陣を飛び出して行ってしまいました。

そして最前線につくや家臣を一喝、…「一歩でも退くものあらば、このわしが斬り捨てるぞ」…正則の剣幕に家臣たちは気合を一新、見事攻撃の巻き返しを成功させたのです。

午後2時、正則隊の奮戦の甲斐あって戦いは東軍の勝利となりました…こうした関ヶ原での活躍を認められた正則は、安芸・備後2カ国、およそ50万石を与えられます…正則は思惑通り大出世をとげたのです。

ところが絶好調だった正則に思わぬ結末が待ち構えていました…家康に代わって秀忠の代になると正則に対して突然の処罰が下されたのです。

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それは50万石から4万5000石への格下げ、そして信州・川中島へ移れとの命令でした。理由は城の石垣を修理する際、許可を得なかったとの罪で言いがかりに等しいものでした。

かつて秀吉の秘ぞっ子でありながら逸早く徳川方についた正則、幕府にとっては完全には信用できない存在と見なされたのです。

東京大学史料編纂所 准教授 本郷和人さん
「正則が一番最初に徳川家との縁組に応じた、いの一番に『家康に味方する』と言った逆に言うと事情が変わったとき、徳川家をあっさり裏切るかも知れないと思われたのです」

その5年後、正則は64歳で亡くなります。…晩年、正則は自らの心境をこう語っています。「我は弓のようなもの戦があれば重宝され、泰平の世になれば、こうして蔵に入れられるのだ」(『名将言行録より』)

そんな嘆きをつぶやいて関ヶ原一勇猛な男はm出世街道の幕を下ろしたのです。

 

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
関ヶ原 知られざるヒーローたち ~戦国乱世に咲いた男の華~

西軍の総大将・毛利家の重臣吉川広家関ヶ原の合戦当日、心の中で誓っていたのは意外なことでした…「今日は絶対戦わない!」…戦うための戦場で戦わないために苦労した男の意外な物語です。

永禄4(1561)年、広家は、毛利家の親戚、吉川家に生まれる…広家の祖父は、一代で毛利家を中国地方の覇者にした毛利元就、広家にとって憧れの存在でした。

その尊敬する祖父・元就の教えは、「毛利は天下を競うべからず」家を守るには分をわきまえて領土を拡大せず現状維持に努めよと周囲に言い聞かせていました。
 
天正15(1587)年、27歳で吉川家を次いだ広家は、この教えを守ろうとします。本家である毛利家を支えるのは自らの使命と日々努力していました。


episode 3
絶対戦わない!
吉川広家の極秘ミッション

慶長3(1598)年 広家38歳…そんな中、天下を治めていた秀吉が亡くなり、その後の覇権を巡って家康と三成の戦いが勃発します。…日頃から毛利家のため情報収集に努めていた広家は、今度の戦いは家康が勝つと情勢を読んでいました。

ところが毛利家の当主・輝元が三成に頼まれて西軍の総大将を引き受けてしまったのです。…何も知らされていなかった広家は、お家の一大事と焦ります。

そのとき頭に蘇ったのがあの元就の教えでした…「毛利は天下を競うべからず」このままでは、祖父・元就の家訓を破ってしまう…使命感に燃えた広家はある作戦を思いつきます。

それは、総大将になった本家の輝元には内緒で、勝手に敵の家康方と密約を結ぶ計画でした…。

慶長5(1600)年9月14日、関ヶ原の合戦前夜、広家は家康の陣地に使者を送ります…そこで、「明日、毛利隊は戦に参加しないので負けてもお咎めなしにしてほしい」と頼んだのです。

広家の申し出に感謝した家康は、これを受け入れます。そして血判つきの誓約書を出し、「約束を守れば毛利家は安泰」と伝えました。

慶長5(1600)年9月15日、翌朝、決戦当日…広家は当事、毛利隊を監督する立場でした。それを利用し、あえて戦いづらい布陣を敷きます。

 

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広家が選んだ毛利隊の陣地は、なんと関ヶ原の主戦場から6キロも離れた場所、標高419mの南宮山でした。本来ならもっと主戦場に近い位置に陣取る事も可能なはず。しかし広家は、この遠方の山の上に毛利本隊1万5000を押し込めてしまいます。

南宮山の麓と山頂の毛利本隊の陣地を結ぶ道は、細い一本道しかありません…いざ出陣となっても山を降りるのに1時間近くかかります。

更に広家自身が陣取ったのは、山の麓です。…本隊が出陣しようとして降りてきても麓でブロックしようとしたのです。

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午前8時、合戦が始まります…両軍による一進一退の必死の攻防が続きます。この頃、南宮山の毛利隊はというと…かやの外でまったく動かないまま…やがてしびれを切らした三成から毛利隊の参戦を促す、のろしが上がります。

のろしを見た毛利本隊が出ようとしますが麓にいる広家がつかえて動けません…そこで広家に出陣を促しに行くと…「まだ動く時ではない。しばし待たれよ」(『関ヶ原軍記大成』より)広家は決して動こうとしません。…広家は早く戦が終わる事を祈っていた事でしょう。

戦が始まって6時間後、広家の必死の願いが通じたのでしょうか、ついに東軍勝利で戦が終了します。

結局、毛利隊はまったく戦いませんでした…使者0、負傷者0、こうして広家の戦わない作戦は成功したのです。

ところが戦の後、事は思わぬ方向に進みます。…なんと家康側から西軍の責任者として毛利家はとり潰しと伝えられたのです。

「約束が違う」と訴える広家に家康はとりあいません…そこで慌てて広家がもらった誓約書を確かめると家康の名前がありません…書かれていたのは家康の家臣の名前だけでした。…まさに悪徳商法のような手口、広家は家康に一杯食わされてしまったのです。

しかも家康は、広家のおかげで勝てたと取り上げる毛利家の領土の一部を褒美として広家にやると言いだします…これでは裏切り者も同然、広家はこの申し出を即座に断り、自分は褒美などいらないからどうか毛利家を助けて欲しいと懇願しました。

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結局、家康は広家の訴えを認めます…毛利家は領土を1/3に減らしたもののとり潰しは免れ、総大将を務めた輝元も切腹せずに済みました。

祖父・元就の言いつけを守った広家の努力により、毛利家は関ヶ原の後もかろうじて存続する事になったのです。