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幕末のスーパードクターズ 緒方洪庵と江戸の名医たち

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NHK 歴史秘話ヒストリア
episode1 名医を生んだ言葉とは? スーパードクター誕生の秘話

幕末のスーパードクター緒方洪庵、その一生は病との戦いの連続でした・・少年時代は病弱で武士失格と絶望、その洪庵を変えたのは異国の医師の名言でした。

上記写真は、大阪市のオフィス街にある古い日本家屋、緒方洪庵が江戸時代末期に開いた医学の塾、適塾です・・当時、日本最先端の医学校と言われていました・・適塾には、ユニークな教育方法があったのです。

文政9(1826)年 武士には向いてないと悟った洪庵は17歳で家出します・・そして選んだ職業は医者でした。

当時の医者の治療法は、漢方薬の処方や傷の縫合などで重い病を治す方法は限られ命を救えまい事が多かったのです・・そんな時、洪庵はオランダから入ってきた新しい医療、西洋医学に出会うのです。

天保7(1836)年 洪庵27歳で長崎で学んだ西洋医学は人体解剖によって臓器の仕組みを解明し病の原因を探る科学的なものでした。・・外科の技術の向上などこれまで治せなかった難病を解決する治療法が次々と生みだされつつありました。・・特に洪庵に感銘を与えたのが西洋の医者達が治療に懸ける熱意でした。

ドイツの医師 フーフェラント
「医の道は己のためにあらず・・ただ人を救う事のみ」・・「不治の患者でも一日も長く、その命を保つ事に務めなさい」
・・この言葉により洪庵は目指す医者の姿を見つけます。

天保9(1838)年 洪庵は29歳の時、大阪で医者として開業、同時に開いたのが西洋医学を教える学校、適塾でした。

適塾は今も当時のたたずまいで保存されています。建物は2階建で1階は洪庵夫妻と子供たちの居住スペース、2階の大広間(写真下)が塾生達の場所、多い時は50人の塾生がここに住みこみ医学を学んだといいます。

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集まったのは、医者・農民・町人・武士など様々な身分の若者達が全国から入塾しました・・その一人が慶応義塾大学を創設する福沢諭吉、大分の下級藩士の二男でした。

福沢は晩年、適塾の様子をこう振り返っています。
「とにかく貧乏な者が多い・・汚いと言う事を気に留めない・・襦袢も何もない真っ裸」・・不潔な上に品行方正とは言い難かった適塾生、洪庵は独特の教育方法でやる気を起こさせます。

畳取り合いレースです。
塾生達が暮らす40畳の大広間、塾生一人に1畳と割り当てどの畳にするかをテストの成績順で決めたのです・・テストの成績上位者は日当たりの良く風通しのいい窓近くの畳・・成績下位者は奥の薄暗く蒸し暑い畳、最下位は階段のそば、トイレに起きる塾生に踏みつけられろくに睡眠も取れない場所でした。

この競争が塾生達の競争意識に火を着けます・・寝食を忘れるほどに勉強に熱中、当時塾生達が使っていた辞書、奪い合いでボロボロになったと言います。

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更に洪庵はこんなエピソードも残しています・・ある晩、洪庵は塾生たちのもとに大名から借りてきたという一冊の洋書を持ってきました・・本の値段は現在の価格で500万円以上、3日後には大名に返さないといけないと告げ、塾生達の部屋に置いて行きました。

そんな貴重なものをみすみす返してはもったいない・・塾生達は我がものにせんと2日間徹夜で写し取ったのです。・・そんな切磋琢磨の中、適塾からは、その後の日本医学の礎となる優れた成果が生まれて行きます。

安政4(1857)年 写真下は、洪庵が48歳で出版した日本で初めての病理学の事典 「扶氏経験遺訓」・・高熱など病の症状ごとに原因や治療法を科学的に解説したもので全国の医者達に引っ張りだこになり医療の近代化に貢献しました。

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洪庵たちがとりわけ功績を上げたのが天然痘の対策です・・天然痘は江戸時代に流行った伝染病で特に子供がかかりやすく多くが亡くなる恐ろしい病でした。

洪庵は西洋の医学で種痘という最新の予防法を知ります・・種痘は天然痘にかかった牛からワクチンを作りそれを接種して免疫を持たせ感染を防ぐもの・・当初、牛を使った種痘は人々に気味悪がられ接種は中々進みませんでした。

しかし洪庵は、命を救うものと粘り強く説得、4年間で6万人もの子供に接種し天然痘での死亡率を激減させたのです。・・洪庵は同じ手法を全国各地へと拡大、天然痘撲滅へと重要な役割を果たしました。

未熟だった日本の医学が近代化していった陰には、洪庵や適塾生たちの型にはまらない大胆な行動力があったんです。・・緒方洪庵が作った適塾からは3000人もの卒業生が巣立ったとも言われています・・その多くは明治維新の後も日本の医療の近代化を支えました。

福沢諭吉は、慶応義塾大学を作った事で有名ですが明治25(1892)年に私財を投じて日本初の伝染病研究所の設立に尽力、北里柴三郎によるペスト菌の発見など大きな成果を生みだしています。

そして現在、東日本大震災などで活躍している組織、日本赤十字社・・この日本赤十字社を設立したのも緒方洪庵の教え子、佐野常民です。・・佐野はヨーロッパで人道的な医療活動を行っていた赤十字社に注目し明治10(1877)年に日本に導入しました。

江戸で活躍した医者の手塚良仙・・この方、漫画家の手塚治虫の曽祖父に当たります・・自らも医師免許を持つ手塚治虫さんは、「ブラックジャック」などの医療漫画の傑作を生みだします。・・「陽だまりの樹」という作品では、手塚良仙と緒方洪庵の交流の様子も描いています。

適塾は、今、大人気の医療漫画のルーツとしても深く関わっていたんです。

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
episoge3 幕末のスーパードクターズ 緒方洪庵が闘った未知の病コレラ

コレラとはコレラ菌を原因とする伝染病で幕末の日本では不治の病、かかったらすぐにコロリと死んでしまうのでコロリと呼ばれていました。

コレラで江戸だけで24万人が死亡したと言われています。・・緒方洪庵も治療に立ち上がりますが原因も治療法もわからないコレラに対しての2カ月の戦いの記録です。

安政5(1858)年5月 幕末の日本でコレラが大流行するきっかけとなったのは、一隻のアメリカ船でした。長崎に上陸したコレラは次々と死者を出しながら北上、わずか1ヶ月で西日本一帯に広がりその後、被害は江戸にまで及びます。

大阪ではコレラで1日800人の死者が出たと言われています・・洪庵はすぐに治療に乗り出します・・しかしコレラの原因がコレラ菌だと判明するのは明治17(1884)年のこと当時、治療法はおろか原因すら不明、適塾の塾生からも死者が出てしまいます。

そんな中、長崎でコレラの治療法を見つけたと言う医者が現れます。長崎在住のオランダ人医師、ポンぺ・・当時の日本で最も尊敬を集める西洋人医師でした。

ポンぺがコレラの特効薬としたのがキニーネ、南米原産の樹木の皮から作られ主に感染症マラリアに用いられていたものでした・・ポンぺはキニーネコレラ患者に大量投与すれば回復すると主張、これに日本中の医者が飛びつきました。

洪庵もキニーネを入手してコレラの治療に用いてみましたがポンぺが言うような効果は認められませんでした。・・「キニーネは本当にコレラの特効薬なのか」 洪庵は疑いを持ちます。

しかし噂は独り歩きしキニーネの奪い合いが起こり在庫は無くなります・・これにより医療の現場では、「キニーネが尽きた もはや治療する事は出来ない 患者が死ぬのを傍観するしかない」 とキニーネが無くなった事により医者達が治療を諦めてしまう事態が起こったのです。

このままでは死者がいたずらに増えるだけだ・・しかし洪庵は実際に患者を診た経験からある事実に気づいていました。

 

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キニーネが無くとも米や麦の煮汁を飲ませるなど看護を諦めず続ければ回復する事もあると言う事でした・・洪庵はコレラの治療法を集めた対応マニュアル『虎狼痢治準』(ころりしじゅん)を緊急出版したのです。

この中で洪庵は、ポンペの説をとりあげキニーネのみに頼る治療法は不十分であると指摘しています・・その上で西洋の文献を夜を徹して調べ上げ、様々なコレラ対処法を全て掲載、自らの臨床経験を交えて紹介しました。

一つの説のみを信じ込むのではなく患者の容態に合わせて対応を工夫し決して治療を諦めるべきでないと訴えたのです。・・洪庵はこのマニュアルを書きあげるとただちに100部印刷し全国の医者たちに届けたのです。

ところがポンペを支持する医者(松本良順)から激しい抗議の手紙が届いたのです・・ポンペのキニーネによる治療法は正しく、それを否定する洪庵は間違っていると言うのです。

医者としての名誉がかかった場面、しかしこれに対して洪庵は、反論もせずマニュアルにこの抗議の手紙の内容を収録し、すぐに再出版したのです。

 

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洪庵は確実な治療法が見つかっていない以上、たとえ自分への批判であっても参考になりうる情報は全て届けようとしたのです。

安政5(1858)年秋 洪庵49歳、こうした治療を続けて2カ月、ついにコレラの流行は終息を迎えたのです・・大混乱の中、情報を届ける事を優先し全国の医師を支えた洪庵・・洪庵の示した知識により多くの患者が死を免れたと記録しています。

コレラ天然痘の対策で大きな功績を上げた洪庵・・緒方洪庵は当時最高の医者と広く知られるようになります。

文久2(1862)年 洪庵53歳の時、幕府から将軍徳川家茂などを診る奥医師に抜擢されます・・しかし洪庵は、「長年住み慣れた土地を離れるのは、はなはだ迷惑である」 と家族に手紙を書いています。

江戸に行くより住み慣れた大阪にいたいと愚痴っています・・地位や名誉に無欲だった洪庵の人柄がうかがえます。

奥医師を引き受けて江戸に移った後は将軍や篤姫などの診療の他、西洋医学の普及に努めます・・しかしそのわずか10カ月後・・

文久3(1863)年 緒方洪庵 死去 享年54・・最後まで医療に身を捧げた人生でした。

洪庵の医療に懸けた情熱は、現代のお医者さんにも受け継がれているのです。

大阪医療センターでは、洪庵の教えが医療に活かされています・・医者として歩み始めた研修医たちに最初に最初に手渡される研修医手帳・・手帳の初めには、洪庵の「扶氏医戒之略」と題された言葉があります。

 

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通称 『医戒』 と呼ばれるこの文章は、洪庵が尊敬するドイツの医者フーフェラントの書をもとに記したもの・・医者として決して忘れてはならないモラルを弟子達に諭したものです。

医の道は己のためにあらず
人のためのみ
出世や名誉を顧みず
自分を捨て
ただ人を救うことのみを
願いなさい

不治の病の患者に対しても
苦しみを和らげ
一日でも長く
その命を保つことに努めなさい
たとえ救う事ができない病であっても
患者の心を癒すのが
仁術というものです

学術に励むだけでなく
患者から信頼されるように
ならねばなりません
人々から命を
ゆだねられるに値する
誠実で温かい人間となりなさい

医療が未発達だった幕末、己を捨てどうしたら人々を救えるか問い続けた緒方洪庵・・その信念を込めた言葉は命と向き合う医師達の心を今もしっかりと支え続けています。