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逃げちゃだめだ ~逃亡者・桂小五郎 明治を開く~

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NHK歴史秘話ヒストリア
逃げちゃだめだ
~逃亡者・桂小五郎 明治を開く~

京都の東山、京都霊山護国神社の一角には、坂本龍馬中岡慎太郎高杉晋作桂小五郎など池田屋事件禁門の変など幕末に活躍した人他とのお墓が集まりその数、400近くにものぼります。

明治維新を目前として志なかばで命を落とした人々の慰霊のため明治の初めに作られました・・この墓を作ったのが桂小五郎です。

episod1 小五郎が「逃げの小五郎」になったワケ
天保4(1833)年 桂小五郎は武士では無く医者の家に生まれます・・その後、武士の家に養子に入った小五郎は、20歳の時に江戸へ剣術修行にでます。

入門した道場で小五郎は、人生を決定づける道場訓に出あいます。
武は戈を止むるの義なれば、少しも争心あるべからず「神道無念流 道場訓」より
「武」の文字は兵器の「戈」と「止」の二文字からなっている「武」とは兵器を使わないという事であり、争う心を決して持ってはならないというのです。

この道場訓に強い影響を受けた小五郎は、剣の腕では無く話合いで仲間の心を束ねる経験を積みやがて塾頭になります。

その頃(嘉永7(1854)年3月、日本を揺るがす大事件が起きます。黒船が来航し幕府は欧米の武力に屈して開国、弱腰の幕府に対して全国の藩から批判の声が上がります・・幕府の要人が暗殺(桜田門外の変)されるなど国内は混乱状態に陥って行きました。

文久2(1862)年 そんな中、長州藩は、温厚で人を上手くまとめる才能を見込み、30歳の小五郎を外交役に抜擢します。

「武力ではなく話合いで解決を図るべきだ」 小五郎は全国の藩に呼びかけともに幕府を説得しようと訴えます・・小五郎の人柄に動かされ7つの藩(対馬長門、周防、安芸、津和野、因幡備前)が次々と連合に加わりました。

文久3(1863)年 こうした実績が認められ、小五郎は藩主直属の要職に抜擢される異例の出世をとげます・・長州に桂小五郎ありと全国に名を知らしめることになりました。

ところがエリートに上りつめた小五郎の評価を一夜にして急落させる事件が起こります・・元冶元(1864)年6月5日、幕府方の新撰組長州藩士たちの斬り合いが起きた池田屋事件桂小五郎もこの集会の参加者でした・・その中で小五郎だけが難を逃れ生き残ったのです。

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この時の様子が書かれた記録が残っています。
桂小五郎、屋根伝いに逃げた」(乃美織江の手記より)・・小五郎は戦いのさ中、窓から脱出して逃げたというのす。

この事件で30人の仲間の命が奪われました・・一人生きのびた小五郎は、臆病者の汚名を背負う事になります。・・この事件は、やがて取り返しのつかない事態に発展します。

元冶元(1864)年7月19日 仲間を殺された事に怒りを高めた長州藩士たち3000人が京都に上ってきたのです・・迎え討つ薩摩藩会津藩からなる幕府軍、数万人と激突しました・・世に言う禁門の変です。

小五郎は藩の上役からただちに部下達の暴発を止めるよう言われます。小五郎にとって池田屋事件の失点を挽回するチャンス・・ところが・・「私は臆病者と思われているので仲間は自分の言う事なんて聞いてくれるわけがない行っても無理だ」(乃美織江の手記より)

すっかり自信を失っていた小五郎、なんと説得役を断り、そのまま行方をくらませます・・戦いによって上がった火の手は京都を焼き尽くします・・この騒乱で長州藩の有能な多くの(200名)藩士が死亡しました。

またも逃げ出してしまった小五郎は強く打ちのめされます。
「雪の消ゆるを見てもうらやましく、ともに消えたきここち致し候」(木戸松菊公遺芳集より)

■小五郎が真のリーダーとして目覚め、明治維新の英雄として成長する為には、まだ長い試練の時を必要としていました。

 

 

 

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NHK歴史秘話ヒストリア  

華やかな風情が漂う京都、幕末の京都で評判の美人芸子がいました。小五郎の恋人・幾松です・・この幾松とのラブロマンスが小五郎を立ち直らせ新しい時代の扉を開かせる事になります。

episode2 愛の湯けむり紀行

幾松は貧しい町人の家に生まれました。口減らしのため幼くして養女に出され苦労を重ねた後、京都で芸子の道を歩みます。

その美しさと巧みな舞から一躍評判になります。幾松が20歳の時に出会ったのが長州藩の外交役として京都に赴任した10歳年上の小五郎です・・幾松は、親身になって自分の境遇を案じてくれる小五郎に惹かれ二人は恋に落ちます。

小五郎は、禁門の変後、幕府から追われる身になっていました・・幾松は小五郎を我が身を犠牲にして助けます・・夜ごと潜伏先へ握り飯を届けたり、厳しい新撰組の追及にも最後まで口を割らなかったといいます。

しかし小五郎の姿が消えます。幾松は手掛かりを求めて一路長州へ向かいますが、そこにも小五郎の姿は無く、長州藩でも小五郎の行方を探していたのです。

そんな幾松の下へ、小五郎は、出石(兵庫県)へ潜伏しているらしいという情報が入ります・・幾松は自ら小五郎を捜索したいと長州藩へ名乗り出ます。

その旅は過酷なものでした。長州から出石までは600キロ、同行する案内人が旅費を博打に使いきり逃亡、幾松は一文無しになります。

しかし幾松は諦めません。身の回りの物を売って金を工面し、険しい山道を10日間かけて歩き通しました・・兵庫県の北部にある豊岡市出石町、街のあちこちで目にするのは、桂小五郎が潜伏していたとされる石碑です。

元治2(1865)年3月 長州を出て1ヶ月、幾松はやっとの思いで小五郎の潜伏先に辿りつきます・・しかし小五郎のそばには若い女性が・・いったい誰??

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この時の小五郎を記した文献には、小五郎は素性がばれないよう姿を変えて荒物屋を開きます。更に13歳になる地元の女性、八重子と結婚して町人になり済ましていたのです。

幾松は早速、長州で預かってきた手紙を小五郎に渡します・・当時、禁門の変で乱を起こした長州は、幕府の処罰を受け、近隣の藩からも見放されていました。

そこで長州藩は、かつて他藩と強い関係を築いていた小五郎が帰国して藩を立て直してほしいと望んでいました。
「国は人物を失っており、是非とも一日も早く、お帰りなるよう願い奉ります」(木戸孝允文庫より)

しかし、小五郎は帰ろうとする気配を見せません・・当時の小五郎の心境です。
「今さら何も言う事は無く、私が野に倒れ、山に倒れて死んでも別に残念な事とは思いません」(木戸松菊公遺芳集より)

小五郎は、池田屋事件で30人、禁門の変で200人以上の仲間を失い、自分一人が生き残ったという自責の念に苦しんでいたのです・・もはや生きる気力すら失いかけていたのです。

佛教大学教授 青山忠正さん
「あの頃の小五郎の気持と言うのは、客観的に見ると政治の世界から逃げようという感じがみえます。出石にいたとき商人に変装してるといいますが場合によっては商人になりきって出石で生涯を送ろうと気配も見えます」

頑なな小五郎の態度を見た幾松は、小五郎と妻八重子とともに城崎温泉に移り、話合いを続けます・・城崎にはこの時、3人が逗留したという宿が今も続いています。・・この宿で幾松は1ヶ月にわたって小五郎に長州に帰るよう説得したといわれています。

幾松の研究者 川崎泰市さん
「長州に帰る気持ちは、やはり幾松の話の内容で『あなたはこのような田舎でうずもれてしまう人じゃ無い』ともう一度、日本のため、長州のために立ち上がろうと心が動かされたんではないかと思います」

慶応元(1865)年4月 小五郎は、幾松とともに長州に帰る決断をします・・小五郎は、名前を木戸貫治と改め新たに生まれ変わったという決意を示しました。

幾松は、妻、八重子に一緒に行こうと誘います。しかし八重子は小五郎の決意を知り身を引いたのでした・・幾松の深い愛が小五郎の傷ついた心を癒し再び歴史の表舞台へと上らせたのです。

■幾松は明治維新の後、小五郎と正式に結婚します。結婚後、幾松が小五郎に出した手紙を紹介します。

■30歳になった幾松が明治政府の高官になって欧米視察に出かけた小五郎に送った手紙です。

「知らない他国のため、さぞや余計なご心痛をされているにではと、いろいろと案じて暮らしています。どうぞ、どうぞ貴方様には、なるべく心を安らかにされるようくれぐれもお願いいたします」

「どうぞ、どうぞ何かよいものがありましたら、たんと、たんと、たんと、たんと、たんと、お送りくださいませ」(明治5年 木戸松子書簡より)

 

 

 

 

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NHK歴史秘話ヒストリア
episode3 薩長同盟を生んだ大げんか

慶応元(1865)年4月 長州に復帰した小五郎は藩のトップとして迎えられます・・しかし当時の長州は最大の危機に直面していました。

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幕府の総攻撃が近づく中、武器弾薬は不足し、他藩からも見放された孤立無援の状態でした・・苦悩する小五郎の前に一人の若者が現れます。土佐藩の脱藩浪士、坂本龍馬です。

小五郎より2歳年下の竜馬は、長年平和的な思想で各藩の連合を訴えてきた小五郎に深く共感し、わざわざ会いに来たのです。

竜馬は故郷あての手紙で小五郎を絶賛しています・・「長州に人物無しといえども桂小五郎なる者あり」(坂本龍馬書簡より)

意気投合した二人は大胆な構想を考えます。最大の勢力を誇っていた薩摩藩を味方に付けようと言うのです・・この頃、薩摩藩は、もはや幕府には政権を運営する力が無いと見限っていました・・今後は各藩との連合を考えその相手を探していたのです。

しかし長州にとって薩摩との同盟は乗り越えなけれなならない大きな壁があったのです・・当時、長州藩士は草鞋の裏に『薩賊』(薩摩は悪者)と書いていました・・これを日々履いて踏みつけるほど薩摩藩を憎んでいたのです。

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薩摩藩禁門の変で戦った宿敵、200人以上の仲間を殺した決して許す事の出来ない敵でした・・小五郎は藩士たちを納得させるため長州側から出なく、薩摩側から同盟を乞うという形で調整を進めてゆきました。

慶応元(1865)年閏5月、長州の海の玄関口、下関で薩摩との会談が開かれる事になりました。小五郎と竜馬は薩摩側のリーダー西郷隆盛を待ちます・・ところが待てど暮らせど西郷は現れません・・西郷は長州との同盟を時期尚早とみたのか土壇場になって会談を取りやめたのです。

やはり薩摩は信用できない、長州藩士たちは、更に同盟反対の声を高め小五郎に詰め寄ります・・小五郎は一計を案じました。

龍馬をパイプ役として使い長州で不足している軍艦や武器を薩摩名義で海外から購入する・・薩摩で不足している米を長州が提供する。

小五郎は必要な物資を融通し合う関係を築くことで薩摩と長州の距離を縮めてゆきました・・その結果、今度は薩摩側から打診があり、再度会談が持たれる事になりました。

慶応2(1866)年1月8日、小五郎は京都の薩摩藩邸に入り、西郷と顔を合わせます。長州の藩士たちが納得する形で同盟を結ぶには、薩摩側から同盟を切りだす事が必要でした・・小五郎は西郷の言葉を待ちます。

ところが薩摩から同盟申し入れの言葉はいっこうに出てきません。西郷は今後の主導権争いをにらんで慎重な態度を崩さなかったのです。

両者は見合ったまま10日ばかりむなしく時間ばかりが過ぎてゆきました・・ついに痺れを切らした小五郎・・西郷との会談を打切り帰り仕度を始めてしまいます。

そのとき「桂さん逃げるんですか」交渉の場に遅れて到着した龍馬、記録によると会談の進展の無い事を知って龍馬は小五郎を強く責めたといいます。

「長州とか薩摩とか自分の藩のことだけを考えるのではなく日本の将来を考えるべきでしょう」(木戸孝允 自叙より)

龍馬は藩の面目にこだわる小五郎を責め真に日本の事を考えるならば長州の方から頭を下げても良いではないかと迫りました・・一般にこの龍馬のタンカが薩長同盟の道筋を開いたととらえられています。

しかし、その記録には続きがあります。小五郎は龍馬のタンカに怯むどころか堰を切ったように大反論をぶきまけ大喧嘩が始まっていたのです。

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「長州から同盟を申し出るくらいなら長州は滅んだ方が幸いである」(木戸孝允 自叙より)

小五郎の脳裏にあったのは、かつて自分一人が逃げ出し、見殺しにした仲間たちの存在、長州の方から頭を下げれば禁門の変で薩摩側に殺された仲間たちに顔向けできない、そうするぐらいなら逆に自分は藩とともに討ち死にしてやると決死のタンカを切ったのです。

小五郎の背負ってきた過去の重みを龍馬は受け止めます・・龍馬は西郷のもとへと走りました。そして小五郎の意志の固さを伝え西郷から同盟を乞うよう必死の説得を行います。

そして会談が再開されました。小五郎は開口一番、これまで抱えてきた薩摩へのわだかまりを激しくぶつけます・・それは側らにいた者が慌てるほどの強い口調だったと伝えられています。

佛教大学教授 青山忠正さん
「龍馬に向かって言ったと同じような自分たち長州は滅びてもかまわないのだ、そういう決意を西郷に向かって披歴した。本音でぶちまけた真剣さは、木戸の真心として西郷の心に届いたはずです」

小五郎の本音を知った西郷は一言「ごもっともでございます」(坂本龍馬関係文書より)、と口を開き小五郎の言葉を全て受け止めました。ここに薩長同盟が成立、巨大な反幕府勢力が誕生しました。

慶応3(1867)年10月14日、追いつめられた幕府は政権を朝廷に返上(大政奉還)、260年以上に及ぶ徳川の時代が終わりを告げたのです。

そして明治の世の始まりを目前にひかえていたその時、慶応3(1867)年11月15日、龍馬が京都で暗殺されたのです・・「痛悼の極みというべし」(松菊木戸公伝より)訃報を長州で聞いた小五郎は嘆き崩れたといいます。

京都東山にある龍馬の墓、この墓を作る事を呼びかけたのは小五郎でした・・自分の心をしっかり受け止めてくれた亡き友への感謝と日本の近代化への固い決意を小五郎はこの墓碑に込めました。

小五郎は明治維新後、木戸孝允と名前を改め新政府の要職に付きます。そして龍馬と約束した日本の近代化、たとえば身分制度の見直しや廃藩置県などを推し進めました。

一方で小五郎は幕末動乱のさ中、志半ばで命を落とした人々の存在も決して忘れる事はありませんでした・・小五郎は亡くなった仲間の子供たちに対して私費を投じて援助を行っています・・中にはヨーロッパに留学させた子供もいました。

小五郎の援助は長州藩と敵対した会津藩にも及びました。維新後におかれた会津の人々の厳しい立場を思いやり、土地や資金の面倒を見るよう新政府の伊藤博文に働きかけるなど救済に尽力しています。

こうした思いやりのある人柄だったからこそ、たとえ逃げ出すことがあってもみんなが着いて来たんですね。

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明治時代一枚の写真が世に出回り、飛ぶように売れます・・洋装の男性は木戸孝允こと桂小五郎、実はこれが日本第1号のブロマイド写真と言われています。

美男子というだけでなく、力強いリーダーシップで日本の近代化を推し進めた功績が人気を集めました。

小五郎は明治政府の要職について間もなく、京都霊山護国神社に志なかばで亡くなった仲間への祈りの場を建設したのです・・龍馬の墓を作った後、その周りに池田屋事件禁門の変で亡くなった400近い人々の墓碑を一つ一つ建てました・・それが今の霊山の祈りの場です。

霊山歴史館 学芸課長 木村幸比古さん
「追悼というものに対する彼の優しさ、ものの哀れというものを明治維新後の中できちっとそういう事業も展開しているのが小五郎の優しさです」

明治10(1877)年5月、様々な改革に取り組んでいたさ中、小五郎は体調を崩し京都の自宅で息を引き取ります。

小五郎 死去 享年45

「亡骸は京都の東山に埋めて欲しい」(木戸孝允日記より)その遺言により、自身が整備した霊山の一画に葬られました。・・ともに戦った同士に囲まれながら小五郎は静かに眠っています。

今、平和に戻った京都の街を見守りながら・・・