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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

土方歳三 北の大地に散る 戊辰戦争最後の激戦!!

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NHK その時歴史が動いた
新撰組副長 土方歳三 北の大地に散る 戊辰戦争最後の激戦!!

明治2年、江戸から明治へと時代が大きく変わりつつあるとき一人の武士が北海道函館の地で新政府と戦い続けていました・・元新撰組副長 土方歳三(35歳)その2年前まで土方は京都にいました。新撰組の副長として江戸幕府の為、剣を振るって敵を倒す日々を送っていました。

やがて始まった明治新政府と旧江戸幕府との戦い、そのさなか土方は、自分の戦い方が古くなった事に気づきます 「剣はは一つも用いるところが無かった」 土方は変わりました・・羽織はかまを脱ぎ捨て銃を持ちフランスの軍事顧問団と親交を持ちます。

そして西洋式の軍隊を率いる指揮官としての道を歩み始めるのです。土方と同行していたフランス軍事顧問団の資料には、土方が近代的な戦争の仕方に習熟しフランス軍の士官達を率いて戦うほどに変身を遂げていた事が読みとれます。

衣服や戦い方だけでなく土方は性格も変わりました。かつて新撰組の鬼の副長として恐れられた土方は、部下を思いやる温和な一面を見せるようになりました。

しかしたった一つ土方が変えようとしなかったのは、あくまで旧幕府軍の一員として新政府軍と戦い続ける事でした。・・圧倒的な勢力で押し寄せる新政府軍、次々と脱落し戦場から逃げようとする味方の兵士達、土方は叫びます 「退く者は斬る」 その土方の命を一発の銃弾が奪います・・新しい時代に適応する十分な能力を持ちながらなぜ土方は、たた一人時代の流れに逆らって戦い続けたのかを考えます。

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幕末、暗殺や暴行が相次ぐ京都、その治安維持を目的に幕府の為に働く剣豪の集団、それが新撰組です・・江戸幕府に反対する勢力を徹底的に弾圧しうむを言わさず切り捨てる新撰組が頼りとするのは自らの剣の腕前だけでした。

新撰組副長 土方歳三 幕府のお膝元、多摩の農家に生まれた土方は若くして剣の達人となり、同郷の近藤勇とともに京の都に上って新撰組を結成、慶応3(1867)年6月、幕府の為つくした功績により、近藤とともに武士にとりたてられます。

しかし慶応3年冬、新撰組に転機が訪れます・・。
慶応3(1867)年12月9日 朝廷は、王政復古の大号令を発して江戸幕府の廃止・・その夜の会議で徳川将軍に対して領地の返納を決定します。

慶応4(1868)年1月3日 一方的な決定に幕府勢力は反発・・旧幕府軍は朝廷を担ぐ薩摩・長州の勢力と激突、京都郊外の鳥羽伏見で戦闘が始まりました(鳥羽伏見の戦い)・・新撰組の持ち場は旧幕府軍の拠点、伏見奉行所でした。

奉行所は薩摩・長州軍の砲撃により炎に包まれました。土方は敵陣への切り込みを命じます。剣を振りかざし槍を構えて突撃する新撰組隊士・・その行く手には銃弾の嵐が待っています・・新撰組は惨敗します。

この戦いの後、土方は友人の佐倉藩士、依田七郎に 「これからの戦は、銃や大砲でなければだめだ・・自分達は剣をはき槍をとったが一つも役に立たなかった」 と語りました。

江戸に逃れた土方は、髷を落とし羽織はかまを脱ぎ捨てます。・・そして西洋の衣服を身に付け銃を手にし部下には新式の歩兵銃や大砲など近代兵器を与え次の戦いに備えました。

鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川家は朝廷の敵、朝敵とされました。一方、薩摩・長州の勢力は朝廷の軍、官軍となり江戸へ向けて進撃します。・・土方と近藤は、旧幕府の命を受け200の兵を率いて出撃、甲府の城に立てこもって官軍を迎え討とうと西へ進みます。

慶応4(1868)年3月4日 甲府を目前にして土方は意外な事を知ります。甲府の城がすでに官軍に占領されていると言うのです。土方達は極めて不利な状況、兵士たちは次々に逃亡、残った半数の兵士達も銃の扱いに不慣れな者達ばかり、3月6日戦闘が始まりました。しかし最新の兵器を揃え西洋式の軍隊を作っても兵士の士気と能力が高くなければ戦闘に勝つ事は出来なかったのです。

慶応4(1868)年4月3日 近藤と土方は下総の国、流山に移動するも本陣は官軍に包囲されます。切腹すると言う近藤、無駄死にしてはならないと言う土方・・近藤は一人、名をいつわって官軍に投降するも2日後正体を見破られ囚われの身となります。慶応4(1868)年4月25日 新撰組局長 近藤勇 処刑・・武士として切腹を考えていた近藤、しかしその最後は打ち首獄門でした。

慶応4(1868)年4月11日 江戸城が官軍に明け渡されます・・薩摩・長州を中心とする軍事的な優勢は決定的なものとなりました・・官軍の優位が確立すると多くの藩は朝廷の支配下に入りました。

土方は、「有利か不利かは問題では無い。薩摩と長州が幕府にしたことは弟が兄を討ち家臣が主君を征するようなものだ・・いやしくも武士たる者は薩摩・長州の見方をすべきではない」 と語りました。
 
慶応4(1868)年4月11日 下総の国(現在の市川市)この地で土方は江戸から脱走してきた旧幕府軍の一部と合流、参謀に就任し近代兵器を装備した2000の兵力を指揮する事になりました。

慶応4(1868)年4月19日 土方達は官軍が守る宇都宮城を攻略、その後、土方達は薩摩・長州に反発する勢力の多い東北に向かいます。・・当時、東北や北陸の藩は同盟を結成して官軍に対抗していました(5月時点の同盟33藩)土方達はこの同盟に合流、しかし同盟の結束は弱く官軍に降伏する藩が相次ぎます(11月時点の同盟11藩)。

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慶応4(1868)年9月3日 東北の諸藩は仙台城で軍議を開く、土方は東北全体を束ねる軍事総督就任を要請されました。

土方は答えます。「軍を指揮するには軍令を厳しくせねばなりません・・背くものがあればいかに大藩の重役といえどもこの歳三が斬ってしまわねばならん・・私に殺生与奪の権利をいただけるのであればお受けしますがいかがですか」と・・。

東北の諸藩代表は言葉を濁します。「藩士の殺生与奪の権は、藩主のものであるからこの場で即答はできない」・・これを聞いた土方は席を蹴って去ったといいます。

この時、仙台湾には江戸を脱走した旧幕府軍の艦隊が碇を下していました・・その艦隊に土方は身を投じます・・艦隊を率いていたのはかつての幕府海軍副総裁 榎本武揚、榎本は土方達を乗船させると艦隊の進路を北へ向けました・・目指すは北海道。

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明治元(1868)年10月 榎本と土方率いる2800の軍勢はこの地に築かれていた西洋式の城、函館・五稜郭に本拠地を構えました。

明治元(1868)年12月15日 榎本は自ら総裁となって函館政府を樹立、東京の明治新政府とは別の政権を打ち立てようとします。・・土方は陸軍奉行並に就任、陸軍部隊を現場で統括する事になります。

近年分析が進んだ資料から土方がかつてのように刀に頼る剣豪ではなく、フランスの軍人達とともに西洋式の軍隊を自由自在に動かすほど近代的軍事能力を見に付けていた事がうかがえます。

明治2(1869)年4月9日 3300人の官軍が上陸、3方向から函館に進撃を開始しました・・土方はたたちに出動、自ら部隊を率いて二股口という峠に向かいます。戦いを前に土方は部下に自分の覚悟を語っています。「我が兵は限りあるも官軍は限りなし、しかるに吾れ任せられて敗れなばすなわち武夫の恥なり」。

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明治2(1869)年4月13日 二股口に官軍出現、その数500・・迎え討つ土方隊は130、1/4の兵力です・・午後5時土方隊攻撃開始、戦いは僅か300mの距離を経て数万発の弾が飛び交う激しいものになりました。

弾よけに隠れて上から打つ土方隊は優勢に戦いを進めます・・そこに山のあちこちから官軍のものとおぼしきラッパの音が聞こえてきました・・官軍に逆に包囲されてしまうのではないか・・動揺する兵士に土方は叫びます。・・「敵が背後に回り込もうとするものであれば必ずひそかに進むはずだ、これは我が軍を恐れさせ逃げ出させようという敵の作戦である・・退く者あればこれを斬る」 土方の一言で兵士たちは踏みとどまりました・・そして官軍の攻撃を押しとどめる事に成功したのです。

その夜、兵士達は驚きました土方が酒を携えて陣地を回り兵士達をねぎらったのです。「少ない兵力で大軍に対してよく守ってくれている。たくさん褒美を与えたいが酒に酔って軍の規律を乱すと困るので一杯だけにさせてくれ」(土方の部下の日記より)・・陣地の中は笑いに包まれたといいます。

土方の肖像を描いた部下のメモ書きには 「土方は歳を重ねるごとに温和になり人々が彼に信頼をよせる様は赤子が母を慕うかのようであった」 と記されていました・・かつて新撰組の鬼の副長として恐れられた土方は、部下を思いやる温和な一面を見せるようになったのです。

明治2(1869)年4月29日 二又口を死守していた土方隊に危険を知らせる報告が届きます・・海岸線の防衛線が敵に突破されたというのです。・・敵の包囲を避けるため土方隊は退却を余儀なくされたのです。

函館・五稜郭に立てこもる旧幕府勢力の敗北が決定的になったこの時期、土方は 「もし我が軍が官軍と和睦でもすれば地下で近藤(勇)と相見ゆるをえない」 と語ったと言われています。

明治2(1869)年5月11日午前3時 軍艦からの艦砲射撃とともに官軍の総攻撃が始まりました

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土方達の本陣五稜郭は、函館市街から5キロ離れていました。
一方市街地の外れには海沿いに築かれた陣地「弁天台場」がありました・・上陸した官軍は函館の市街地を占領、弁天台場と五稜郭は分断されてしまいました・・孤立した弁天台場の兵250、その主力はかつて土方と戦った新撰組の生き残りです。

彼らを救出するには市街地にいる官軍を突破しなければなりません・・5月11日朝、土方は弁天台場の救出に出撃します・・その時の様子を記録していたのが土方の補佐官、大野右仲です。

大野の記録によれば土方は、午前8時頃、大野とともに函館市街と五稜郭の中間の一本木関門に到着します・・この時、一本木関門には官軍に敗れた旧幕府軍の兵士が次々と退却してきていました。土方は大野に命じます 「速やかに兵を進めよ私はこの柵にあって退く者を斬る」・・大野は兵を率いて前進、土方が背後で指揮をとる事で旧幕府軍は少しずつ勢いを取り戻し始めました。

その時・・官軍の兵士が放った一発の銃弾が土方を貫きました。

しばらくして前線に異変が起こります・・それまで善戦していた旧幕府軍の兵士達が急に総崩れになって逃げ始めたのです。前線で指揮していた大野は戸惑います・・逃げる兵を門で止めると約束した土方はどうしたのだ・・急遽引き返した大野は土方の戦死を知らされます。

銃弾は土方の腹部を貫通、落馬して抱き起こされたとき土方の息はもう無かったといいます。
明治2(1869)年5月11日 土方歳三 戦死 享年35

明治2(1869)年5月18日 土方戦死の一週間後、旧幕府軍は官軍に降伏・・一年半におよんだ内乱の戊辰戦争は集結しました・・日本は、薩摩・長州を中心とする明治政府のもと急速な近代化に乗り出します。

榎本武揚をはじめ官軍に降伏した旧幕府軍の幹部達はやがて明治政府に仕え官僚として活躍する事になります・・土方は函館で出来た独立政権の閣僚の中でたた一人の戦死者でした。

その亡骸は戦争の混乱の中で埋葬されました。・・しかしその場所は、あきらかにされることはなく土方は今もこの函館のどこかに人知れず眠っています。