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友誼と律義の政治家 勝海舟・番外編

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友誼と律義の政治家 勝海舟・番外編 【東大教授・山内昌之

福沢諭吉に「痩我慢(やせがまん)の説」で散々にやられた勝海舟であったが、江戸っ子らしい気風の良さや徳川の忠臣だった点では人後に落ちない。

また、政治家に必要な義理堅さも相当なものだ。松浦玲氏の最新著『勝海舟西郷隆盛』(岩波新書)を読むと、この2人の友誼と信頼感の厚さが改めてしのばれる。

2人が最初に出会ったのは、元治元(1864)年9月、大坂の海舟の宿を西郷が訪れたときのことだ。西郷はすぐに勝の器量に心服し、国許の大久保一蔵(利通にあてて「ひどくほれ申候」と手紙を書いている。数えで勝は42歳、西郷は37歳であった。西郷は大久保に向かって、勝は実に驚き入る人物、どれだけ智略があるやら底知れぬ英雄肌合(はだあい)の人と称揚している。


現場なら…西郷ベタ褒め

面白いのは、佐久間象山と比較していることだ。学問と見識では象山が抜群である。しかし、現場に臨みては「勝先生」だというのだ。象山よりも一層できるとべた褒めなのである。松浦氏は、もともと西郷の象山評価も高いので、それを上回る海舟への褒め言葉は最大級のものだと指摘する。

氏の本を読み進めると、勝と西郷との個人的な友誼がなければ江戸無血開城がむずかしく、譲歩したことで西郷が新政府部内で苦しい立場に陥った状況も浮かび上がる。

松浦氏はそれとは書いていないが、江戸城明け渡し交渉で得をしたのは勝だったような気がする。勝はこれを生涯、西郷の徳としたのかもしれない。不遇になった西郷の晩年や死後の遺族に対する勝の好意には、全然無理なところがない。

とにかく、2人は俗にいう「ウマが合った」のだろう。西南戦争が起こると、西郷贔屓の勝には岩倉具視(ともみ)あたりから、鹿児島に行って収めてくれまいかと御馳走を受けたりもするが、全権をくれたら出かけてもよいとうそぶく。「どンな事をするか、知れませんよ」と脅すと、岩倉がギクっとするのがおかしい。大久保や木戸孝允でも免職させるかもしれぬ、と人を喰ったことを言うのはいかにも勝らしい。

とにかく西郷が好きな勝のもとには、薩軍に参加した父兄弟をもつ新納(にいろ)某なる人物はじめ多数の在京薩摩人がやってくる。彼らの無心に応じて気前よく金を貸与するが、徳川家から預かった金まで貸し出したのは、もし西郷が勝った暁には賭け金が倍になって戻ってくると当て込んだせいだろうか。だが、そこまで計算高いはずもなく、悲壮の極みにある薩人への素朴な同情心があったに違いない。

それにしても、新納なるいかにも薩摩藩の上級家臣らしい姓を名乗った男が、実は偽者で信州人だったというのもおかしい。鹿児島にしばらくいたというから、薩摩弁もどきを話して勝をたぶらかしたのだろう。もっとも勝ほどの男が真贋(しんがん)を見極められないはずもないという気もする。嘘を承知で勝が金を出したと考えるのも、彼の幕臣に対する鷹揚な接し方を見れば、まんざら荒唐無稽とばかりはいえまい。

勝は本当に西郷を好きだった。西郷が城山で自刃した明治10(1877)年にすぐ追悼集『亡友帖』の作成にとりかかり、翌年に発行している。まだ西郷を逆賊扱いする気分が強いときのことだ。勝は遠慮会釈せずに追悼集を出したが、この胆力には驚くほかない。

そのうえ明治12年には西郷の記念碑建立を思いたって、勝が管理する徳川家の屋敷のあった木下川(きねがわ)(現葛飾区)の浄光寺に留魂碑を建ててしまった。この度胸もたいしたものである。

この碑の表面は西郷が沖永良部島流罪になったときの詩で、勝が裏面に彫らせた文章のなかに西郷を思う有名な個所があるのだ。


嗚呼君能知我 而知君亦莫若我
「ああ君よく我を知れり、而(しか)して君を知る亦(また)我に若(し)くは莫(な)し」とは、何たる友情の発露であろうか。西郷の敵となった政府高官の薩人はもとより、日和見を決めこんだ薩人にとっても、西郷の記念碑をつくる資格や余裕はなかっただろう。だが、少なくとも英雄の死に忸怩(じくじ)たる思いがあったに違いない。そこで勝の出番となる。松浦氏のいうように、「独力で留魂碑を建てようとする海舟は、この自負を刻む資格があるだろう」とみるのは正しい。


一端しか伝えない福沢評

勝の西郷への律義さはまだ続く。伊藤博文などに働きかけて嫡子の西郷寅太郎を参内させ、海外留学に明治天皇の手許金を下賜させた。勝は寅太郎の婚礼にも出席し、西郷未亡人の糸子とも会って愉快な句を詠んでいる。


西郷の後家とはなすや夢のあと
そのうえ、明治31年師走に上野の西郷銅像の除幕式に出たあと、年が明けてまもなく1カ月たらずで海舟も西郷のもとに旅立った。もはや、ただの大往生ではない。激動の歴史で敵味方として交差した西郷との友誼を律義に果たした死には、後世のわれわれも学ぶべき点が多い。

やはり勝は只者ではない。福沢の勝評は事実の一端しか伝えていない。幽界で勝に感謝したはずの西郷の心持ちを思うとき、現代の政治家も祖父や曽祖父の代にはあったような、恩人や友人に感謝する心を忘れない律義さに思わず襟を正すかもしれない。

勝海舟西郷南洲との交誼に改めてスポットをあてた松浦氏も息の長い歴史家である。私は日本史専攻でなかったが、学生だった時分に、デビューしたばかりの松浦氏の著作にひかれて以来の読者である。また好きな氏の本が書棚に増えたことはうれしい。(やまうち まさゆき)