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独眼流出陣! 北の関ヶ原 伊達政宗 母への愛憎を越えて

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NHK 歴史秘話ヒストリア

独眼流出陣! 北の関ヶ原
伊達政宗 母への愛憎を越えて

 

episode1
俺だって家を継げる!
東北の異端児デビューの影に…

東北米沢の地で名門・伊達家の跡取りとして生まれ、何不自由ない暮らしを送っていた幼少期の政宗、しかしやがて自分を愛してくれた母・義姫との間に確執が生じ、運命が大きく変わって行く事になるのです。

政宗を悲劇が襲ったのは5歳の頃、天然痘にかかって高熱を発し生死の境をさまよいます…一命を取りとめましたが右目を失明します…それが過酷な運命の始まりでした。

目が不自由になったことで政宗は家臣から、伊達家の跡取りにはふさわしくないと見なされ始めたのです。

やがて弟・小次郎の方を母も跡取りとして期待するようになります…その愛情も弟へと移って行きました。

家臣の記録によれば、政宗は当時の心境について次のように語っています…

「… 私は母上を恨んでおった。弟が生まれると弟ばかりご寵愛なされ、いずれは私に代わって家督を継がせようとのお心づもりのようであった。

私が病の時も母上は一切、私に話しかけようとはなさらなかった。…」(『木村右衛門覚書』より)

苦しんだ政宗は、ある覚悟を決めます…病の後、腫れて飛びだしていた右目を家臣に命じて切り取らせる事でした。伊達家の後継ぎにふさわしい勇気を示そうとしたのです。

天正12(1584)年10月 政宗18歳、父親は政宗が秘めている強さと闘志を見出し18歳の時、家督を譲ります。戦国大名伊達政宗の誕生です。

その後の政宗の行動は、当主としての器量を疑う家臣や母親に見せつけるかのごとく、過激で大胆なものとなりました。

 

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最上義光宛 伊達政宗書状)


政宗が19歳の時の手紙です…「この上は、関東の地も手に入れる」 …政宗が宣言したのは東北はもとより関東にまで進出するという壮大なものでした。

その頃の東北には、古くから根を張る中小の大名が数多く存在、互いに領土を大きく侵さない事でバランスをとり共存していました。

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天正13(1583)年閏8月、しかし政宗はそれぞれが小さくまとまる東北の状況に真っ向から挑みます。隣国に対して苛烈な攻撃を敢行、東北の統一支配を目指す激しい姿勢を見せたのです。

政宗が掲げていた関東制覇、その壮大な構想には確固たる裏付けがありました…それは ”東北が秘めていた豊かさ” …

1.金…平安時代に建てられた中尊寺金色堂でもふんだんに使われているように、東北では金が豊富に産出、大規模な金山開発を進めれば莫大な軍資金を得る事ができます。

2.馬…牧場の多い東北では、平安・鎌倉時代から優秀で丈夫な軍馬が産み出されてきました。

3.更に開発も進み、会津などは広大な穀倉地帯になっていました。

4.武器の材料となる熊、アザラシなどの物資も北海道から豊富にもたらされます。

…東北の持つ潜在的な力を結集すれば、中央にも匹敵する巨大な勢力になると考えられました。…しかし東北に覇をとなえようと隣国に進出する政宗の存在は、周辺大名にとって見過ごせません。

天正13(1585)年11月 政宗19歳、周辺大名たちは伊達家を叩くべく終結、3万の連合軍で領内に攻め込んできました。それに対し政宗側の兵は7000に過ぎません。

4倍以上の敵の攻撃に晒されながらも、政宗は大将自ら刀を振るって奮戦、家臣たちの勇気を奮い立たせ、寄り合い所帯で統制に欠く敵の連合軍を撃退したのです。

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この勝利により、伊達家は一躍その名を高め、東北の勢力地図を一変させます…しかし、この上り調子の政宗の前に、あの母・義姫が大きく立ちはだかる事になるのです。


episode2
政宗暗殺未遂
まさか母が…

東北を一つにまとめ、関東制覇を誓った若き当主・伊達政宗、しかしその道のりは平坦なものではありませんでした。

政宗の居城の移り変わりを見ると
~23歳:故郷米沢
23歳~:福島会津
24歳~:僅か1年で米沢に撤退、更には宮城の北部、岩出山まで撤退してしまいます。

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この低迷の要因となっていたのが時の天下人・豊臣秀吉の妨害、…出る杭を打とうとする秀吉の圧力に苦しむ政宗、そんな中、渦中でくすぶっていた政宗追い落としの動きが再び動き出す事になるのです。

天正17(1589)年6月 政宗23歳、政宗は米沢から会津に進撃、当時の会津は豊富な石高をもつ土地で伊達家の拠点とするには最適な場所でした。

ところがこの政宗の行動に不満を抱いていた人物がいました…豊臣秀吉です。この頃、朝廷から関白という最高職を授かり、天下統一に大手をかけようとしていました。

当時、秀吉が全国の大名に下していたのが ”惣無事令” …勝手に戦をする事を禁じたのです。

日本中の大名は自分の支配下にあり、許可のない行動は認めない事を示したものでした…しかし政宗は秀吉の命令を無視するかのように東北で合戦を続けていました。

静岡大学名誉教授 小和田哲男
「全国が秀吉によって統一されるという見通しは、まだ政宗は持っていませんでした。いわゆる惣無事令的なものは、中央の話だと…東北世界には及ばないんだという自己診断で秀吉が何を言おうと領土は拡張すると会津を攻めているのです。」

会津を新たな本拠地とした政宗は、この地を足がかりに東北の覇者として急速に領土を拡張して行きます。

23歳のときには東北66郡のうち半数の30郡にまで領土を拡大、家督相続から僅か5年での急成長でした。

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しかしその政宗会津進出に冷や水を浴びせたのが天下人秀吉、…「政宗会津を返そうとしない時は兵を差し向ける」(『豊臣秀吉書状』より)

秀吉は政宗に対し、出頭し謝罪しなければ、大軍を向け攻め滅ぼすと告げたのです。…全国の名だたる大名のほとんどを支配下に置く秀吉が侵攻してくれば、間違いなく伊達家は滅亡する…家中はにわかに揺れ始めます。

天正18(1590)年4月 政宗24歳、その時、衝撃的な事件が政宗を襲いました…食事に毒が盛られ暗殺されかけたのです。

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(貞山公治家記録)

事件の真相は謎に包まれていますが、伊達家の正史では意外な人物が暗殺の首謀者に挙げられています。

それは母・義姫、…秀吉の怒りを買った政宗が当主のままでは、伊達家は許されない。政宗に代えて弟・小次郎を当主にすれば秀吉に許される可能性があったためとも言われています。

一命をとりとめた政宗、事件後政宗は当主として厳しい態度で臨み、弟・小次郎を殺害します。政宗暗殺は小次郎が計画したものではありませんでしたが、反対派を抑え、混乱を鎮めるための非情の決断でした。

事件のしばらく後、暗殺の首謀者とされた母も伊達家を去ります…実家、山形の最上家に戻った母、親子の断絶は決定的となりました。

この状態ではとても秀吉に対抗する事は出来ない…政宗は限界を悟り、秀吉への服従を決意します。

天正18(1590)年6月、政宗は関東小田原に出兵していた秀吉の下に出頭、謝罪と降伏を申し出てかろうじて切腹は免れました。

しかしその処分はきつく、会津はめしあげられ、更に1年後には郷里・米沢を没収され、岩出山、現在の宮城県北部に移る事を命じられます。

岩出山一揆で荒廃していた土地でゼロから国造りを行わなければならない苦境に陥りました。政宗はその無念さを語っています。

会津を一度は手にしながら、秀吉の天下統一でそれも無に帰した。まことに口惜しきことである」(『貞山公治家記録』より)

しかしこの後、天下人秀吉がこの世を去り、再び戦乱が訪れる中、政宗に復活のチャンスが巡ってくる事になるのです。


episode3
決戦! ”北の関ヶ原
母との確執を越えて

秀吉の命により会津を追われた政宗、後から会津に入ったのが越後を治めていた上杉家、その舵取りを担っていたのが重臣直江兼続でした。

上杉家
石高:120万石
兵力:3万

伊達家
石高:58万石
兵力:1万5千

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政宗にとって直江兼続のいる上杉家は、関東進出の道を阻む巨大な壁になります…しかしその上杉家を討ち、会津を取り戻すチャンスが意外にも早く訪れました。

慶長3(1598)年8月 政宗32歳、天下人の秀吉が亡くなったのです…その後、急速に存在感を高めたのが徳川家康、天下人の座を狙い政治の実権を豊臣家から奪おうとします。

この転換期を復活の好機として動いたのが政宗でした…政宗は家康に接近し、同盟を目論みます。

「今後、世の中がどうなろうと一筋に家康公に尽くし、我が命をささげましょう」(『徳川家康の側近宛 伊達政宗の書状』)

家康と結べば北と南から上杉家を挟み撃ちにする事が可能となります…家康側も東北の政宗の存在を重視しており、両者は子供同士を婚約させ緊密な関係となりました。

慶長5(1600)年6月 政宗34歳、家康は自らの命に従わなかった事を口実に上杉討伐を敢行、総勢5万の兵を率い会津に向かいました。

この時、家康の呼びかけに応じ、政宗と共に東北で兵を起こしたのが山形の大名・最上家、…政宗と不破になった母・義姫が戻っている実家です。

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最上家も家康に付いて生き残りを図ろうとしていたのです…家康、最上、伊達家を合わせれば総勢7万の大軍、これならば3万の上杉勢を倒す事はたやすいと考えられました。

7月24日、他に先駆けていち早く行動を起こしたのが政宗でした。上杉の備えが緩んだ一瞬を突き攻撃、しかしこの先手必勝の作戦が思わぬ事態に…。

8月3日、攻撃直後、信じられない報せが政宗の下に届きます。…会津に向かっていた家康が進軍を中止し引き返したというのです。

実はその時、かねがね家康に不満を抱いていた石田三成が挙兵、東へ攻め上っていました…家康はこれに対応せざる得なくなったのです。

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すでに上杉家に攻撃してしまった政宗にとって家康の撤退は衝撃の事態でした…上杉の120万石というのは圧倒的な石高、兵力的には伊達・最上の比では無い…政宗は大変な恐怖だったでしょう。

情勢の急変に慌てた政宗は、家康に引き返すよう願い出ます…「お戻りいただけなければ、こちらの事態は更に悪くなりましょう…上杉さえ討てば三成も容易に片付くはずです」(『徳川家康の側近宛 伊達政宗の書状』)

しかし家康はこれに応じず、政宗に対して逆に上杉家を刺激しないよう言い渡しました…単独では歯が立たない政宗は兵を引かざる得ませんでした。

一方、優勢となった上杉家、智将・直江兼続が打ち出したのが、政宗たちが思ってもみなかった大胆な方針でした。

「この後、家康の本拠である関東を攻めるが政宗もそれに従わせよ。最上も政宗と同様である」(『本庄繁長宛 直江兼続書状』)

なんと家康の領地に攻め込むというのです…政宗も最上ももはや勝ち目はない、ともに上杉陣営に加わって家康を討つ側に従って関東に攻め込むというのです。

情勢の変化の速さに対応できずにいる最上と政宗、上杉勢はその迷いを打ち砕くべく、軍事的な威圧を開始、強引に従わせようとします。

9月半ば上杉勢は最上家の領地・山形に向け出撃、数日のうちに山形一帯はほぼ制圧されます…ついに上杉勢は最上家の本拠・山形城近くまで迫ります。

山形城では最上勢とともに当主・最上義昭の妹・政宗の母も立て籠っていました…。

9月15日、攻撃は激しく、このままでは皆殺しとなる、最上家は政宗に救援を求めてきました。しかし伊達家にとってこの頼みは受け入れがたい事でした。

家康不在の今、最上家を助けて圧倒的兵力差の有る上杉家と戦えば、伊達家も倒れかねない…家臣たちはそれを恐れていました。

伊達家を率いる政宗としては自重する局面、しかし政宗の口から出たのは思わぬ言葉でした…「母上が最上におられる故、最上を見捨てる事はできぬ」(『貞山公治家記録』より)

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政宗が選んだのは最上家への援軍、たとえ伊達家が危機に陥るとしても自分の母親がいる以上、救いの手を差し伸べるのが筋目であるとしたのです。

政宗の命を受け、伊達勢が山形に急行します…そして山形城にほど近い長谷堂城会津から兵を進めてきた上杉勢の大軍と対峙します。

9月30日、両者のにらみ合いが続きます…その時、援軍を出した政宗を大きく勇気づける報せが…それは関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わったという報せ、…すなわち様子を伺っていた全国の武将たちが徳川に味方し、上杉家が孤立する事を意味しました。

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勢いに乗った伊達勢、一転不利となった上杉勢に対して果敢に攻め込み、一時は大将である直江兼続に自害を覚悟させたほどでした。この結果、上杉勢は大打撃を受けて会津に退き、最上家は救われました。

その時の母の言葉です…「政宗殿のこたびの御心労は言葉では言い尽くせぬほどのものであったことでしょう。そのお働きで山形の戦は鎮まり、敵を退ける事ができました。これもひとえに、ひとえに政宗殿の御威光によるものです。」(『保春院夫人書状』より)

幼き日に当主としての器量を疑い、一度は我が子・政宗を見捨てようとした母、しかしその政宗の決断により命を救われる事になったのです。

関ヶ原の戦いの後、幕府を開いた家康の世が始まります…功績のあった政宗は東北での領地拡大を期待しますが、家康が全国に敷いたのは厳しい支配体制、伊達家は荒廃していた岩出山を中心とする領地をほとんど増やす事は出来ませんでした。

政宗は領地の中でも海沿いで平野が広がる、仙台の地に新たな城を建設、ここで地道な国造りを行い、伊達家の繁栄を取り戻そうとしたのです。

それでも高みを目指す政宗の闘志が衰える事はありません…政宗がその夢を羽ばたかせたのはヨーロッパ、…交易を狙い日本の枠を越えた新たな挑戦を始めたのです。

カトリックの頂点に立つローマ法王にこんな言葉を送っています…「御依頼があればどのようなことでも、その多くを我々がお引き受けする事が出来ます。」(『ローマ法王宛 伊達政宗の新書』より)

 

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ローマ法王宛 伊達政宗の新書)

東北を世界の窓口にする事によって独自の理想国家を作ろうとした政宗、その大いなる野心を胸に東北の大都市、仙台の礎を築いていったのです。


政宗と母
互いに送った和歌

東北の英雄・政宗は、仙台の繁栄を見届け、70歳で生涯をとじた…。

北の関ヶ原政宗によって命を救われた母・義姫、その後、最上家は幕府によって改易、居場所を失った母を受け入れたのが政宗でした。

政宗56歳、母75歳

28年ぶりの再会でした…この時、二人は互いに和歌を送っています。

あひあひて
心のほどや
たらちねの
ゆくすえひさし
千とせふるとも
政宗の歌)
…今やっと母上に会う事ができました。これからはこの仙台でいつまでも健やかにお過ごしください、それだけを願っています。

二葉より
うへしこまつの
木だかくも
えだをかさねて
いく千世のやど
(母・義姫の歌)
…若葉の時に植えた小さな松の木も高く枝を重ねて行くようになりました。幼かった貴方も立派な当主となり、国も益々栄えて行くことでしょう。

幼い日の不運に苦しみ、乱世の中で度々躓きながらも覇者を目指し続けた伊達政宗、仙台で理想の国造りに取り組むそのそばには、母の姿があったのです。