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天下の碧眼!毛利家の外交僧 安国寺恵瓊

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安国寺恵瓊(1539-1600)

 

THEナンバー2 ~歴史を動かした陰の主役たち~
天下の慧眼!毛利家の外交僧 安国寺恵瓊

戦国の世に生まれ、後に妖僧、悪僧とさげすまれた坊主がいる…その名は、安国寺恵瓊…ある時は南禅寺東福寺の従事を務める禅僧最高権力者。

またある時は、中国地方屈指の大名家、毛利一族の外交僧…そしてまたある時は、太閤秀吉の腹心となる戦国大名…僧でありながら謎の妖僧、安国寺恵瓊、その生涯は謎に満ちている。

世俗を離れ平安の世を求めるのが僧侶、なのに侍とともに戦場に出かけ、国をまたいで暗躍した外交僧、安国寺恵瓊とは何者なのか…。

信長、あおむけに転ばれ候ずると見え申候(信長は、あおむけに転落されますでしょう)
藤吉郎、さりとてはの者にて候(藤吉郎は、信長と違って大した人物です)
まるで数年先の未来が見えているかのようである。

戦国動乱の中、毛利の外交僧として信長、秀吉と出合い、死と天下統一を見事に予言。その慧眼はいかにして培われたのか…毛利元就に仕え、その死後、毛利三本の矢を支え続けた毛利家のナンバー2…毛利家最大の危機を救ったのも外交僧・恵瓊だった。

信長の中国制覇の命を受け、秀吉が高松城を水攻めに…絶体絶命となった毛利軍、恵瓊は単身秀吉軍に乗り込み、巧みな交渉を仕掛ける。…秀吉軍はおろか自軍も舌を巻いた驚愕の交渉術…たった一人で和睦の道を切り開いたのだ。

「光秀討伐を我が毛利家も味方するとの目印に毛利の旗をお使いなされ」

まさに機を見るに敏、和睦をまとめ上げると信長亡き後には秀吉の世が来ると見抜き、中国大返しをする秀吉に恩を売ったのだ。

そして外交僧として最後の働き場所となった天下分け目の関ヶ原、光成に請われ西軍の参謀として策を巡らし、毛利の運命を握る。

作家 加来耕三
『天下分け目の関ヶ原の戦い、日本を二分する戦いに演出したのは安国寺恵瓊です。…戦国時代の日本が持ちえた最高の教養人が安国寺恵瓊です。頭脳明晰な上に先見性が優れた人です』


安国寺恵瓊の生立ち

安国寺恵瓊は戦国時代の真っただ中、天文7(1538)年、名門・安芸武田の一族、武田信重の子として生まれた。幼名・竹若丸…名門とはいえ力無き者は潰されるのが戦国の世。…安芸武田が持つ肥沃な領土を狙う武将がいた…毛利元就である。

 

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毛利元就(1497-1571)

天文10(1541)年、元就が安芸銀山城に攻め込むと城主が逃亡…信重は孤軍奮闘するも力尽きる。

「武田の誇りをしかと胸に刻み、そなたの手で武田を再興せよ」
そう竹若丸に言い残して城に火を放った。…竹若丸は毛利軍の目を盗み禅寺・安国寺に隠れそこで剃髪、仏の道に入ったのだった。

毛利お抱えの僧でもあった恵心は若き僧の資質を見抜き、自身の忌名の一字を与え、恵瓊と名づけた。

恵心が見抜いた恵瓊の資質、それは自らと同じ、戦国の世を生きる外交僧としての才能だったのだ。

県立広島大学 松井輝昭 教授
「外交僧とは、敵対する相手がいる場合、両方が信頼できる人物でなければいけません…坊さんというのは原則として悪い事をしない、だから信頼できるのです」

更に当時僧侶は中国の優れた思想文化や知識を学ぶ知識人だった…中には孫氏の兵法にも通じた者がいて大名によっては欠かせない相談役だったのだ。

恵心との出会いからすぐに恵瓊は安芸の国から京都にいる師の元に外交僧としての修行が始まったのだ…そんなある日、恵心に連れられ毛利家の主と対面する日が訪れる。その主こそ父を始め武田の武田の一族を滅ぼした宿敵、毛利元就であった。

元就「わしが殺した武田の末裔か…」
恵瓊「生まれはどうであれ今、恵瓊は禅僧です。禅僧に過去などありません」

恵瓊は毛利家への遺恨をおくびにも出さなく言ってのけたのだ…回りの家臣たちは恵瓊の登用に反対するが元就はこだわらなかった。役に立つ者は使う、毛利家存亡に外交僧の力は益々必要と踏んだのだ。

いよいよ戦国の世を舞台に毛利家ナンバー2となる扉が開かれたのだ。


作家 加来耕三
『毛利家の外交僧は合戦をしません。宇喜多直家宇喜多秀家の父)を調略により寝返らせたのも恵瓊…信長の近畿方面軍司令官の荒木村重を寝返らせたのも恵瓊です。…合戦に行って功名を上げる以上の成果を上げていたのです』


安国寺恵瓊
外交僧として戦国の世のど真ん中へ!

元亀2(1571)年、毛利が勢力を拡大させようとする中、最も恐れていた事が起きる…毛利元就の死である。

一代で毛利の領土を広げた元就、その死の前に気がかりな事があった。毛利の後継ぎとして期待していた長男・隆元が死んでしまったのである。

「今後は隆元の子・輝元を支え毛利の血を絶やさぬように」 と元就は恵瓊に託し息をひきとった。

元就が死んでも次男・吉川元春、三男・小早川隆景の両川体制が強固な限り、中国における毛利の西国での力は強大だった。

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この毛利の力を利用しようとする者がいた…室町幕府将軍・足利義昭である。…義昭は将軍である兄・義輝が暗殺され、京から逃げていたところ、美濃で力を付けていた織田信長に擁され15代将軍となった。

しかし信長は義明を京に上るために利用したに過ぎなかった…幕府再建を企てる義昭は信長によって京を追放された。

そんな義昭が頼りとしたのが西国に君臨する毛利家だった…将軍から信長を倒して畿内を統一して欲しいと頼まれたのだ。

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将軍側に付けば勢力拡大のチャンス、しかし天下取りの道を遮二無二走る魔王・信長を敵に回すのは毛利にとって命取りになる。ここは義昭におとなしくしてもらうのが一番、…この難局を乗り切る役割が小早川隆景から恵瓊に託された。

信長と義昭を和睦させる。…両者の間を取り持つ交渉が始まった。

大阪・堺で行われた和睦会議、その席に着いたのは
将軍・足利義昭
将軍の外交僧・朝山日乗
安国寺恵瓊
信長の家臣・羽柴秀吉

京を追放される前に人質を取られた義昭は戻るには、「信長から人質を取るのが必要」 と強気の条件を出した。

それに対し秀吉は、「おかしな事を言われる。人質を交換するのは互いの立場が対等ならばこそ今の公方様と上様がそうだとは到底思われませぬが」 と真っ向から拒否した。

秀吉が席を立つと恵瓊は取りなす振りをして後を追いかけた…実は恵瓊は和睦の為に堺に来て以来、才覚一つで大名にまで成りあがった秀吉に接し、その人物の大きさにほれ込んでいたのだ。

「今後、毛利と織田の申し継ぎとして度々親しくする機会もありましょう…なにとぞよしなに」…反する意の無い事を信長側に伝える事は成功した。

しかし、もう一つ課題があった。京を追放され行き場の無い義昭の身を寄せる場所である。…この時、義昭は毛利の力を頼り、安芸に向いかくまってもらう気でいた。

しかし、義昭を迎える事は信長に反逆してしまう事を意味してしまう…そこで恵瓊がいきなり切り出した。…「僭越ながらあらかじめ申し上げます。京へ戻る事を拒まれるからには、決して安芸への下向などは、よもやお考えにならぬよう」…将軍である義昭に一介の僧が強く迫ったのである。

顔を凍りつかせた義昭、恵瓊に先手を打たれ、堺から紀州へと退去したのだった。…こうして信長との衝突を巧妙に避け、毛利の危機を救ったのである。


毛利家と秀吉
運命を握る安国寺恵瓊の交渉術!

天正10(1582)年、織田信長がついに動き出した。天下統一のため毛利を叩く事を決めたのだ。…指揮を任されたのは、恵瓊がその人物を認めた羽柴秀吉だ。

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黒田官兵衛(1546-1604)

秀吉は織田軍についた播磨の黒田官兵衛を従え、中国攻めに乗り出してきた。播磨の三木城、因幡鳥取城が続いて落とされると次第に毛利は動きを止められた。…更に秀吉の侵攻は続き、ついに毛利の備前、備中の国境を守る高松城に襲いかかった。

救援の為、高松城についた恵瓊ら毛利軍の眼前には目を疑うような光景が広がっていた。…高松城が水にぽっかりと浮かんでいたのである。…更に追い打ちをかけるように信長が自ら5万の兵を率い高松城に向うとの報せが入る。

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信長出馬の報せは毛利の諸侯を震撼させた…毛利存続の為に軍を率いていた小早川隆景が頼った者、それは毛利ナンバー2、外交僧・安国寺恵瓊の頭脳であった。…恵瓊は家来を従える事無く、一人敵陣に向った。

迎えたのは秀吉の家臣・黒田官兵衛、…恵瓊は毛利の条件を切り出した。

恵瓊「備中、備後、美作の三国割譲、そして高松城主・清水宗治殿の切腹を条件に和議致したい」
官兵衛「切腹の事、清水殿は承知でしょうな」
恵瓊「元より御覚悟でございます」

しかし、真っ赤な嘘だった…なんと清水宗治切腹は恵瓊の独断だったのだ…嘘をついた理由はこうだ…『戦わずして城主を切腹させる事を毛利の家臣に相談すれば反対される。しかし領土割譲だけの和睦は冷徹な信長が許さない。味方を見殺しにしようとも自分自身が勝手に事を運んだとすれば毛利の部門の意地は守られる』…外交僧として考えに考え抜いた策であった。

条件を伝えると恵瓊は水に沈んだ高松城に渡り、城主・清水宗治を説得、家臣たちの命と引き換えに切腹を納得させたのであった。

恵瓊が粘り強く交渉を進める中、秀吉側から突然使いが現れた…秀吉が態度を急変、明日にも和睦をとの事だった。説明はいらないだろう明智光秀の謀反により織田信長がこの世を去ったのだ。本能寺の変である。

この事を知った秀吉は、毛利方に悟られない様に交渉を急いだのであった。翌日、白装束に身を包んだ清水宗治高松城を囲む湖に船を出し、秀吉の前で切腹、和睦が結ばれた。

光秀討伐のために中国路を戻ろうとする秀吉、その頃、信長死すという情報が毛利にもたらされたのだ。

吉川元春「秀吉め我等をまんまとたぶらかしたか」…毛利の重臣たちは怒り、早速、秀吉を追撃すべしとの声を上げた。しかし、恵瓊はナンバー2として誰もが予想していなかった策を口にする。

恵瓊「何を言われる…信長公が亡くなった後、光秀を討ち取った者がこの後、力を持つのが必定、この機にどう動くかが肝心なのだ」

恵瓊は一歩先を考えていた…光秀討伐に急ぐ秀吉に恩を売り、秀吉と毛利の結び付きを強くすることこそ毛利存亡の道と考えたのだ。

「この旗をお使いなされ」…恵瓊は黒田官兵衛に毛利の旗を贈った。中国大返しをする道中、毛利が秀吉側についたという印になるように…この事を秀吉は生涯忘れなかったという。

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恵瓊の見込み通り、秀吉は見事、光秀を討ち取り、やがて天下人に後の四国攻めの際には、毛利に恩賞として伊予(小早川隆景 35万石)を与えた。

それだけでなく、恵瓊にも伊予国和気郡2万3000石を与えたのだ。…その能力を見込み直属の大名としたのである。…ここに僧でありながらも大名であるという戦国時代唯一無二の存在が誕生した。


恵瓊の順調な出世に影が…

恵瓊が秀吉に近づき、その力が大きくなると毛利家内から不満の声が上がり始める…その急先鋒が吉川元春の後を継いだ息子・広家であった。

秀吉の命で海を渡った朝鮮出兵、恵瓊は秀吉の武将として…また毛利輝元の後継ぎ秀元の後見役を兼ねていた。

ある日のことである。作戦会議で総攻撃は翌日と決まっていた…しかし遅れて到着した広家が敵陣に油断ありと見て先駆けしようとしたのだ。…恵瓊はとめるも広家は ”戦場で坊主の指図は受けぬ” と悪態をつき兵を進めてしまった。

やむなく総攻撃を早めると敵を退却させる事に成功、恵瓊はこの件を ”規律違反はあったが戦功著しい” と広家をかばうが豊臣三奉行の石田三成は、軍法違反をした広家の功を認めなかった。

広家はそれを恵瓊の画策と疑った。…恵瓊と広家、二人の間の確執を深めるキッカケとなった。


そして恵瓊 天下分け目の関ヶ原へ…

慶長3(1598)年、太閤秀吉がこの世を去る…更に恵瓊が長きに渡って仕えた小早川隆景が息をひきとる。毛利の行く末が益々恵瓊の手腕に託される事となる。

そんな時、外交僧として最後の舞台が始まる事になる…秀吉が死ぬと満を持して家康が動き出したのだ。家康との天下分け目の戦いに向け策を練る石田光成、…その影で毛利の生き残りを懸けて動いたのが恵瓊だった。

輝元を西軍の総大将として大阪城に入らせ、更に九州・島津も恵瓊の力で味方に引き入れた。…中国と九州、四国・長宗我部の巨大勢力をまとめ上げたのだ。恵瓊は自らも兵を率い毛利の軍勢と共に関ヶ原に陣取った。

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ここまでの仕掛けは完璧だったのだ。…それは恵瓊が総攻撃をかける瞬間だった。…思わぬ事態が起こったのだった。

吉川広家が動かない!”

毛利軍の戦陣にいたのは吉川広家だった…実は広家は、光成や恵瓊と反目し、密かに家康と通じていたのだ。

更に隆景の養子・小早川秀秋の裏切りが発生、思えば長らく仕えていた重臣たちは皆、この世を去り、今や毛利家を司る者は総領・毛利輝元以下はるか年下の者ばかりとなっていた…すでに世代は交代していたのだった。

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その事に天下のナンバー2は、気付く事が出来なかった。…恵瓊はただ西軍が敗れる様を見つめるしかなかった。


作家 加来耕三
関ヶ原の戦いというのは、もし恵瓊という人物が登場しなければ天下分け目の合戦にならなかったのです。
石田三成 19万4000石 5820人
大谷吉継 5万石 1500人
小西行長 20万石 6000人
全部足しても1万5000人を超えないのです…家康の計算というのは冷静で自分がいなくなった時、畿内を留守にしたら必ず西軍が立ちあがる…石田三成が挙兵した時は1万5000とソロバンをはじいていたのです。

上杉討伐として引き連れた勢力が6万9000いるんです…6万9000というのは同時に2つの反対勢力(上杉+西軍)を潰せる勢力なんです。

ですが栃木県の小山まで兵を進めた時に1万5000を超えないと思った西軍が10万になっていたのです。…これをやったのが安国寺恵瓊だったのです。

毛利がもし加担しなかったら…九州・島津、四国・長宗我部、が参加しなかったら10万なんて数にならないのです。

石田光成が敵の大将ならたかが知れているというのは皆の計算です。…それを全部ご破算にして曲がりなりにも戦えるようにして更に家康を追い込んだのが安国寺恵瓊なのです。

事実、家康は関ヶ原の戦いで当日になっての午前10時過ぎまでどっちが勝つかわからなかったのです。…そこまで家康を追い込んだのです』


関ヶ原の戦いで敗れた安国寺恵瓊は、天下の悪僧という汚名を着せられこの世を去ります。しかし毛利家のナンバー2として死に際に仕掛けた最後の策がありました。

関ヶ原の戦いの後、恵瓊は合戦の首謀者として捕らえられる…責は毛利ではなく、ことごとく自分にあるとし、光成らとともに六条河原で処刑、その首は三条橋に晒された。…しかし恵瓊の死によって西軍総大将・毛利輝元は死を免れた。

■毛利存続の道は辛くもつながったのだ…その後、家康によって毛利の領土は三分の一に削られ、房長の2国だけが残った。更に安国寺恵瓊こそ妖僧、悪僧という汚名を着せ史上最も極悪な坊主に仕立て上げられたのであった。

■『敵は西から来る』…これで毛利を封じ込められるはずと家康は思った…しかし、260年の時を越え、その時はやってくる。毛利の押し込められた長州、そして恵瓊が関ヶ原で力を頼んだ島津の薩摩から倒幕の火の手が上がり、徳川の歴史は幕を閉じたのです。 

■毛利のナンバー2、安国寺恵瓊…彼の潔い死にざまこそが後に徳川を葬り、主君、毛利家を復活させる道を作ったのだった。