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維新の原点 ペリー来航…危機が生んだ挙国一致

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NHK さかのぼり日本史
幕末・危機が生んだ挙国一致 維新の原点 ペリー来航

東京大学大学院教授 三谷博さん
「江戸時代の日本は、幕府と藩からなる連邦国家でした。多くの人は、国というと藩の事を思い浮かべていました…ペリーの来航から日本全体が西欧からの侵略の危機に晒されているという意識が生まれました。そして挙国一致で当たらねばならないという考えが日本中に広がっていったのです」

19世紀、産業革命によって工業化を果たした欧米列強は、植民地の獲得を図りアジアに進出しました…列強の軍事力を支えたのが蒸気船でした。…蒸気船は、風に頼らず進め、大量の武器や兵士を運べる強力な軍艦になりました。

天保13(1842)年、当時世界最強の海軍を誇っていたイギリスが中国・清とのアヘン戦争に勝利、清に拠点を築き、更に東への進出を狙っていました。

その10年後、列強の矛先は直接日本へと向けられます。先陣を切ったのはイギリスではなく、当時太平洋航路の開発を進めていたアメリカでした。…日本遠征の立案者は、アメリ東インド隊司令長官 マシュー・カルブレイス・ペリーです。

嘉永5(1852)年11月、ペリーは、蒸気船の軍艦に乗ってアメリカを出発します…実は、ペリーの動きは事前に幕府に伝えられていました。

長崎のオランダ商官長が西洋の情勢を報告した『別段風説書』です。…「北アメリカのプレジデントの国書を持った艦隊が来る。交易のため港を開く事を求めてくる…艦隊は蒸気船の軍艦である」…幕府に警戒を怠らぬように呼びかけています。

この時、老中首座として幕府の政治を主導していたのが阿部正弘でした…報告に危機感を抱いた阿部は、直ちに江戸湾を始め海岸線の防備を主張しました…しかし勘定方に莫大な予算がかかると反対され、実現にはいたりません。

 

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それでも老中・阿部は、海岸防備を進めようと大胆な手を打ちます。薩摩藩佐賀藩彦根藩などに『別段風説書』の写しを送り、幕府に代わって長崎や江戸湾の防備を依頼したのです。…それでこれまで禁止していた大型船の製造も認めました。

こうしてペリー来航は諸大名を巻き込んだ全国的な問題となって行きます。

東京大学大学院教授 三谷博さん
「ペリーが日本を目指した狙いは、アメリカの膨張主義政策があります。メキシコと戦争してカルフォルニアを手に入れ、北アメリカの大部分を手に入れる…太平洋の向こうには中国がいます。アヘン戦争の後に太平洋横断航路を作って中国貿易を大いに盛んにしようというアイデアが起こったのです」

「太平洋の横断には蒸気船を使います…大量の石炭が必要、そこで日本には石炭がある…港を開かせようと言う事になったのです」

 

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嘉永6(1853)年6月3日、江戸湾浦賀沖に黒船4隻を率いたペリーが来航しました…ペリーは大統領の国書を最高位の人に渡したいと浦賀奉行に迫ります。

奉行は、そのような要求は受け入れられない、長崎に回るようにといい渡します…しかし、ペリーはあくまでこの地で国書を渡す、その為には武力も持さないと強い態度を示します。

ペリー来航は、その日の深夜には江戸に伝えられます…阿部から浦賀奉行への指示は、「争いを避け、なるべく穏便に出向させよ」というものでした。…しかし、老中・阿部の指示とは裏腹に黒船は浦賀沖に停泊し続けます。

嘉永6(1853)年6月6日、幕府を震撼させる出来事が起こります…ペリーの艦隊が制止を無視して江戸湾奥の横浜沖まで侵入したのです。この動きに幕府は、黒船が江戸まで来るかもしれないと警戒を強めます。

ついに阿部は、受け取りを拒絶すればどのような不法に及ぶか分からないとして国書の受け取りを決定しました。…6月9日、ペリーは上陸し、浦賀奉行に大統領の国書を渡しました。

「大統領は、日本との和親を希望し、アメリカ船員の保護や石炭、食料の確保のため港を開く事を要求する」(『合衆国書簡和解』より)…更に通商の利を説いて日本と通商条約を結びたいとしました。…ペリーは、回答を受け取るため、また来ると言い残して浦賀を離れました。

ペリーの再来日に備えて老中・阿部は江戸湾の防備を固めます…品川沖に台場を作り、諸藩に警備を命じました。…台場には120門の大砲が配備されました。

更に阿部は、大胆な政策を打ち出します…アメリカ大統領の国書の写しを全国の大名に配布し、大名とその家臣たちにこう通達しました。

 

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「これは国家の一大事であるから、たとえ禁忌に触れる事でも率直な意見を述べてほしい」(『阿部正弘事蹟』より)

阿部の呼びかけに応じて全国から700通以上の意見が出されました…「大統領の国書は、日本を軽蔑している追い払うべし」、「3年から5年、試しに港を開いたらどうか」。

旗本の勝海舟は、「国を開き貿易で富を蓄え、軍艦を作るべき」という意見。…水戸藩徳川斉昭は、「戦いも辞さない覚悟を決め全国に団結を呼びかけるべきだ」と主張。

幕府への建白は、無事だけでなく庶民にまで広がります…吉原で働く町人からは、「まず異国人の喜ぶ品を持参して宴会を開きます。隙を見て包丁で彼らを片っ端から切り落として火薬に火を付け燃やしてしまいます」…チョット物騒ですね。

様々な意見が寄せられましたが結局幕府は、回答を引き延ばしてペリーが諦めるのを待つという消極的な作戦で臨みます。

嘉永7(1854)年1月16日、ペリーが再び姿を表わしました…今回は、前回より多い7隻の軍艦を率いています。…しかも浦賀より、更に近い横浜に上陸しました。

 

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阿部は、ペリーの軍事的威圧の前に引き延ばし策は通用しないと判断、2月10日、横浜で条約締結に向けた交渉が始まります。

日本はアメリカの求めに応じて港を開き、石炭や食料を供与する事には同意しましたが通商には応じませんでした。ペリーは、ひとまず日本の開国案を評価し、強硬に通商を求める事はしませんでした。

嘉永7(1854)年3月3日、こうして幕府は、日米和親条約を締結したのです…200年以上続いた政策を転換し、開国に踏み切ったのです。

東京大学大学院教授 三谷博さん
「老中・安倍が諸大名に広く意見を求めたのは、前代未聞の事でした…ひとつは、幕府外の人にも身分の低い人にも、今は日本は危機にあるのだと自覚させて結束を図るという意味があったんです。しかし意見を聞くということは、幕府の権威を損なう非常に危険な行為でもあったのです」

「それでも阿部は、あえて意見を聞いたのです…何故かというと、当時は、幕府と個々の藩が別々に生きてきましたが、海防の問題が生じ、1つにまとまる必要が出てきたからです」

危機に対処するには、国民が危機感を共有するよいうことから始めなければなりません。実際にペリー来航で危機が現前したとき、誰の目にも分かるようになったとき、社会を変えていこうというエネルギーが内部から出てきたわけです。