NHK 歴史秘話ヒストリア
これが乱世を生きる道 ~軍師 官兵衛 美しき人生~
episode1
軍師 官兵衛
信長が認めた知略
官兵衛人気で盛り上がる姫路は戦国時代、播磨の国にありました。
・西に中国地方を支配する毛利輝元
・東に新興勢力の織田信長
播磨の領主たちはこの二つの勢力の狭間で揺れ動いていました…官兵衛が仕えていたのはそんな領主の一つ小寺家、戦乱を生き抜くため織田と毛利どちらにつくのか小寺家も決断を迫られていました。
古くから関係の深い毛利氏に付くべきだと流れが傾きかけたその時、官兵衛が口を開きます…。
「織田に付くべきと考えます…毛利輝元は居城に引きこもり、自ら兵を率いる事は少ない。信長は武田家との戦に勝ち、向うところ敵なしである。いずれは信長の天下となろう」(『黒田家譜』より)
双方の動きを詳細に語り情報を分析する官兵衛、一転話し合いは信長に味方する事に決まりました。
天正3(1575)年 官兵衛30歳、小寺家をまとめた官兵衛が向ったのは信長の居城・岐阜城です。この時、信長は西日本の大勢力、毛利攻めに取りかかろうとしていた矢先でした。
そんな中、地方の一武将にすぎなかった官兵衛は、信長に自分に先ぽうを任せれば播磨の豪族の説得を引き受けると直談判したのです。
あまりに大胆不敵な物言いだったが信長は自分の刀を官兵衛に与えたのです。押し当てただけで人が真っ二つになったといい伝えられる名刀です。
(信長が官兵衛に贈った国宝「刀名物 圧切長谷部」)
播磨は毛利攻めの前線基地として重要な場所、攻略策を示した官兵衛に信長は最大限の評価を与えたのです。
兵庫県立大学 中元特任教授
「天下国家を一家老の身でありながら論じた。しかも論じ方が理路整然としていた。それと先が読める力があると信長は判断したのです」
軍師 官兵衛
信長を驚かせた忠義
天正5(1577)年 官兵衛32歳 信長は官兵衛の策に従い、羽柴秀吉を毛利攻めの大将として播磨に派遣します。
官兵衛は秀吉の下で次々と領主たちを見方にしてゆきます…とろが…
天正7(1578)年 官兵衛33歳 有岡城を守っていた信長の家臣・荒木村重が突如謀反を起こしたのです。このままでは秀吉軍は毛利氏と村重に挟み撃ちされ絶体絶命の危機に陥ってしまいます。
官兵衛は説得のために有岡城に乗り込むという危険な賭けに打って出ました。
「約束を果たすためなら命を惜しんではならぬ」(『黒田家譜』より)
播磨平定を自ら信長に申し出た以上、命に代えてもこれを実行しなければならない…しかし官兵衛の消息は途絶えます。
説得は失敗だったのか
村重に取り込まれたのか
一向に戻ってこない官兵衛に信長は怒りを爆発させます…信長は官兵衛が裏切ったと思い込み官兵衛の嫡男・松寿丸を殺せと命じたのです。
官兵衛が消息を絶ってからの一年後の天正7年10月、信長は5万の大軍で村重の居城・有岡城を攻め落とします。
有岡城に入った信長軍は思わぬ光景を目にします…裏切ったはずの官兵衛がなんと囚われの身になっていたのです。
官兵衛は一年もの間、牢の中で耐えしのび信念を曲げる事無く、信長への忠誠を貫いていたのです。
”官兵衛は裏切ってなかった” それを知った信長は、取り返しのつかない事をしたと己を恥じ、こうつぶやいたといいます。
「後悔の至りである」(『黒田家譜』より)
官兵衛は忠義の武将として信長の心に深く刻み込まれる事となりました。
姫路に戻った官兵衛を嬉しい知らせが待っていました…殺されたと思っていた息子の松寿丸が生きていたのです。
官兵衛にかぎって裏切るはずがないと信じた同僚の竹中半兵衛がかくまっていたのです。
episode2
天才軍師のびっくり作戦
天正10(1582)年、播磨を平定した秀吉軍は毛利攻めの最前線、備中高松城に押し寄せます。ところが高松城は周囲を沼地に囲まれた天然の要塞、足を取られた兵たちは次々と敵に討たれ苦戦を強いられます。
攻めあぐねる秀吉軍…その時、官兵衛によって提案されたのが有名な ”水攻め” だったのです。
堤を作り川から水を引き城を水没させる作戦です…水浸しにされた敵は戦どころじゃなくなります。水の溜まりやすい湿地を逆手に取ったもので発案者は官兵衛だったと言われています。
高さ5m、堤の全長は3キロ…川を堰き止め水を引き込んだのです。
高松城の周囲は水に水没、あたり一面湖のようになったのです。敵の士気はみるみる落ち勝敗は決しました。
いよいよ高松城が落城寸前となったとき驚愕の報せが届きます。…本能寺の変、信長が京都本能寺で家臣の明智光秀に討たれたのです。
まったく想定外だった出来事に秀吉は茫然、…しかし官兵衛は、…
「秀吉様、ご武運が開けました。天下を取る時がまいりました」…真っ先に信長の仇を討ち果たせば天下取りの有力候補になる。
官兵衛の言葉で我に返った秀吉は光秀を討つ事を決意、官兵衛はすぐに毛利との和平交渉を開始、素早く話をまとめた後、こう付けくわえました。
「毛利軍の旗をお借りしたい」
秀吉軍は高松城から近畿まで200キロを7日間で駆け戻ります…戦国屈指の強行軍 ”中国大返し” です。
官兵衛は途中、軍勢の食事の用意を整え、スムーズに移動できるよう取り計らったといわれます。
天正10(1582)年6月13日、山崎で秀吉軍は明智軍と対峙、光秀は百戦錬磨の名将、軍勢も精鋭揃いです。
ここで官兵衛は毛利軍から借りた旗を立てたのです…秀吉軍に毛利の旗を見た明智軍は 「毛利まで敵に付いた」 と思い込み大混乱に陥ります…戦は秀吉軍の圧勝に終わったのです。
軍師官兵衛の優れた智力が秀吉を天下人へと押し上げる大きな原動力となったのです。
「(秀吉)官兵衛のはかりごとは普通の人間の及ぶところではない」(『黒田家譜』より)
戦国最強の№2として秀吉からも最高の賛辞を得る事となりました。
episode3
男の引き際
官兵衛の隠居ライフ
秀吉に天下を取らせた官兵衛は大分県中津で12万石の大名となり、家督を息子の長政に譲ります。そして名前も如水とします。
(中津城)
中津の城主となった官兵衛が情熱を注いだのが町づくりです…今でもその痕跡を見つけられます。
姫路町:姫路から招いた大工、石工が暮らした街
京町・博多町:京都、博多から商人を呼びよせた場所
官兵衛は全国から優秀な職人を地域別に住まわせたのです。
官兵衛の手腕で中津の町は急速に発展、博多と並ぶ九州有数の都市に成長するのです。
更に海上交通のネットワークも作ります…中津と大阪の間に早船の中継基地を作ります。上方の情報は3日で中津に届いたのです。当時としては驚異的な速さ、隠居してなお情報収集を怠らなかったのです。
慶長3(1598)年 官兵衛53歳、秀吉が死ぬと天下は再び乱れます…日本中を巻き込んだ徳川家康と石田三成の対決、関ヶ原の戦いです。戦乱は九州にも飛び火します。
(青:三成方 赤:家康方)
大名の大半は三成に味方します…しかし官兵衛は独自の情報網から家康有利と判断、息子の長政に兵の大半を与え、家康の元に送りこみます。
これにより手元に残された僅かな兵で四方の敵と向かい合わなければならなくなった官兵衛、…ここで思い切った策にでます。
城の蔵を開いて蓄えていた金銀を惜しげもなく配り、兵を新たに募ったのです…その結果集まった兵は9000人、官兵衛の策は見事功を奏しました。
こうして集められた官兵衛の軍勢は、攻め込んできた敵を撃退、そればかりか九州各地の敵の城を次々と落とし、家康の勝利に貢献します。
関ヶ原の戦いが終結すると家康は官兵衛の働きを讃え、褒美として望みの領地を与えるといいます…しかし官兵衛はこの申し出を断ります。
官兵衛が家康に望んだのは茶壷一つだけ、領地の九州に戻った官兵衛はその後、表舞台に出る事はありませんでした。
その潔い引き際を家康はこのように讃えました…
「今の世に古の武将のように欲のないものは官兵衛一人である」(『名将言行録』より)
関ヶ原の4年後、慶長9(1604)年 黒田官兵衛(如水) 死去 享年59 …波乱の人生を閉じたのです。