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石見銀山 ~毛利一族の戦い~

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毛利元就(1497~1571)

 

NHK その時歴史が動いた
石見銀山 ~毛利一族の戦い~

毛利家繁栄の元
石見銀山を手に入れる
戦国時代、この石見銀山島根県太田市)を巡って多くの武将達が激しい争奪戦を繰り広げていました…中でもこの銀山を手に入れることにこだわり続けたのが安芸(広島)の武将・毛利元就です。

元就は石見銀山を奪うため、諦めることなく戦を仕掛けます…しかし石見を支配していた尼子氏の守りは堅固でした。

永禄5(1562)年6月 それでも戦を続けた元就は、実に8度目の戦いで石見銀山を手に入れることに成功します。

毛利元就はなぜそこまでして石見銀山を欲したのか…その背景には大航海時代における世界情勢が絡んでいました。

16世紀、ポルトガル人が描いた地図には石見の国に銀鉱山があると記されています。当時、石見銀山は世界最大級の銀山としてヨーロッパに知れ渡るほどの存在だったのです。スペインやポルトガルなどの南蛮船は銀を狙って先を争い押し寄せてきました。

大名たちは外国の商人たちとこぞって取引を行います…この南蛮貿易で大名たちは銀と交換に絹織物や木綿などの舶来品を手にしました。毛利元就もまた銀と交換で舶来品を手に入れ富を蓄えようとしたのです。

石見銀山に8回も攻撃を仕掛けたのも世界最大級の銀の産出地を手に入れる為でした…石見銀山を手にした元就は銀の採掘量を更に増やすため開発を進めてゆきます。

鉱山で働く職人の数も増やし、一説には1万5000人もの職人が投入されたといわれ掘り進められた坑道はくもの巣のように地中に張り巡らされ、その総延長は数百キロにも及びました。坑道の壁や天井には鉱山職人たちがノミや槌を使って掘り進んだ痕が残されています。

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1日30センチづつの手掘りです…元就は銀の産出量を増やすために労働環境の改善も図ったといいます。狭くて長い坑道の先に空気を送る道具も使われていました。

当事、石見銀山からの産出量は年間38トン、世界の産出量の1/3を占めていました…この大量の銀を手にした元就は、南蛮貿易で木綿や絹織物ばかりではなく、とくにあるものに目を付けて輸入しました。

毛利家に伝わる文書を紐解くと元就が銀を使った貿易で何を得ようとしていたかが浮かび上がります。元就が銀の使い道を一族郎党に説いた言葉が残されています。

石見銀山、少しも自余の御用に仕られず。御弓矢の御用になさるべく候」…元就は他の大名とは異なり、銀をもっぱら軍の強化に用いよと語ったのです。

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元就が銀と交換に外国から手に入れた軍需品、それは火薬の原料・硝石でした。戦国時代、外国との貿易でしか手に入らなかった硝石を元就は大量に輸入していたのです。

最新兵器である鉄砲にいち早く目を付けた元就は、領国内の鍛冶職人に鉄砲を製造させていました。その鉄砲から弾丸を飛ばす火薬の原料として硝石をひたすら輸入していたのです。

元就は鉄砲衆を組織、記録では戦で200丁もの鉄砲を投入していたとされています。この鉄砲の力で元就は、石見銀山を手に入れて6年後、永禄9(1566)年ついに中国地方を制圧するに至るのです。

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安芸の領主に過ぎなかった元就は石見銀山の有効な活用もあって一代、僅か40年で中国地方8カ国を治める西国最大の大名へと成長を遂げることになったのです…それは毛利家が石見銀山を手放す24年前の事でした。


元亀2(1571)年6月14日
毛利元就は75歳でこの世を去る

元就が残した家訓です…「毛利の家名を絶やすことなく、末代まで伝えるべし」(『毛利家文書』より)…元就はお家の存続を第一に考えるようにと子孫や家臣たちに命じていたのです。

その遺志を継ぎ、毛利家存続の重責を一身に担うことになったのが元就の孫・毛利輝元でした。ところが戦国乱世にあって西国の大名・毛利家も天下の騒乱から無縁ではいられませんでした。

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戦国の雄・織田信長が天下取りに向けて動き出したからです。畿内を制した信長は、次に中国地方を制圧しようと乗り出します。天正9年、信長の軍勢は鳥取城を落としました。このままでは毛利家の石見銀山が信長の手に渡ってしまします。

この年、窮地に陥った毛利輝元が記した言葉です…「もし石見銀山に異変があれば、毛利家は戦ができず無力になる」(『吉川家文書』より)

輝元は “毛利家存続を第一に考えよ” という家訓を守るにはなんとしても石見銀山を死守しようと考えます。ところが…

天正10(1582)年6月2日 織田信長が本能寺で明智光秀に討たれます…毛利家の危機は去ったかに見えました。しかし本能寺の変から11日後、羽柴秀吉山崎の戦いで光秀を討ち果たします。

主君、信長の仇を他の武将たちに先がけて果たした秀吉は天下取りを視野に入れます。するとまた秀吉も石見銀山を手に入れようと動き出しました。

天正11(1583)年 輝元の元に秀吉からの要求が突きつけられます…「毛利家の領土を安堵するがその代わりに石見銀山を引き渡せ」(『毛利家文書』より)

輝元にとって毛利家の重要な財源である石見銀山を失うわけにはいきません…ここで輝元は策を弄します。それは “新銀山” 石見銀山以外のものを秀吉に差し出すというものでした。

ついに秀吉は石見銀山を諦めます…実は秀吉が手を引いた背景には、元就が生前に手を打っていた仕掛けが働いていました。毛利家は毎年、朝廷に多額の銀を献上、更に石見銀山そのものを朝廷の御陵所として寄進していたのです。

そして毛利家が末代まで石見銀山の代官職に着く事を許され、実質的な支配を保証されていたのです。

天正12(1584)年 秀吉は大阪城に入り、天下取りに大手をかけます…輝元は秀吉に対して臣下の礼をとりました。これによって輝元は領国8カ国と石見銀山を安堵されました。

秀吉側にも思惑がありました…石見銀山を擁する大大名の輝元と戦って無駄な血を流すよりも見方に取り込んだほうが豊臣政権にとって後々、利用価値が高いと考えたのです。

文禄元(1592)年4月 秀吉は明の支配をもくろみ朝鮮半島に16万の大軍を送り込みました…文禄の役です。毛利家は3万の軍勢の派遣を求められます。これは秀吉の遠征軍で参加した武将の中でも最大の軍勢です。

更に秀吉から輝元に多大な要求が突きつけられます…この大部隊全体の財源として毛利の銀を放出せよというのです。やむを得ず輝元は、丁銀5000枚を秀吉に献上します…これは鉄砲が5万挺購入できるほどの莫大な軍事費でした。

戦いは当初、秀吉軍優勢に進みました…しかしその後、長期戦となると補給路を断たれた秀吉軍は徐々に押されます。戦局は次第に敗色濃厚となってゆきます。

慶長3(1598)年8月18日 そんな中、豊臣秀吉がこの世を去ります(享年63)。遠征軍は朝鮮半島から撤退、すでに多くの大名はこれまでの過大な兵役のために軍事力、経済力ともに疲弊していました。

しかし輝元にはまだ余力が残されていました…石見銀山を抱えていたおかげで潤沢な資金があったのです。ところがもう一人、強大な大名が残っていました…徳川家康です。

朝鮮半島に渡らずに国内でじっと力を蓄えていた家康は、秀吉亡き後、天下をその手におさめようと動き出します。

その家康が語った言葉です…「金銀は政務第一の重事」家康はなにより、金銀通貨の整備こそ天下の政治運営に必要だと着目していたのです。しかし家康はまだ大量の銀を手に入れていませんでした…狙うは毛利家が治める石見銀山

信長、秀吉亡き後、輝元の前に現れた新たな敵・徳川家康…それは毛利家が石見銀山を手放す2年前の事でした。


家康、天下に向けて動き出す

秀吉亡き後、家康は天下を望む姿勢を鮮明に出します…この家康の動きに脅威を感じた毛利輝元石田三成らの武将達は、家康との対立を深めてゆきます。

このままでは家康が政権を乗っ取り、石見銀山を狙ってくるに違いない…輝元はここに至って豊臣側に立つことを決めます。つまり家康と対峙する腹を固めたのです。

これまで年間1万枚だった豊臣家への銀の献上を一気に3万枚まで増やしました…そして輝元は反家康・石田三成の西軍・総大将となります。

慶長5(1600)年5月15日 輝元は3万の軍を引き連れ出陣、2日後には大阪城に入ります。輝元はその日の内に家康討伐への参加を求める檄を各地に飛ばします。

「内府は法度に背かれた。秀頼様へ御馳走あるべし」(『前田家文書より』)…この度、豊臣政権の約定に背いた家康殿と一戦を構えることとなった。なにとぞ秀頼様に御見方していただきたい。これに応えた大名が輝元の西軍に加わります…その数8万。一方、家康も東軍7万の兵を動かし始めました。

慶長5(1600)年9月15日 天下分け目の関ヶ原の戦いの火蓋が切られました…石見銀山の銀で支えられた西軍、その銀山を奪い新たな政権を建てようとする家康率いる東軍、…6時間に及ぶ死闘の末、戦いは家康の勝利で終わりました。

関ヶ原の戦いを制した家康は、その後も大軍を進め大津城など西軍の城を次々と攻略、輝元の陣取る大阪城へ、刻一刻と迫ってゆきます。もはや家康と戦っても勝ち目は無い…輝元はこのままでは毛利家の存続までも危ういと感じていました。

慶長5(1600)年9月17日 関ヶ原の戦いから2日後、輝元の元に家康から降伏を促す使者が訪れます。

県立広島大学 秋山伸隆 教授
関ヶ原の勝利によって家康は、喉から手が出るほど欲しかった石見銀山を獲得する条件を手に入れました。そして一方、輝元は石見銀山を家康に明け渡すことによって危機的な状況の中で何とか毛利家存続の道を考えたのです」

毛利輝元が手にしてから38年間に渡って毛利一族の繁栄を支えてきた石見銀山、お家存続を第一とするという家訓を前に輝元はついに決断を下します。

そしてその時、慶長5(1600)年9月25日 毛利輝元はついに石見銀山徳川家康に譲り渡したのです。

関ヶ原の戦いから僅か10日後の事でした…戦いの後、西軍に組した大名の殆どが改易されました。しかしその中にあって総大将であった毛利家は周防と長門の2カ国に領地を減らされたものの大名として存続することが許されました。

輝元が石見銀山を差し出したことで毛利家はその後、260年余りにわたって徳川政権下を生き延びる事になったのです。

 

 

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世界遺産 石見銀山

2007年に世界遺産に登録された石見銀山は、島根県大田市にある、国内有数の銀山遺跡です…戦国時代から近代まで大量の銀を産出し、大名や為政者の経済基盤となるとともに、日本の鉱山技術の確立に大きく貢献しました。

石見銀は16世紀から17世紀にかけての国際貿易の主役のひとつであり、東西の経済・文化交流を生み出した。世界遺産委員会の審査では、当初、登録に否定的な見解もあったが、環境配慮型の鉱山運営がなされていた点や、鉱山関連の遺跡と自然環境が一体となって文化的景観を形成していることなど環境面での価値が高く評価され、登録の決め手となったのです。