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大名の生き残り策 長州藩・毛利家 大リストラからの復活劇

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NHK BS歴史館
大名の生き残り策
長州藩・毛利家 大リストラからの復活劇

明治維新の主役、西国の雄藩として名を馳せた長州藩、まさに維新最後の勝者として近代日本に数多くの人材を輩出しました。

しかし、江戸幕府の270年間、長州藩は苦難の連続でした。この発端となった出来事が慶長5(1600)年9月15日、天下分け目の戦い関ヶ原の合戦です。

西軍を率いていた毛利家は一族の内紛で大敗北、結果、毛利家は中国地域全域を治める大大名から周防・長門の2カ国に封じ込められ、36万石の外様大名へと転落してしまいます。

長州藩・毛利家は関ヶ原最大の負け組として巨大な借金を抱え、倒産状態からスタートしたのです。関ヶ原の後も藩の財政は、ピンチに次ぐピンチ!…幕末には何と借金が年間予算の24倍にまで膨らんでしまいます。

しかし、毛利家と家臣たちは驚くべき改革で藩存亡の危機を乗り越えます。

・徹底した文書主義による官僚システム
・二つの派閥を競わせる、巧みな人材活用
特別会計による隠し財産

関ヶ原最大の負け組だった毛利家がなぜ明治維新最大の勝ち組になり得たのか…ピンチを逆手に取るしたたかな秘策に迫ります。

 

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明治維新の勝者・長州藩、その原点は毛利元就…明応6(1497)年に広島の一集落を支配する豪族として生まれた、毛利元就。一代で中国9ヶ国の領主となった稀代の戦国大名です。

元就は3人の息子の内、次男と三男をそれぞれ別の家に養子として送るなど婚姻による同盟関係を構築、時には養子先の親族をも亡きものとする冷酷な手段で支配領域を拡大して行きました。

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元就は同じ戦国武将でも信長や秀吉のような絶対君主のトップダウン型ではなく、合議制の集団統治をイメージしていたのです。

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その上で堅く守るべき毛利家の心得を息子たちに伝えました。…それがあの有名な三本の矢の教訓状です。

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関ヶ原の大敗北
その後の毛利家は…

元就の ”三本の矢の教訓状” にも関わらず西軍を率いていた毛利家は一族の内紛で大敗北、結果、毛利家は中国地域全域を治める大大名から周防・長門の2カ国に封じ込められ、36万石の外様大名へと転落してしまいます。

120万石 ⇒ 36万石
領地が1/5に減った事で重臣は家臣たちを養えません。

例えば重臣・平賀元相は18000石⇒300石、…1200人いた家臣を20数人にする大リストラを行わなければならなかったのです。

土地を失い国を離れる者、破産して農民へ転身する者が続出、そんな中、幕府は追い打ちをかけるように手伝い普請を命じます。伏見城の復旧、江戸城の普請に莫大な予算を割かなければならなかったのです。

静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
「毛利あんなにひどい目にあってるよ…ようするに徳川に背いたらこういう目に遭うという…みすぼらしい大名のショーウィンドーのようにおかれてるんです。…完全に潰すのではなく生殺しにして宣伝効果を発揮する存在として置かれているのです」


しかし、新たに長州藩として出発した毛利輝元と一族・重臣たち、その胸にある思いを秘めていました。…毎年正月、城内で家臣が藩主にこう尋ねます。

家臣:「幕府追討はいかがでございますか」
藩主:「まだ早かろう」

…この儀式は幕末まで行われていたのです。関ヶ原での敗戦こそが長州藩・毛利家の原点だったのです。

司会 渡辺真理
「毎年、お正月といっても単純計算で200回以上この問答が毛利家では繰り返されていた…その原点が関ヶ原の敗戦…この家にとってはあまりにも痛いことだったのですね」

静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
「取り潰された方が楽なほどの嫌がらせを徳川幕府から受けるわけです…倒産からスタートしたようなものです。…土下座外交を続けさせられるような目にあうわけです。…ですから面従腹背徳川家康死ねばいいのにな…家康が死んだら徳川幕府滅べばいいのにってぐらい、憎しみメラメラというのが本当のところだったと思いますね」

作家 童門冬二
「260年間いじめに、いじめ抜かれたわけですよ…関ヶ原の報復ぞ!…と歴史的怨念ですね」

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宝暦4(1754)年、毛利輝元の死から129年、当時長州藩は天災続きで藩の財政が悪化、銀3万貫という多額の借金がありました。そんな中、7代目の藩主になっていた重就、抜本的な財政改革と産業育成を行い、明治維新の勝者となる礎を築きます。

まず御前仕組方という藩主直属の改革プロジェクトチーム作ります。そして新たな税収を得るために徹底的な検地を実施。

増税を意味する検地を行うには農村を牛耳っている豪農たちの理解を得なければなりません。ここで御前仕組方は、防長2カ国に押し込められたときに召し放ちになって農民になっていた武士に目を付けます。

彼らを武士化して行く役につけたのです…つまり豪農たちに武士の身分を与えて検地に協力させたのです。

こうして長州藩の石高は、32万石⇒82万石にまでになりました。更に藩主・重就はその財源の内、5万石を元手に特別会計の組織、撫育方を設置、積極的に新たな産業を起こしてゆきます。

・塩田開発
・ろう、紙
・港を開き、越荷方という藩直営の倉庫業、金融業を開設

総合商社として商人たちを育成します。幕末、伊藤博文高杉晋作桂小五郎などはこの越荷方の役人をつとめた事で鋭い経済感覚を養っていったのです。

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撫育方と越荷方が莫大な私益を残し続けます。…幕末、長州藩の隠し財産はなんと100万両まで膨らんでいました。…毛利重就の改革で生まれた産業や人材が幕末の長州藩を維新に突き動かす原動力になって行くのです。


幕末長州藩
”そうせい公” の政治改革

山口市亀山公園、ここに幕末を生き、長州藩を維新の勝ち組へと導いた、長州藩13代藩主・毛利敬親銅像があります。

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幕末の名君、地元の人にさぞかし讃えられていると思いきや…
市民A:「そうせい公」
市民B:「そうせい、そうせい」
市民C:「そうせい殿様や」
…いったいなぜ ”そうせい公” と呼ばれていたのでしょう。
市民D:「藩士からの提案に”そうせい・そうせい”と答えていたからだと習いました」

一見、頼りなさそうなこの、そうせい公こそ明治政府へとつながる長州藩の政治改革を行うのです。

天保8(1837)年、長州藩関ヶ原以来、藩存亡最大の危機に陥っていました。凶作と米価高騰による大規模な農民一揆、…そして銀9万貫、当時の藩の年間予算の24倍も及ぶ財政赤字、更に1年間で藩主が3人も変わるという異常事態…そんな中、急遽、家老の家から毛利家の養子となり、藩主となったのが毛利敬親です。

敬親は改革責任者に村田清風を抜擢、清風は身分にかかわらず人を集めます。そして『防長風土注進案』(全村の基礎台帳)を基に財政立て直し策をたてます。清風らはこの史料を徹底的に活用し、小さな村の歳入から歳出まで細かくチェック、更に新たな産業も振興しました。

そしてなんと5年で借金を銀9万貫⇒3万貫まで減らしたのです。…一方では急進的な改革への批判が高まると藩主・敬親は、村田清風に変わり、穏健派の坪井九右衛門を抜擢、…その後、村田と坪井が交互に政治を行って行くようになります。

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この村田、坪井のグループが維新の中心になる正義派、俗論派へとつながって行きます。…敬親は、この2派を競い合わせる一方、藩の新たな政治改革を断行します。


御前会議
一族・重臣VS.改革チーム

御前会議…それは一族重臣と改革チームの下級武士たちを同席させる画期的な会議でした。…会議では、まず改革チームの実務役人が様々な改革案を提案、かんかんがくがくの議論を経て参加者全員が ”同じ一票” で議決、それを最終的に敬親が認可(そうせい)するという長州藩独特の合議制でした。

この下からのアイデアを徹底的に活かすやり方が幕末の長州藩のリーダーシップにつながってゆくのです。


明治維新
念願の倒幕、そして長州藩は…

薩摩藩と共に倒幕を成し遂げた長州藩、その後、両藩の志士たちが中心となり、新たな時代が始まりました。

慶応4(1868)年4月14日、長州藩主・毛利敬親は、山口にいました。動乱の余韻がまだ冷めやらぬ中、敬親の元に一人の人物が訪れます。

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明治政府の官僚となった木戸孝允は藩主・敬親にある重要な決断を迫らなければなりませんでした。版籍奉還です…全国の各藩主が領地と領民を朝廷に返還するという明治政府の大改革です。

諸大名の反対を抑えるためには、長州藩が率先して模範を示す必要がありました。しかしそれは長州藩が無くなる事を意味します。…木戸は敬親の抵抗を覚悟していました。


ところが敬親は、… 『そうせい』 …。

その全てを了承します。木戸は安堵し、その場を退室しようとします。すると敬親は木戸を呼びとめ、こう言ったといいます。

これほどの変革を行うには
その時機を見計らうことが大事

木戸は後に、この藩主が恐ろしく聡明であると感じ取ったと記しています。

明治2(1869)年6月、翌年、幕末の動乱期を乗り越えた敬親は、版籍を奉還…長州藩は270年の幕を閉じたのです。

その後、明治政府は様々な紆余曲折を経ます。

西南戦争
大久保利通 暗殺

ともに維新で活躍した薩摩出身の志士たちが影をひそめて行く中、長州藩出身の志士たちはその後も活躍を続けます。

維新最後の勝者となった長州藩毛利敬親明治維新まで、長州藩の裁定のほとんどを ”そうせい” で貫き通したのです。