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長州征討・倒幕の胎動…幕末、危機が生んだ挙国一致

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NHK さかのぼり日本史
幕末、危機が生んだ挙国一致

慶応2年6月、幕府率いる大軍勢が長州藩と激闘を繰り広げました…長州征討です。幕府の開国政策を批判し、過激な攘夷運動を進める長州藩、その制圧は幕府の威信関わるものでした。

しかし、幕府は戦う前から問題を抱えていました。動員をかけた諸藩が次々と出兵を拒否したのです。…「大義のない命令には従えない」…結局幕府軍は、長州に惨敗を喫します。

幕末維新史を研究する東京大学大学院教授 三谷博さんは、この戦いを機に幕府の力が決定的に失われたと考えています。


長州征討・倒幕の胎動
Q:長州征討はなぜ失敗したのでしょうか?
東京大学大学院教授 三谷博さん
「元々、幕府というのは全国二百数十の大名を取りまとめる立場にありました…幕府の全国統治の力というのは、武威、武力、軍事力に依存していたので、それが無いという事が知れてしまったら誰も付いてこなくなったのです」

「でも、この長州征討にいたる過程を見ますと必ずしも長州を攻める必要ではなかったのです。幕府にも権威を回復する可能性はあった…しかし、残念ながら自らそれを潰してしまったのです」

ペリー来航以来、幕府は開国政策を進めてきました。しかし、安政5(1858)年、幕府が独断でアメリカと通商条約を結ぶと諸藩の批判が急速に高まります。…天皇の勅許を得ていない事が問題とされたのです。

特に激しく幕府と対立したのが長州藩でした…長州藩尊王思想と外国人排斥を訴える、尊王攘夷運動の急先鋒でした。

文久3(1863)年5月、長州藩は下関を通行する外国船を砲撃、更に朝廷の実力者と結び、朝廷の権威で攘夷の実行を迫りました。…時の孝明天皇は、攘夷を支持していましたが長州藩の行きすぎた行動を危険視するようになります。

8月、孝明天皇は、長州藩士を京都から追放し、長州藩に味方した公家を参内禁止とします。…この後、京都で新しい政治体制が作られます。

元冶元(1864)年1月、幕府代表の徳川慶喜薩摩藩会津藩、土佐・宇和島・福井などの有力藩が朝廷の下で国政を議論する参与会議です。…この会議に有力藩を参加させる事で慶喜は、京都の治安維持と幕府の支持回復を狙っていました。

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ところが会議は、開国政策をめぐって対立します。薩摩藩土佐藩は幕府の開国政策を支持していました…しかし慶喜は、これまでの幕府の方針を翻し、開港した横浜港を再び閉鎖する攘夷策を示したのです。

これによって慶喜は、攘夷を求める孝明天皇の関心をかい、天皇から幕府に政治の一任を取り付ける事に成功します。背景には諸藩の政治参加を嫌い、幕府専制を強く求める江戸の老中たちの意向が強くあったのです。

慶喜の態度に失望した参与たちは、次々と辞職、参与会議は2カ月余りで崩壊しました。…幕府と諸大名の間に亀裂が走る中、長州征討の問題が持ち上がってきます。

元治元(1864)年7月、長州藩は兵1500を率いて上京、京都での勢力回復を目指して御所に迫りました…この動きを御所の警備を担当していた会津藩薩摩藩が撃退します。…禁門の変です。

幕府は朝敵とされた長州の追討令を発布、15万の兵を動員して長州を目指しました。…長州藩は3人の家老を切腹させ、幕府に恭順の姿勢を示します。…これを受け、前線にいた征討軍総督と参謀の西郷隆盛は、長州を攻撃せずに穏便な処分を下しました。

ところが翌年、江戸から将軍と老中たちが上京してくると事態は一変します…老中たちは長州藩に再び反抗する動きがあるとて再度の征討を主張したのです。…一度処分した長州を再び攻めるのを諸藩は反対しました。

「もし戦となれば、天下が乱れる発端となるのは明白である」(薩摩藩 島津久光

「このような大事は、大名たちの意見も聞いて決めるべきである」(福井藩 松平慶永

慶応元(1865)年9月、幕府は、天皇の勅許を得て再び長州征討を決定します。…各藩には再度、幕府から動員がかけられました。

一方、長州では藩の方針に大きな変化がありました。高杉晋作らが主導権を握り、幕府に徹底抗戦する方針を固めたのです。

慶応2(1866)年1月、更に長州藩は、幕府に失望した薩摩藩と密かに同盟を結び協力をとりつけました…薩長同盟です。…薩摩の協力で最新の武器を購入した長州は、藩をあげて幕府軍を迎え討とうとしていました。

各藩の反対を押し切って長州を再び討つ事を決めた幕府ですが戦闘は、幕府の思惑とはまったく逆の展開を見せていきます。

慶応2(1866)年4月、再度の長州征討が始まろうとする直前に思わぬ事態が起こりました…薩摩藩が出兵を拒否したのです。…「大義のない命令には従えない」(忠義公史料)、薩摩藩に続き広島藩も出兵を辞退、幕府の征討計画は、大きな変更をしいられます。

慶応2(1866)年6月7日、作戦を練り直した幕府は、4方面から長州に攻撃を開始しました。…戦局を左右する最大の焦点が北九州の小倉でした…小倉は関門海峡を望む海運の要衝で譜代大名小倉藩が治めていました。

小倉の守りを固めるため、幕府は周辺の熊本藩久留米藩など諸藩の兵を動員します。…更に幕府は、当時最大の軍艦・富士山丸を小倉に配備、長州征討を強く主張した老中・小笠原長行がその指揮に当たりました。

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上記は、小倉での戦いを描いた絵図です…6月17日、長州軍は関門海峡を船で渡り、小倉の北に上陸、海岸沿いに南下します。迎え討つ小倉軍は、長州軍に圧倒され、ジリジリと後退しました。

海上から長州軍を攻撃するはずの幕府の軍艦は、激戦地から遠く離れ、中々加勢しようとしません…小倉藩の記録にその理由が記されています…「幕府の軍艦は、敵の砲弾を恐れて、一発撃っては直ぐに遠くへ退いてしまう」。

慶応2(1866)年7月20日幕府軍に追い討ちをかける事態が起きます…指揮をとる将軍・徳川家茂の死です。…7月30日、報せを受けた老中の小笠原は、密かに軍艦で大阪へと脱出しました。

これを知った熊本藩久留米藩の軍も国元へ帰ってしまいます。…孤立無援となった小倉城は落城、家茂に代わって指揮をとっていた徳川慶喜は戦闘続行を断念、長州征討は失敗に終わりました。

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上記画像は、征討の翌年に小倉藩が残した記録です。…小倉藩が幕府の命令で領地の一部を隣の中津藩と交換した事を記しています。

この記録の行間に朱色で文章が綴られています…長州との戦いに惨敗しても尚、高圧的な幕府の姿勢に役人が反発して書いたものと言われています。

「長州征討では、長州藩小倉藩の私闘のようになった…しかし、その時、幕府は何もしてくれなかった…密かにお怨みもうしあげている」…幕府に味方していた藩の中でも既に幕府の威光は地に落ちていました。

東京大学大学院教授 三谷博さん
「長州征討の失敗は、満天下の大名が幕府を見限るキッカケになったと思います…この敗北で幕府の権威はガタ落ちになりました…幕府の全国統治の力は、軍事力ですから、それが無いと知らしめられてしまったわけです…もう誰もついてきません」

徳川家康~家光の幕府初期の頃は、多数派工作など大名にかなり気を使ったのです…しかし、100年もたちますと徳川の『ご威光』が制度化されて大名たちは、幕府の指示に無条件で従うという思い込みが幕府内で出来てしまったのです…それが権威が落ちた後も通用すると思い込んでいた…そこに失敗があったのです」

幕府はなぜ力を失ってしまったのか…それは、幕府が諸大名や庶民の支持を失っている事に気づかずに長州征討を強行し、失敗した事に有ります。

更にその原因をたどっていきますと、そもそも幕府が独自に政治を行えなくなるほど力が衰えていたのです。