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鉄砲伝来 ~最強兵器が時代を変えた

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NHK BS歴史館
鉄砲伝来 ~最強兵器が時代を変えた

作家 津本陽
「記録によりますと鉄砲が登場してから戦場での死傷者が爆発的に増えます」

一橋大学 教授 池享
「弓をきちっと射るためには修練が必要ですが、鉄砲はずっと簡単です…ですから多くの民衆が鉄砲を手に戦いに参加することが出来たんです」

奈良大学 教授 千田嘉博
「今、我々がイメージする日本の城は鉄砲に対してどう守るか、鉄砲を使ってどう戦うかということで今日の城の形になっているのです。鉄砲が無ければ城の形は、まったく違っていたでしょう」


鉄砲を伝えたのは
ポルトガル人ではない!?

文久12(1543)年、種子島に漂着したポルトガル人が鉄砲を伝えた…かつて鉄砲伝来をこのように習いました。

じかし、近年新たな見方が出てきました…鉄砲を伝えたキーパーソンは一緒にいた中国人と言うのです。

当時、倭寇(後期倭寇は中国人)は東南アジアから日本に至るまでの密貿易を幅広く行っていました。ポルトガルも東洋・明を目指し、1511年、世界の十字路、インドネシアマラッカ海峡のマラッカを占領した。

ところがポルトガルは、明との貿易交渉に失敗、マラッカから先の海に進む事が出来なくなったのです。

やむなく倭寇の密貿易を頼る事になった…そして倭寇・中国人の仲介で種子島に鉄砲を持ってやって来たというのが真相です。


鉄砲伝来
なぜ種子島に?

実は鉄砲伝来の半年前、種子島家の領地だった屋久島が敵対する勢力によって占領されてしまいます。戦いの渦中にあった領主・種子島時尭は鉄砲の価値にすぐに気づきます。

 

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鉄砲の威力を目の当たりにした時尭は、大金を支払い即座に2挺の鉄砲を購入、その額2000両、現在の価値1億円、東アジアの海を席巻した倭寇・中国人によって激動の日本にもたらされた鉄砲、大きなインパクトを与える事になります。

奈良大学 教授 千田嘉博
「当時の日本は、中央政府・足利幕府が衰退していて、中央で経済・流通をコントロールしていなかった…いわば究極の規制緩和時代だったのです」


鉄砲が産業を変えた!
戦国日本 驚異の技術力

日本人で初めて鉄砲を手に入れた種子島時尭は、手に入れたばかりの火縄銃の複製を命じたのです。火縄銃は日本人が初めて目にした機械製品でした。

火縄銃を分解すると、銃身、ネジ、カラクリなど様々な部品から出来ています…鉄砲製造を命じられた種子島の刀鍛冶は、わずか1年で国産第1号の火縄銃を完成させたのです。

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種子島郷土史研究家 鮫嶋安豊さん
種子島には砂鉄があります。砂鉄があるという事は、刀鍛冶がいる、製鉄技術のベースがあったのです。鉄砲製造の条件としては非常にいい場所だったのです」

種子島で作られた鉄砲の評判は、瞬く間に全国に広がり、各地の戦国大名が手に入れようとします。薩摩・島津貴久尾張織田信長、越後・上杉謙信らがこぞって鉄砲を求めます。

その事にいち早く目を付けたのが、当時日本一の商工業都市・堺の商人でした…どうすれば鉄砲を大量生産する事ができるか、彼らは画期的な方法を編み出します。

”部品互換方式” …部品の規格を統一、それぞれ分業で製造し、最終的にそれらを組み立て完成させます。

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当時、海外では一人の職人が全ての工程を担い、1挺づつ鉄砲を作っていました。堺の分業大量生産は、世界に先駆けて編み出されたのです。

この大量生産によって日本はあっという間に鉄砲大国になります…1550年代に日本は30万挺の鉄砲があり、ヨーロッパ全体の保有数を上回っていたのです。

作家 津本陽
「日本の当時の軍事力は、10万人単位、規模で戦っていたんです。対してヨーロッパは500人単位ですよ。もし海路日本の兵士がヨーロッパへたどり着いたら、全ヨーロッパを征服するのに時間はかからなかったと思いますね」

司会 渡辺真理
「東の外れの日本は、軍事大国だったんですね」

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(作家 津本陽


信長が苦戦!
謎の鉄砲集団とは?

鉄砲伝来から30年、鉄砲の存在が戦国時代の戦い方を決定的に変える、そんな転換点となる戦がありました。

元亀元(1570)年~天正8(1580)年 石山合戦天下布武を掲げ、飛ぶ鳥を落とす勢いの信長、…その前に立ちはだかったのが、全国の一向一揆を統率する本願寺顕如です。

写真

総本山・石山本願寺を攻めた信長は、思わぬ苦戦を強いられます。戦いは10年にも及びました。

天正4(1576)年、本願寺に侵攻した信長軍、待っていたのは激しい反撃でした…大量に浴びせられる銃弾、信長側の記録 『信長公記』 には、…

的は数千挺の鉄砲から
降る雨の如く、弾丸を撃った
(『信長公記』より)

この時期、一軍で数千挺の鉄砲を装備することは驚くべき事でした…更になんと信長自身が敵に狙撃され、足を負傷したというのです。

 

なぜ本願寺は大量の鉄砲を?
最強傭兵集団 ”雑賀衆
驚きの鉄砲戦術とは…

謎の傭兵集団・雑賀衆、…彼らの戦法はこれまでの常識を覆すものでした。源平の時代以来、武士の戦いは刀・槍・弓矢など個人の技量に頼ったものでした。

しかし雑賀衆はこのルールをまったく無視、…
①鉄砲の連射法… 「我らは鉄砲5挺を持ち、込み替えて撃った。そばにて火薬や玉を込み替える者がいた。」(『佐武伊賀働書』より)

つまり火薬を詰める専任の者がいたんです…これによって連射が可能になったという事です。雑賀衆は個人ではなく、チームで鉄砲を駆使していたのです。

②ゲリラ戦法… 「我らは約30mの距離で撃った…10人中8人は打ち殺した。」(『佐武伊賀働書』より)

火縄銃の射程距離は100m、しかし雑賀衆は敵を確実にしとめる為、密かに近づき、至近距離から攻撃をしていたのです。

隠れて狙撃し、撃ったら逃げる、このような戦法は名誉を重んじ、正々堂々と戦う武士の戦い方とは、まったく相いれないものでした。

実は雑賀衆とは、武士ではなく、現在の和歌山市周辺で農業や漁業を営む民衆でした。紀州は、守護大名の力が弱く、惣国という民衆による小さな独立国のような状態を保っていたのです。

雑賀衆は、鉄砲を持って自衛、組織的な運用に成功していたのです。

雑賀衆という思わぬ相手に煮え湯を飲まされた信長、結局、石山本願寺を落とすことは出来ず、和睦を結ぶ事になります。

静岡大学 名誉教授 小和田哲男
「信長の長篠・設楽原における三段撃ちのルーツは、雑賀衆、信長がパクッタというか学んだと考えられます」

以降、戦で鉄砲足軽隊の比率が急速に高くなっていきます。そして信長は鉄砲を有効に使い、天下統一へと突き進んで行きました。

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(司会 渡辺真理

作家 津本陽
「… 雑賀衆というのは、金が儲かりゃいいやというか、モラルもあまりない…傭兵隊として多くの収入を得ていたんです。

和歌山人は抜け目が無かったんですね…雑賀衆がついたら戦争に勝てると大名たちに伝わりましたからね…どちらに雑賀衆が付くかで勝敗が決まったんです。鉄砲とは、民衆の為の武器という側面もあったんです。…」

奈良大学 教授 千田嘉博
「… 合戦でどのように兵士が負傷したか ”合戦手負注文” という記録がありますが、鉄砲が入って来た直後は鉄砲傷がもの凄く多い、…まだ鎧が鉄砲仕様になっていなかったんです。

今度は、鉄砲仕様の鎧、南蛮胴とかが使われ始めます…すると南蛮胴を撃ち抜ける鉄砲を改良します。こうして際限ない軍拡競争が展開されます。…」

一橋大学 教授 池享
「… あとは鉄砲が社会の在り方を変えたという事です。大名側も鉄砲足軽隊を組織するには常備軍、一所に集めて練習するような組織体制が必要になって来たんです。

そうすると兵農分離が進むんです。大名を中心とした縦方向の編成が進む、社会を変える原動力になる。そこにいきついたのが信長だったんです。…」


最強の城 VS. 最強の鉄砲
大阪の陣

鉄砲に対抗するため、城の作りも大きく様変わりし、現在我々が目にする城の形が完成します。その技術の粋を終結したのが、豊臣秀吉が築き、難攻不落と言われた大阪城でした。

秀吉が没して16年、豊臣と徳川による戦国最後の戦い、大阪の陣はこの城が舞台となります…それは当時の世界トップクラスの城と最新の鉄砲が相対する、まさに究極の戦いでした。

豊臣軍 城の備え
①掘り…鉄砲が主力兵器となるにつれて掘りの幅が広げられました…20mに拡幅、大阪城はその掘りを三重に張り巡らせます。

②石垣…ジグザグに築いた ”屏風折れ” と呼ばれる石垣です。

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(屏風折れ)

敵が攻めてきた時に正面からだけでなく、側面からも鉄砲が撃てる事によって城の城壁の守りを飛躍的に高める事が出来たのです。

③迎撃…石垣の上には ”狭間” と呼ばれる小さな穴が開けられ、敵を鉄砲で攻撃、城に近づく事は困難を極めました。

④弾丸対応…柱、門扉が鉄板で覆われます…大阪城は鉄砲を意識して全体を設計した。


徳川軍 攻撃作戦

空中戦…遠く離れた所から城を砲撃する遠距離砲撃、作戦の切り札は、鉄砲を進化させ大型化た大筒でした。

家康は密かに鉄砲生産地、近江・国友に命じ製造させました。国友鉄砲…
弾丸重量:50匁(190g)
射程距離:1キロ以上
…更に大阪の陣開戦に備え、幕府が国友へ発行した大筒鉄砲の受領書を見ると2キロ先まで届く、100匁筒も製造していた事が分かります。

家康は万全の備えで10年間で200挺を超す大筒を製造させていました。

長浜市長浜城歴史博物館 大田浩司さん
「生きているうちに豊臣を倒さなきゃいけないという焦りが、徳川家康にあったということでしょうね」


慶長19(1614)年 大阪冬の陣

徳川軍は、天守閣から800m離れた、備前島から砲撃を開始、…更に家康が用意した最新兵器が豊臣方を震撼させます…大砲です。

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備前島から砲撃)

 

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(最新兵器 大砲)

昼夜問わず続いた砲撃、砲弾は籠城を続ける豊臣秀吉の側室・淀のいる建物を目がけて打ち込まれました。

その様子が徳川実記に記されています…「大筒は淀殿の居間を打ち壊した…そばにいた次女、7,8人は死亡した」(『徳川実記』より)

恐れをなし講和に応じた淀殿・豊臣勢、外堀を埋められ、4ヵ月の停戦を経て再び大坂夏の陣を迎えますが、大阪城は成す術もなく陥落、豊臣家は滅びます。

鉄砲伝来から70年、こうして戦乱の世は終焉を迎えたのです。


「大阪の陣」は
最強の城 VS. 鉄砲の戦いだった!?

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大阪冬の陣図屏風)

奈良大学 教授 千田嘉博
大阪冬の陣図で説明します…

豊臣軍
・豊臣軍の軍勢は、櫓の中から鉄砲を撃って守っている
・損傷をうけない豊臣軍は有利な立場で守っている
・徳川軍は、どの部分も落とす事は出来なかった

徳川軍
・城に近づくにも塹壕を掘って近づいた
塹壕もジグザグに掘り、鉄砲を警戒

火縄銃 対 火縄銃が主力兵器となって城を攻める、城を守るという壮絶な戦い…いわば近代戦の先取り、当時最も高度な城の攻め方をしている。

大坂方もその攻撃に耐えうる高度な防御線を鉄砲を主軸にしていた…いかに戦国の戦いの総決算、大阪冬の陣が世界史的に見ても、時代を先取りする戦いであったかがよく現れています。 …」

司会 渡辺真理
「そうやって見ると戦国時代を加速させたのも鉄砲、結果終わらせたのも鉄砲、大砲だったんでしょうか…」


作家 津本陽
「… 鉄砲は怪物です…死傷者が増えた…戦争の様式を大きく変えましたから…私は大東亜戦争に16歳の時に体験しました。

爆弾に当たって死んだり、弾に当たって死んだ人を目の前で見ています…自分もそんな目にあってますよ。

もう戦争なんてね…とてもじゃないけど出来たもんじゃないですよ。

そういう世の中が来ないように祈るだけですよ…」

 

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司会 渡辺真理
奈良大学 教授 千田嘉博
作家 津本陽
一橋大学 教授 池享