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歴史を動かした陰の主役たち 小松帯刀

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小松帯刀(1835-1870)

THEナンバー2
歴史を動かした陰の主役たち 小松帯刀

幕末から明治維新にかけ日本の政治をリードした薩摩、その第11代藩主・島津斉彬は富国強兵を推し進め日本最初の近代様式産業群・集成館事業を興した。

そこでは紡績、印刷、製薬、ガラス(薩摩切子)、そして反射炉により鉄を精錬し大砲、砲弾、西洋式軍艦を製造、それは日本を欧米列強の植民地とさせないため軍事力を強化し日本の独立を守るためだった。

その島津斉彬の意志を受け継ぎ明治維新を成し遂げたのが西郷隆盛大久保利通ら薩摩の武士だった…しかし彼らに勝るとも劣らない活躍をしながら歴史から一度忘れ去られて人物がいた…薩摩藩家老・小松帯刀だ。

小松帯刀は、27歳の若さで薩摩藩家老に就任、幕末の薩摩藩を背負って立つ事になる。


小松帯刀
斉彬に見出される

アヘン戦争(1840-1842)により清国はイギリスに完敗、島津斉彬はこのままでは日本も欧米列強の植民地にされてしまうと強い脅威を抱く。

琉球を抱える薩摩にとってアヘン戦争は他人事ではなかった…1853年、黒船来航、日本の危機に対し、西郷隆盛大久保利通など能力のあるものを下士階級からも抜擢。

そして幼い頃から秀才として知られた小松帯刀を名門の出身(1835年 肝付尚五郎として誕生)ながら三男で冷や飯食いの可能性があったため斉彬自ら命じ、小松家の婿養子とし小松家の家督を継がせたのです。

しかし1858年 島津斉彬 死去…その後、実権を握った島津久光からも重用され、27歳で家老に抜擢される…丁度その頃起こったのが生麦事件、…事件は久光一行が生麦を通りかかった際、イギリス人4人が行列を横切ろうとしたため薩摩藩士が殺傷してしまったというもの。

イギリスは下手人の死刑と遺族への慰謝料を要求、しかし薩摩は拒否、薩英戦争が勃発(1863年)しかし戦闘は1日半で終了、その戦後処理を行ったのが小松帯刀です。

志學館大学 人間関係学部 原口泉 教授
「攘夷の国論上、賠償金を払う形でまとめられない…ですからイギリスの船を薩摩藩が買うという形でイギリスにも利益があるような形でまとめるのです」

敵だったイギリスからの軍艦の購入は、長崎に商館を開くグラバーを通じ行われた…帯刀は後に、イギリス公使ハリー・パークスの薩摩への招聘も実現、通訳を務めたアーネスト・サトウは言う。

「小松は、私の知る日本人の中で一番魅力のある人物だ…政治的才能があり、態度が優れており、友情に厚い傑出した人物である」

 

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作家 加治将一
小松帯刀を見出した島津斉彬ですが藩主になる前は、斉彬派、久光派に分かれて後継争いがあったのです(お由良騒動)…最終的には斉彬が勝つわけです…で改造人事で久光派を追い出したら誰もいなくなってしまった…そこで下士でも有能な人材、西郷隆盛大久保利通らを抜擢したのです。

その時、目を付けたのが帯刀です…帯刀の生まれた肝付家は、かつての大隅国戦国大名ですが三男だったため、世に出られなかった…そこで今でいえば沖縄支社長クラスの小松家に婿養子させたのです。』


小松帯刀
いよいよ表舞台に…そして坂本龍馬との出会い

元冶元(1864)年、長州が挙兵、禁門の変です…この時、長州は御所にも侵入、それを奪回したのは西郷隆盛だった…京都・嵐山にある長州の屯所・天龍寺を攻めたのが小松帯刀だった。

帯刀は激戦の上、勝利…そして天龍寺に残された長州の兵糧米500俵を発見する…禁門の変で京都の大半が焼失、帯刀は京都の町衆3万人が焼け出された事を知り、彼らにその米を分け与えた。…西郷を使って全体を見ていたのは帯刀だった。

禁門の変のきっかけとなった池田屋事件は、帯刀に運命の出会いをもたらした…池田屋に集まった志士の中に神戸海軍操練所の塾生が含まれていた…それを理由に軍艦奉行だった勝海舟を罷免、勝は坂本龍馬た塾生の身の振り方を西郷に相談、西郷からその話を聞いた帯刀が龍馬たちを大阪の薩摩藩邸に受け入れたのである。

更に帯刀は龍馬たちを薩摩につれて行く、帯刀が龍馬に見せたものそれは、島津斉彬が始め久光や帯刀が引き継いだ日本最初の近代様式産業群、集成館事業だった。

その帰路、龍馬は帯刀らとともに長崎に行く、薩摩藩の費用で家を借り、塾生に給料を払い薩摩の交易船に乗り組ませた…こうして海援隊の前身、亀山社中が結成された。

更に日本茶の輸出で富を得た大浦お慶ら長崎の商人が亀山社中に投資した…龍馬は、薩摩の帯刀と長崎の商人の支えによって自由に行動をする事ができたのです。

作家 加治将一
禁門の変の総大将は西郷隆盛です…このカリスマ性のある西郷が進軍ラッパを鳴らす…その上に小松帯刀がいる…西郷は軍事司令官、帯刀は大蔵大臣であり外務大臣だった。

小松は金の使い方が上手かった…薩英戦争の後処理、龍馬への投資、京都の人たちに米を与えて支持を得るまど下々の人たちにも目が行き届いてます。』

 

 

小松帯刀
薩摩と長州の調整役へ!

慶応元(1865)年7月21日、長崎の薩摩藩邸にいた帯刀の元に亀山社中近藤長次郎に伴われ、長州の伊藤俊輔井上聞多がやってきた。

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要件は、薩摩名義で武器や艦船を買いたい…長州は幕府の目が厳しい長崎で武器の購入がままならなかったのだ。…一方、長引く京都派兵の米の手配に困っていた帯刀は、長州から米を送ってもらう事を条件にこの申し出を引き受けた。

龍馬を仲立ちとして薩摩と長州の関係が深まって行った…そして慶應2年1月、龍馬のすすめで長州の桂小五郎が上京、薩長同盟が京都の小松帯刀邸で結ばれる事になるのです。

京都伏見・寺田屋坂本龍馬が幕府の伏見奉行配下の取り手に襲われる…寺田屋事件です。帯刀は逃げのびた龍馬を薩摩藩邸にかくまい療養のため薩摩につれて行く、再び薩摩を訪れた龍馬、このとき龍馬は妻のお龍を伴っていた…霧島の温泉湯治は日本初めての新婚旅行と言われる。

慶應3(1867)年4月、亀山社中海援隊と改称、しかし所有する船が座礁、さらに運用権を取り上げられ新たな船の購入資金に困っていた…その時、資金を融通したのが帯刀だった…龍馬は姉の乙女宛てにこう書いている…

「薩州、小松帯刀申す人が出しくれ、神も仏もあるものにて御座候」…帯刀の公私に渡る援助が無かったら坂本龍馬の活躍は無かったのです。


作家 加治将一
薩長同盟の1年前に薩英密約なるものが結ばれます…1965年の1月に薩摩の上層部がイギリス側と密約を交してます…通訳はグラバー…薩摩は武器、船を買いたい、19名の学生の留学、中に帯刀の手駒の五代、寺島の2人がいた。

二人は、帯刀との打ち合わせ通り、ロンドンに着くなり、イギリス外務大臣ラッセルの元に行き「幕府はダメだ薩摩は自由貿易をする」と訴え、在日領事パークス宛ての書簡を書いてもらう…「薩摩を応援しろ、船も軍船も出していいぞ」と手紙で指示をするんです。

つまりこの時点でイギリスが薩摩のバックについたってことです。』


小松帯刀
日本を変えるべく公武合体に奔走す…

慶應2(1866)年12月、徳川慶喜・15代将軍に就任、幕政の改革や海外政策に次々と着手、幕府の勢いが一気に盛り返した。

薩摩は徳川恩顧の藩である土佐と慶應3(1867)年6月、薩土盟約を結ぶ…薩土盟約には、大政奉還、公儀政体論の創出が謳われた…幕府が政権を朝廷に返す大政奉還は、坂本龍馬のアイデアであり公儀政体論は議会制度を導入し、合議により国家の形成と統一を図ろうというもの。

しかし西郷と大久保は実現不可能と踏み、倒幕も視野に入れていた…一方、帯刀は大政奉還に一縷の望みを抱いていた。

大政奉還こそ平和裏に政権交代を実現する唯一の道と考えた帯刀は、慶喜と度々密会を重ねていた…慶喜にとって帯刀は、最も信頼のおける人物だった。

慶喜は、土佐藩後藤象二郎から出された大政奉還建白書をうけ、各藩の重臣を二条城に召集、意見を求めた、この時、薩摩藩代表は帯刀だった。

志學館大学 人間関係学部 原口泉 教授
関ヶ原以来の徳川恩顧の藩である土佐が大政奉還を徳川家のために説くのは、これは当たり前でその後の政局運営には大きな影響を与えませんが…薩摩が説得してそれに合意したとなれば、まったく意味合いが違ってくるのです」

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慶應3(1867)年10月14日、慶喜大政奉還を宣言、それは無血革命だった。
慶應3(1867)年12月9日、しかし帯刀が病気で欠席した小御所会議で情勢は一変する…公家である岩倉具視天皇を中心とした政治を取り戻したいという考えに西郷、大久保が同調、…慶喜の官職辞任と徳川の領地返上が決定!『王生復古の大号令』が出された。

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その結果、鳥羽伏見の戦い戊辰戦争と内乱が続く事になる。

作家 加治将一
『ようは、坂本龍馬小松帯刀は無血革命派、対して岩倉具視、西郷、大久保は武力倒幕派なんです。

このまま大政奉還で徳川が新政府に参加したら自分たちの出る幕は無いし、またセレブの政治が続くだけ…だから王政復古の大号令という強引な手で徳川と戦争を始めたのです。

歴史的に見て明治維新の近代化を推し進める上ではプラスであったと言えますがね…それと小松帯刀があまり知られていない理由ですが坂本龍馬だって司馬遼太郎が『竜馬がゆく』で紹介するまで殆ど知られていなかった。

つまり無血革命派など歴史の都合の悪いものは歴史の闇の中に納めてしまおうということですよ…支配者にとって歴史の真実は問題じゃないのです…いかに自分にとって都合のよい歴史を作るかです…小松帯刀も無血革命派、歴史の闇に埋没してしまったんです。』

志學館大学 人間関係学部 原口泉 教授
大政奉還で政権を慶喜に返させた…そして新しい政体を作る小御所会議に小松はいなかった…そこで徳川家だけが領地を返上しろという事が強引に決定された。

これは大変な徳川慶喜に対する裏切りです。だから小松は明治2年薩摩藩の藩政改革で真っ先に領地を返上します。

私領返上、門閥打破、家格返上、この3つを徹底的にやったんです…薩摩藩における下級武士による完璧なクーデターが実行された全領内で…』

明治3(1870)年7月17日 小松帯刀 死去(享年36)

歴史にもしは無い…しかし、もし小御所会議に小松帯刀が出席していたら明治新政府の形は違ったものになっていたのではないだろうか…それゆえ帯刀は幻の宰相と呼ばれるのです。