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相棒はおまえだけ~西郷隆盛と山岡鉄舟 明治をつくった熱い絆

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山岡鉄舟(1836年~1888年

NHK 歴史秘話ヒストリア
相棒はおまえだけ~西郷隆盛山岡鉄舟 明治をつくった熱い絆

慶應4(1868)年3月、幕末…京都から攻めのぼってきた倒幕軍は、徳川幕府の本拠、江戸への総攻撃を決定、江戸は火の海になろうとしていました。

この大ピンチを防いだのが幕府側の勝海舟と倒幕軍の西郷隆盛による話合いだったと言われております…実は、この陰で大きな役割を果たした一人の侍がいました…山岡鉄舟です。

倒幕派のリーダー西郷は、海舟との会談の前に鉄舟と出合い、その並々ならぬ覚悟に大きく心を動かされたのです。…西郷と鉄舟、歴史を変えた二人の男の知られざる物語です。

 

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episode 1
江戸を救ったヒーローの悲しき青春時代

文政10(1827)年、西郷隆盛薩摩藩、現在の鹿児島県に生まれました…父は、藩に10ある階級の下から2番目にあたる下級役人でした。

 

その為、西郷家では寒い冬でも兄弟姉妹で一つの布団を取り合う貧しい暮らしだったといいます。…西郷は18歳で藩の役職に就くものの給料は低く、先祖伝来の家を売り払ってしのぐありさまでした。


天保7(1836)年、西郷に遅れること9年、山岡鉄舟は江戸の旗本の家に生まれます…しかし、10代で両親を相次いで亡くし、幼い弟たちを抱え、こちらも貧しさに喘いでいました。

20歳の時、別の旗本の家に婿入りしたものの役職もなく、収入はほぼゼロ…当時の鉄舟夫妻の暮らしは、なんと一ヶ月の半分は食事なし。

ある時、友人が家を訪ねると奥さんが襖から顔だけ出して応対しました…着物が一枚しかないので洗濯中は裸で過ごしていたのです。…畳も殆ど売り払ってしまったとか…ついたあだ名が襤褸鉄(ぼろてつ)。

しかし、そんな貧乏な鉄舟にも誇れるものがありました…剣術です。なんと1日200試合こなしたことも3分に一人と戦ったとしても10時間もかかります…それでも飽き足らず江戸中の道場に飛び込み、手当たり次第、試合を申し込に日々…ここで付いたあだ名が鬼鉄。

ところが…鉄舟の剣の腕を聞いて集まってきたのは、力で世の中を変えてやると意気込む若者たち…これが鉄舟を窮地に追い込みます。

若者たちの過激な行動の責任を問われる事になったのです…文久3(1863)年、この時、山岡鉄舟28歳、剣術で鍛えた心と体を活かす事も出来ず、時代とは全く無縁のもんもんとした日々を送っていました。


一方、鹿児島の西郷もじれったい思いと向き合っていました…年貢を徴収する係りとなった西郷が目にしたものは、農民から賄賂を受け取ったり、年貢を割り増しで取って私腹を肥やす同僚たちの姿でした。

「賄賂を横行させるような役人たちがいては、農民が育つことなどありえない」…そして同僚の腐敗を告発する上申書を書き、何度も何度も藩に提出しました。

こうした行為が煙たがられてか10年間、昇給ゼロの窓際族扱い…更に相手が誰であろうとも正しいと思えばぶつかっていく西郷は、ついには藩の権力者、島津久光をも怒らせてしまいます。

その結果は、なんと牢屋暮らし、場所は現在の鹿児島市から500キロも離れた沖永良部島…貧乏、窓際族のあげく、島流しの罪人となってしまったのです。


嘉永6(1853)年、浦賀沖にアメリカ海軍東インド艦隊「黒船」出現…アメリカは開国、通商を要求…幕府は混乱します。

そんな幕府に見方をするのか、幕府を倒して政権を握るのか、有力な藩では議論が沸騰…薩摩藩もこの混乱を乗り切る事が急務でした。

元冶元(1864)年 西郷38歳、その結果、頑固者だが筋の通った意見の持ち主、西郷が島から呼び戻され、藩の重役に抜擢されます。

この頃、江戸の鉄舟は、剣術に励みながら、禅の修行にも打ち込み日本の情勢を静かに見つめていました。

「幕府を倒すだの、幕府を助けるだのと言っている時期ではない…一致団結して国の危機に対応すべきである」(鉄舟の弟子の回想録より)


慶應4(1868)年1月、薩摩藩を中心とした倒幕軍は、天皇を擁し、幕府軍と京都の南で激突します…鳥羽伏見の戦いです。

この時の倒幕軍の実質的なリーダーは、西郷でした…天皇の権威を利用した西郷の作戦によって倒幕軍は勝利を収めます。

 

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この時、大阪で幕府軍を率いていた徳川慶喜は、江戸へと逃げ戻りました…それを追って西郷率いる倒幕軍は進撃を開始、…そして江戸総攻撃は、3月15日と決定します。

江戸が火の海になる…誰もが絶望する中、立ち上がった無名の侍がいます。…山岡鉄舟、江戸の命運がこの男に託されようとしていたのです。

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
相棒はおまえだけ~西郷隆盛山岡鉄舟 明治をつくった熱い絆

episode 2
鉄舟の証言ドキュメント
江戸を火の海から守れ!
東京台東区全生庵山岡鉄舟が建立したお寺です…ここには鉄舟が幕末の自らの行動を振り返って書き残した記録が保管されています。…そこには敵地に乗り込んだ鉄舟と西郷の息詰まる対決が克明に記されていたのです。

慶應4(1868)年3月5日、西郷率いる倒幕軍は、天皇の権威を押し立てながら駿府、今の静岡市にまで到達していました。…江戸総攻撃まであと10日。

徳川慶喜は、恭順、すなわち倒幕軍に抵抗せず従う事を決意、…これを伝える使者を再三、倒幕軍に送りますが倒幕軍は無視、進軍を続けていました。

「あの時、倒幕軍と徳川の関係は途絶えていた。徳川の主だったものたちは、なすすべがなく日々焦心にかられ苦慮するばかりふだった。そんな時、俺は慶喜様に会った」(鉄舟の回想録より)

慶應4(1868)年 鉄舟33歳、必ず恭順の意を伝えてくれる人物として慶喜が選んだのが当時、慶喜の護衛をしていた鉄舟でした。…鉄舟は大役を引き受ける前に慶喜に一つだけ確認したい事がありました。

未だ戦力を残す幕府が偽りの恭順で倒幕軍を罠にかけるのではないかと確認したのです…慶喜は、「偽りはない朝命(天皇の命令)に背かないのは本心である」(鉄舟の回想録より)

慶喜は絶対に騙し打ちはしないが朝敵という汚名を着せられて悔しいと涙します。…それに対し鉄舟は、「なぜそのような弱気でつまらぬ事を言われるのでしょう」…敗軍の将であっても毅然としろとばかり慶喜を一喝、幕府を思う命がけの交渉を決意した瞬間でした。

鉄舟は一旦家に帰るとご飯を猛烈な勢いで掻きこみました…そしていつもと同じように妻に一言、「チョット出てくる」…妻との今生の別れとなる大仕事に向かうとは言わなかったのです。

「俺は西郷のいる駿府に急いだ…川崎の辺りですでに幕府軍の先方隊が到達し、左右に銃を持った兵隊が並んでいた」…鉄舟は悠然と真っ只中を進んで行ったのです。…そのあまりにも堂々とした態度に誰も鉄舟を怪しむ者はいなかったといいます。

間もなく駿府にたどり着く直前に思わぬ大ピンチが鉄舟を襲います…倒幕軍の兵が鉄舟を怪しんで発砲し、追いかけてきたのです。…民家に駆け込み地下室を通って海にのがれ、そのまま舟で駿府に入るという危うい目にも遭っています。


西郷と鉄舟
鉄舟が語る江戸総攻撃

4日間、ひたすら進み続け、ようやく駿府に着いた鉄舟は、西郷に早速面会を求めます…鉄舟は無名の下級役人、まったく相手にされず門前払いされる恐れもありました。

しかし西郷は、逃れようもない運命に導かれるように姿を現しました…交渉は鉄舟が口火を切りました。…この時の会話を鉄舟は、こう記しています。

鉄舟:「西郷先生、主の徳川慶喜は恭順の意を込め謹慎しております。先生は戦いのみを望まれ、是も非もなく人を殺そうとされるのですか、まず戦う事が正しいかどうかを明らかにすべきでしょう」

あたかも、迷いもなく真剣勝負をするかのように、迷いもなくぶつかってきた鉄舟に西郷は、誠実さを感じました。

西郷:「これまで徳川家から使者の方が来られたが、皆ただ畏れかしこまるばかりで一向に筋道が見えませんでした…山岡先生が来られたおかげで江戸の事情が良くわかりました」

そこで西郷は、攻撃を中止する為の条件を示しました。
一、江戸城を明け渡すこと
一、江戸城にいる人々を移動させること
一、武器を渡すこと
一、軍艦を渡すこと
一、徳川慶喜岡山藩に預けること

これらを飲まねば江戸が火の海となります。…ところが鉄舟は、最後の一カ条について真っ直ぐな思いを突きつけます。

慶喜を幕府と敵対する岡山藩に預けることは危険であるり、承服できないと反論したのです。…しかし、西郷も譲りません。

西郷:「されど朝命せごあす」
鉄舟:「たとえ朝命であるとも断じて承服しかねる」

鉄舟は屈しませんでした…それどころか西郷に、もしも貴方が同じ立場であったら、忠誠を誓った主君、島津公を黙って差し出すのかと問いただします。…すると

西郷:「山岡先生の説もっともでごあす」

西郷は、この条件を撤回、そして慶喜の身の安全については、自分が責任を持つとまで言い切ったのです。…息詰まる議論が終わると西郷は、命を賭けて交渉にやってきた鉄舟を酒に誘いました。

実は、西郷自身、出来る事なら大勢の人が犠牲になる江戸総攻撃は避けたいと思っていたのです…時代の曲がり角で二人は、大きく響きあったのです。

西郷と勝海舟による話合いで、江戸総攻撃は正式に中止となったのです…こうしてほぼ西郷と鉄舟が交わした条件で和平は成立します。…この会談は西郷にとって敵地の江戸で行われたため、鉄舟は、会談の間中、西郷の警護にあたりました。

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鉄舟は、この時の心境を記しています。「不慮の事態が起こった時は、西郷とともに死ぬ覚悟であった」(鉄舟の回想録より)

西郷と鉄舟、二人の思いが重なる高見には、明治という新しい時代が待っていました。

 

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
相棒はおまえだけ~西郷隆盛山岡鉄舟 明治をつくった熱い絆

episode 3
さらば相棒、湯けむりの友情秘話
明治に入り、西郷たち明治政府は、廃藩置県、四民平等など、今の教科書にも太字で書かれている大改革を次々と打ち出していきました。

中でも西郷が重要視したのが当時20歳の青年だった明治天皇を強いリーダーとして育成することでした。

中央大学教授(歴史学) 松尾正人さん
天皇を前面に出しながら近代化を進めていく形になると、宮中にいる従来の天皇ではなくて、国家の元首としての姿が問われてくる…古いしきたりではない新しい天皇にしていかなければならないのです」

西郷たちは、宮中で公家や女官に囲まれて暮らしていた明治天皇に政治の表舞台に立ってもらおうと奮闘します。

しかし、天皇の業務について「午前10時から午後4時まで執務室で政治を行うように」としただけで宮中の女官たちは、しきたりに反すると猛反対、西郷は制度や伝統に縛られない人間が宮中に入る必要性を実感します。

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明治5(1872)年 西郷46歳、鉄舟37歳…当時、剣の修行に明け暮れていた鉄舟の元に西郷が現れます…そして鉄舟に若き天皇の教育係として宮中に入ってほしいと頭を下げました。

鉄舟という男は、どんな相手にも媚びへつらわず、堂々と正しいと思う事を実行できる…西郷はそんな相棒の力に賭けたのです。

明治5(1872)年6月、鉄舟は正式に明治天皇の侍従に任命され宮中に入ります…西郷の期待にこたえた鉄舟の遠慮のない教育は、数々の逸話となって伝わっています。

酒好きで力の強い明治天皇、酔うと力任せに相撲をとるので周囲は生傷が絶えませんでした…明治天皇は鉄舟にも飛びかかります。身をひらりとかわした鉄舟は天皇をがっちりと押さえつけ、これまでの乱暴な振る舞いをこんこんとお説教、そして、ぷいと自宅に帰ってしまいました。

天皇に対する前代未聞の行為に周囲は大騒ぎ、しかし明治天皇は、酒も相撲も止めるから戻ってきてくれと潔く反省し、鉄舟を呼び戻したと言われています。

鉄舟が勇気の大事さを身を持って示した事もありました…天皇を守る近衛兵たちが武装蜂起するという事件が起こります。鉄舟は誰よりも早く天皇の寝室に駆けつけました。…そして騒ぎの間中、つきっきりで護衛したのです。

その時、鉄舟が携えていたサーベルです…これ以後、明治天皇は、このサーベルを鉄舟から譲り受け寝室に置き続けました。

「この刀があれば朕は山岡と共にいる心地して心強く思う」(鉄舟の弟子の回想録より)

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この頃のとある昼下がり、西郷が一人、酒瓶を下げて鉄舟を訪ねてきました…いつもの、そして困った時の相棒との杯、二人は大いにくつろぎながら奇妙な会話をしたと伝えられています。

西郷:「日本の国は、まだ寒い…少し熱をかけましょう」
鉄舟:「お考えの通り、外部を温めんとすれば、まず自らででござる」

二人は自分たちにしかわからない言葉で、日本の行く末を語らっていたのだと言われています。…実はこの頃、政府のかじ取りをしていた西郷の周囲には暗雲が垂れこみ始めていました。

隣国、朝鮮との外交問題征韓論)をめぐって派閥争いが巻き起こっていたのです…明治6(1873)年11月、政府内の権力抗争に絶望した西郷は、故郷、鹿児島へ帰ったのです。

事態を憂慮した明治天皇は、鉄舟を呼び出します…自分にとっても大切な存在である西郷を連れ戻してほしいと頼んだのです。

明治7(1874)年4月 西郷48歳、鉄舟39歳…鉄舟は西郷の千切れた糸を手繰り寄せようと鹿児島を訪れます。…この時、二人が何を語り合ったのか記録には残っていません。

鉄舟は、西郷が政府に戻る気がない事を気付いていたといわれています…これが心から通じ合えた相棒との永久の別れとなりました。

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明治10(1877)年、西南戦争勃発、西郷は明治政府に不満を持つ本武士、3万を率い政府を糾弾するとして闘いました。…激しい戦いは半年に及び日本史上最大の内戦とも言われています…戦いに敗れた西郷は、壮絶な最期を遂げます。

明治10(1877)年 西郷隆盛 死去(享年51)

明治21(1888)年、それから11年後 山岡鉄舟 死去(享年53)…胃癌に蝕まれながらも座禅を組み心静かに迎えた臨終でした。

明治天皇は、鉄舟の死を惜しみ自ら葬列を見送ったと言われています。

鉄舟は幕末の頃の自分についてあまり語らなかったため、江戸総攻撃を巡る西郷とのやり取りも、当時はほとんど知られていませんでした。

そうした中、明治政府の大物、井上馨が鉄舟の家にやって来ます…幕末における鉄舟の功績を称え、勲章を授与するためでした。

その名誉を鉄舟がありがたく頂いたかと言うと…「そんなものはいらん」と突き返します。…そして一言、「維新の大業は、俺と西郷と二人でやったのだ」西郷を差し置いて自分だけ勲章をもらう事は出来ない…鉄舟はそう考えたのでしょう。

当時、西郷は西南戦争天皇に反旗をひるがえした反逆者の烙印を押されていました…相棒の西郷が正当に評価されていない事もやるせなかったのです。