田原総一朗の仰天歴史塾 日本のリーダー列伝
田原総一朗…
『日本はアメリカのペリーが4隻の軍艦を率いてやって来て、無理やり開国させられた…遅れに遅れてです。…当時は、帝国主義の時代で日本が植民地にされてもおかしくなかった。
ところが日本は列強に互して5大国になった…発展した…これは奇跡に近いというか奇跡です。…何でこんなことが出来たのかこの事を考えていきたいと思います。
江戸時代を終わらせた男たちがいる…西郷隆盛、倒幕運動の指導者として政府軍を指揮し、江戸城を無血開城させた…人望厚く、正義感にあふれ、自らの道徳観に基づいて行動し続けた。
大久保利通、強靭な意志と権力への執着心、全てを用意周到に画策し、くじける事無くやり遂げた…心に決めた目的のためなら手段を選ばなかった。
明治維新の立役者、西郷隆盛と大久保利通、鹿児島に生まれ、この国のあり様を考え、クーデターで日本を変えた…そんな二人の知られざる物語。
西郷隆盛と島津斉彬
西郷も大久保も薩摩藩の下級武士で同じ町内、下加治屋町で育ちました…西郷は大久保より2歳年上。
西郷は藩主、島津斉彬に可愛がられてました…列強諸国が開国を迫る中、二人は国のとるべき道をどう考えていたのか田原総一朗は、専門家に話を聞いた。
東京大学名誉教授(近代日本史) 坂野潤治
「西郷は、開国か鎖国かは、棚上げにしようと…関心が無かった。…勝海舟も言ってますが開国(平和)するか攘夷(戦争)かを国是として決める国は無いといっています…戦争か和平かなんて決められるわけがない…時が解決するのを待つが西郷隆盛の路線です」
大久保の久光への近づき作戦
西郷を可愛がっていた斉彬が急死して弟の久光が実質、藩主となり、大久保利通は、久光に何とか取り入りたいと考えます。
しかし、大久保は下級武士ですから藩主の久光となんか直接話せるわけがない…そこで大久保が立てた作戦です。
島津久光は、囲碁が大好きで吉祥院という寺の住職と仲が良く、碁仲間だったんです…そこで大久保は、吉祥院に通ってお坊さんと仲好くなって、お坊さん経由で久光に近づこうとします。
なんとお寺に通ってお坊さんと仲良くなって島津久光と会うまで2年もかかったんです…この変はいかにも大久保の体質を表している…大久保利通は、慎重、現実主義、やると思ったらとことんやる。
田原総一朗…
『島津家って今でいえば企業なんです…日本有数の大企業、大久保はその会社の係長にもなっていない平社員、とにかく社長に取り入って偉くなりたい。
大久保利通は、久光に取り入っただけでなく、精忠組(斉彬の意志を継ぐ目的で結成された薩摩藩の組織)という若者たちを組織する…精忠組は今でいえば過激派、全共闘、…久光が幕府をひっくり返すって言うから過激派を育てた。
ところがこの過激派が後に井伊直助を殺しちゃう(桜田門外の変)…でも全部過激派が行ったら島津も下手するととり潰しですよ…だから行ったのはごく一部で大久保が過激派を抑えたんです。
大久保は、こういう慎重な男なんです。』
斉彬の死後、井伊直助による安政の大獄が始まった…斉彬の幕府を改革する計画に関わっていた西郷にも追手が迫っていた…薩摩藩は、幕府の目から逃れさせるため、西郷に奄美大島行きを命じた…島での暮らしは3年間、続いた。
田原総一朗…
『実は、大久保は、西郷を目障りだと思ってた…目障りだけど事を起こすには西郷が必要だって事で奄美大島から西郷を呼び戻す。
呼び戻したのはいいんだけど久光、大久保、西郷が相談する中で、西郷が久光と喧嘩しちゃう…西郷はこういう男なの情の男だから…人の言う事きかない…今度は徳之島に流されちゃう。
その点、大久保は現実家だから社長と一緒じゃなきゃだめ…ところが西郷は、社長の言う事でもダメなものはダメと言っちゃうの…で西郷は2度目の島流し。
いざ事を起こすときには西郷が必要、…つまり大久保が上手く西郷を使うんです…明治維新ってのは、大久保が西郷を上手く使ってやり遂げた。
大久保は、舞台裏が好きなの…西郷は、舞台の上で号令かけるのが凄い…そこが大久保と西郷がいい組み合わせだった』
1860年代、ペリー来航から安政の大獄を経て世の中には、尊王攘夷の嵐が吹き荒れていた…当時、朝廷での主導権を握っていたのが攘夷を強力に進めようとする長州藩、…ライバルの薩摩藩は、会津藩とともに長州の朝廷独占を阻止しようとクーデターを起こし、長州藩を京都から追放する(八月十八日の政変)。
1864年、再び主導権を取り戻そうとする長州藩は挙兵、京都へ攻め込み迎え撃つ幕府、薩摩藩と武力衝突となる。…これが世に言う禁門の変(蛤御門の変)だ。
その時、薩摩藩の軍司令官として活躍した男、それが沖永良部島から呼び戻された西郷隆盛だ。
田原総一朗…
『事を起こす段になって必要となるのが西郷、島から戻された西郷は、軍の最高司令官になるんです。…大久保は、普段は目障りだけど有事には無くてはならないと西郷の事を思ってたんです。
で西郷が長州をやっつけた…その後は、大久保の朝廷工作です。
2つあるけど一つ目は、岩倉具視、妖怪なんて言われてた朝廷の中では凄い力を持っていた…実は岩倉具視ってのは佐幕だった…それを大久保が口説いて岩倉を佐幕から倒幕に切り替えちゃう。
もう一つ…この時、孝明天皇が亡くなって次に14歳の明治天皇が即位した…大久保は、この明治天皇を手中に入れちゃうんです。…日本には、官軍、賊軍があって天皇を見方にすれば強い…。』
岩倉具視を倒幕派に引き入れ、後を継いだ明治天皇を手に入れた大久保の朝廷工作の後、坂本龍馬の仲介で1866年、薩長同盟締結、…翌1867年、幕府が大政奉還をしたにもかかわらず、すぐに倒幕の密勅が下されて…公家である岩倉具視の天皇を中心とした政治を取り戻したいという考えに西郷、大久保が同調、…慶喜の官職辞任と徳川の領地返上が決定!『王生復古の大号令』…その後、鳥羽・伏見の戦いと時代は進むのです。
田原総一朗…
『とにかく幕府は潰そうという事になるわけ…そこで西郷・大久保たちはなんとか幕府を怒らせようと挑発するわけ…でその挑発に幕府はのる。
その時、徳川慶喜は大阪にいて幕府軍1万5000、に対して京都の新政府軍4000人、当然幕府が勝つと思う…じゃ挑発に乗ってやろうじゃないか…となったわけ。
そこで起きたのは鳥羽・伏見の戦い…西郷・大久保の新政府軍が勝っちゃった…なんで勝ったかというと…
1.鳥羽・伏見は街道が狭い…だから大勢でも少なくても狭い道だから関係ない
2.新政府軍は最新式の鉄砲を持ってるに対して幕府軍は旧式の軍備だった
3.それと一番大きかったのがここ…大久保…大久保はここが上手い ”錦の御旗”を作らせていたのです。
錦の御旗を10本作ってそれを打ち立てたもんだから新政府軍が官軍、幕府軍が賊軍になった…幕府軍の兵隊は朝敵となるのを恐れ次第に戦意を失っていった。
日本というのは、昔から天皇の方が正しい…天皇に相手するのは賊だと…1万5000の軍隊が「俺たち賊かよ」ってやる気なくしちゃったんです。
この錦旗は、大久保が勝手に10本作ったの…天皇の許可なんか受けてませんよ…だから錦の御旗10本は大久保の情報戦争…ずるくはない…例えば幕府側に知恵があって錦旗を100本作ったら幕府が勝ったんです。…大久保は情報戦争に勝ったんです。』
鳥羽・伏見の戦いで勝利をおさめた新政府軍…江戸城総攻撃を避けたい幕府側は新政府軍と終戦交渉に入る…話合いに付いたのが西郷隆盛と幕府側は勝海舟。
江戸城は、明け渡される事になったものの負けた幕府側の意見を勝った西郷が大幅に飲む形となった。…そして江戸が明治新政府に引き渡される間、幕府軍の残党は会津に集結、静かに軍備を整えていた。
勝にまんまとしてやられた形となった西郷、…しかし、それは西郷隆盛のしたたかな計算に基づく行動だったと坂野さんは考えている。
東京大学名誉教授(近代日本史) 坂野潤治
『今やれば取れるじゃないか…西郷が勝に騙されるから交渉している間に幕府軍は武器を会津に持って行っちゃった。
本当に戦術的に見たら西郷はアホです…でも僕は戦略だと思うんです。…江戸側がはいどうぞって白旗上げたら日本全国支配ができない…東北が残ってるんですから…だから時間をあげて会津に反体制勢力を作らせて一気に叩けば全国制覇が出来るのです。
だから彼らを反乱に追い詰めて全国制覇をする西郷の壮大な戦略だったという事も考えられるんです…西郷のバカって書いている史料もあります。…で実際もひどい目に遭いました。
でも会津、東北、北陸も含めた大連合も作らせて叩いた…江戸城とっても終わらないんです。
西郷はバカなのか大天才なのか…一つだけ回答らしいのを見つけました…鳥羽・伏見から江戸に来たあたりで兵糧・兵站を使い果たしてしまったのです。
だから大久保と西郷は、国(薩摩)に戻って財政の無理やりな調達をやって、2か月もかけたけど藩兵を再組織してアームストロング砲を持ってゆっくり会津へ向かった。
金が無かった金を作るのに時間が必要だった…江戸城の無血開城を受け入れるしかなかった。』
…西郷も大久保に劣らぬしたたかさを持ち合わせていたのかも知れない。
その後、戊辰戦争を経て明治の世に入ります。…明治に入り、西郷・大久保たち明治政府は、廃藩置県、四民平等など、今の教科書にも太字で書かれている大改革を次々と打ち出していきました。
その中で驚くべき事を新政府は行います…岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などの政府の中心人物を集めて100人以上が1年以上もの間、日本を留守にして欧米の視察旅行に出かけてしまいます。
そんな時、日本に残った西郷が征韓論を打上げます…政府の名目上のトップ三条は西郷の圧力に負けて征韓論を承認してしまし天皇に奏上までしてしまいます。(征韓論:教科書では、難航する朝鮮との国交樹立交渉を武力を用いてでも解決しようとする意見)
そこに帰ってきたのがヨーロッパ外遊組、征韓論をひっくり返してしまって怒った西郷は、鹿児島へ帰ってしまう
明治初期、鎖国政策をとっていた朝鮮に強硬に開国を迫った日本…西郷の真意はどこにあったのか。
田原総一朗…
『廃藩置県をやって官軍を作る後の近衛師団1万、…会津も潰した東北も制圧、勝った兵隊はする事が無くなったのです…東京で遊んでるだけです。
武士ってのは官僚だから…全ていっぺんに首にした…今でいえば、自衛隊、農水省、財務省、厚労省、いろいろいる…西郷は、失業した武士を何とかしてあげたかった。
そんな時、大久保たちが帰ってくる…大久保は、殖産興業、民主主義が先だろ征韓論なんてとんでもない…外交なんてやってる場合じゃないだろうって反対する。
ここで大久保と西郷がもめにもめる…大ゲンカ…結局、西郷は負けて鹿児島に軍隊を引き連れて帰ってしまう』
反乱が起きるのを避けようとして兵を引き連れ、薩摩に引き上げた西郷隆盛…しかし、薩摩以外から反乱は起きてしまった。
明治6年の政変の後、大久保率いる明治政府は、士族たちの帯刀を禁じ(廃刀令)、俸給の支給制度を廃止した(秩禄処分)…プライドを傷つけられ、収入源を断たれた士族たちは、政府への不満を爆発させ各地で反乱を起こす。(佐賀の乱、萩の乱)
しかし、明治政府軍はこれを次々と鎮圧、佐賀の乱・江藤新平、萩の乱・前原一誠、ら首謀者たちはことごとく処刑された。
田原総一朗…
『各地で反政府の乱がおきる…これは多少、大久保が仕掛けた面もある…つまり、そういう連中が佐賀、萩、薩摩にいると不安じゃないですか。
へたしたら彼らが連携して薩長同盟みたいなもの作られたらやられちゃうかもしれない…そこで大久保は挑発するんです。
警察を使って調査、内偵する…しかもわかるように内偵する…嫌がらせですよ…挑発にのって江藤新平とか前原一誠が乱を起こす。…それを大久保が滅ぼす。
薩長同盟など作らせる前にバラバラに潰していく。
それで西郷は、大久保が警察をつかって挑発に挑発したんだけどのらないんですよ…彼は大久保と戦争したくなかったんですよ。
でも武士たちが挑発に乗って、やむなく西郷は戦いを決意した…西郷はやりたくなかった…たぶん西郷は、しまったと思ってますよ。
でこの西南戦争で西郷たちは負けて、西郷は腹を切る 西郷隆盛 享年51…。それでこの後は、完全な大久保の独裁政権になる。』
明治6(1873)年、大久保は、内務省という巨大な役所を作っています。…自らは内務卿となり、殖産興業を推し進めて行きます。(内務省:内政全般に及ぶ権限を有した中央官庁)
田原総一朗…
『内務省とは最も力の強い役所であって知事は内務省の出、つまり地方を全部内務省が握っている。…警察を内務省が握っている…この二つを持っているおかげで…今でいえば通産省、経産省、財務省など全部口出しする。
だから完全に大久保の独裁で天皇の下に大久保がいて大久保独裁政権だったわけ、…もっと言うと日本は戦争に負けた…しかしアメリカは日本を直接占領はしまかった。
日本の政治家や官僚たちを全部使った…でも内務省だけ潰したんです。…内務省が日本の中心で結局、戦争したのも内務省だとアメリカは見て内務省だけ潰した。
潰れた内務省からいろんなものが出来る…自治省、建設省などいろんなものが出てくる…だから内務省は、官僚の中の官僚、一番中心、それを大久保が握った』
東京都千代田区紀尾井町紀尾井坂、今から134年前、内務卿・大久保利通は暗殺された。
犯人は明治政府に不満を持つ6人の不平士族たち…明治天皇に謁見するため馬車で赤坂の仮皇居向かっていた大久保は、士族の持つ日本刀により、その生涯を閉じた。
大久保の懐には、前の年に政敵として果てた西郷からの手紙がしのばせてあったという。
西郷と大久保、二人があっての開国、明治維新だったのだ。