旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

明治の京都へおこしやす~千年の都 復興物語

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明治の京都へおこしやす~千年の都 復興物語
NHK 歴史秘話ヒストリアより

episode1
天皇さま 行かないで!

”遷都” で京都は大騒ぎ
この地に平安京が築かれて1000年もの長きに渡り、日本の都だった町、京都…その中心に広がる縦1.3キロ、横700mの巨大な緑の空間は歴代の天皇の住まい、御所があった場所です。

周囲には様々な職人や商人の住まいが立ち並び日本の宮廷文化を支える街として繁栄を謳歌してきました。

ところが幕末の元治元(1864)年7月、御所の蛤御門をめぐる戦から火事が発生、炎は瞬く間に京都中に広がり、27500軒を焼き尽くす大惨事となりました。

焼け野原を前に悲嘆にくれる京都の人々、そこに更に驚くべき話が持ち上がります…それは何と ”遷都” …天皇を京都から東京に移し、東京を新たな都にしようというのです。

京都にとって致命的なこの計画を立てたのは明治維新の立役者、大久保利通です。…大久保は古いしきたりやしがらみにとらわれた京都から天皇を引き離し、東京で新しい国づくりを目指すべきだと考えたのです。

それに対し…保守的な公家、寺社などが強硬に反対!

大久保は保守派を説得するために一計を案じます…それは ”行幸” 行幸とは天王が 「お出かけ」 すること…天皇が東京に行く事は、引越しではなく 「お出かけ」 であり、また京都に戻ってくるということにしたのです。

 

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そして明治元(1868)年9月、天皇は東京へ行幸します…日本史上最も華麗といわれる3300人の行列が東海道を一路東へと向かいました。

元治元(1864)年10月13日、天皇江戸城に入り、東京城と名を改めます。…そして2ヶ月後の12月、天皇は予定通り、お出かけを終え京都に帰ってきました。

しかし、京都の人々の間では、いずれ都が東京に移るという噂が絶えませんでした。…そこで新政府は人々を安心させるためお触れを出します。

「遷都のうわさを流して人々を惑わすものがいるが根も葉も無い話でもってのほかである」

 

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更に新政府は、明治天皇の名で京都の町内一つ一つに 『御土器(おんかわらけ)』を賜り、更に酒4万2700リットル、スルメ11万8500枚まで付けるという気の配り様。

京都 中京区場之町 町会長 福井藤次郎さん
「京都の人は大変うれしく、大変喜ばれた事だと思います。…京都の町を忘れたらへん…我らの事を思うていただいているということに非常な安心を得たんじゃないでしょうか」

”天子様はこのまま京の都におられるそうや” …記録によれば喜んだ京都の人たちは、仕事を2日間休み、天皇から頂いたお酒を心行くまで楽しんだということです。

ところが・・・僅か2ヶ月後の明治2(1869)年3月、天皇は再び東京に行幸してしまいます。…しかも今度の行幸は、大きく違う点がありました。…太政官という当時の政府を丸ごと東京に引き連れて行ってしまったのです。

これは事実上の遷都を意味します。

慌てた京都の人々は実力行使に出ます…御所を数千人で取り囲み、天皇が東京に行った後も残っていた皇后に京都を離れないで下さいと訴えます。しかし御所を守る門番に追い返され、あえなく解散…10日ほどして皇后も東京に行ってしまします。

こうして京都は首都の地を明け渡すこととなったのです。

天皇を失った京都は町が始まって以来の大きな危機に直面します。…織物、焼き物といった様々な産業は御所という大きな得意先を失い、廃業したり、東京についてゆくといった店が続出したのです。

大火災に加え、天皇がいなくなったという大不況、人口は一挙に3分の2に減り、京都の街はまさに閑古鳥が鳴くありさま。…しかし、ここから京都の街は劇的な復興を遂げて行く事になるのです。


episode2
ガイジンさん、いらっしゃ~い
KYOTOおもてなし大作戦

京都が外国人で賑わうキッカケを作った一人の男がいます。…大河ドラマ『八重の桜』の主人公、八重の兄で会津藩士だった山本覚馬です。

 

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海外の事情に通じ、外国人の知人も多かった覚馬は、戊辰戦争の集結後、復興を目指す京都府に顧問として迎い入れられます。…衰退した京都を蘇らせるために覚馬が注目したのが外国人の力を借りる事でした。

華の都パリ、江戸時代最後の年の1867年、この街で世界最大のイベント、パリ万博が開催されました。参加国は42カ国、各国の特産品や最新の科学技術が披露され、900万人が押し寄せました。

数々のパビリオンの中でも日本館は、東洋風で精巧に作られた工芸品が高い評価を受け人気を博しました。

海の向こうには素敵な国がある。…万博をキッカケに ”ジャポニズム”(japonisme)という空前の日本ブームが巻き起こったのです。

 

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この日本ブームを覚馬は好機ととらえます。…「博覧会を開けば多くの外国人がやってきて京都の産業を蘇らせる事ができる」(山本覚馬伝より)

同志社大学 元教授 本井康博さん
「特に京都は伝統産業ですからね。外国人に受け入れてもらえるかは未知数、しかし外国の博覧会の出して多少の反応が分かってますから、これは受けると山本覚馬はにらんだと思います」

明治4(1871)年 京都で博覧会をすべく、実行委員会ともいうべく博覧会社が創立しました。…障害を一つ一つ解決していったのです。

1.当時外国人は、横浜、神戸といった居留地から40キロ以内しか移動できなかった…博覧会社は政府に嘆願書を出します。京都の窮状を何とかしたいと考えていた政府も博覧会の期間だけという特例を認めたのです。

2.会場は西本願寺知恩院建仁寺が提供してくれる事になりました。

3.肝心の展示品は、京都の人たちに声をかけると外国人が喜びそうなお宝が次々と集まりました。

更に覚馬は考えます…「外国人に京都の魅力をもっと知ってもらいたい」…覚馬は外国人のために英文のガイドブックを作る事を思いつきます。…このとき覚馬の手助けをしたのが会津から京都にきたばかりの妹・八重でした。

嵐山、金閣寺、織物の西陣なども解説されています。

 

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明治5(1872)年3月、第一回京都博覧会が始まりました。…古の都が初めて様々な人々に解放されたのです。…展示されたのは選りすぐりの工芸品2485点、甲冑、西陣織の着物、京都特産の焼き物などがずらりと並びます。

80日間で外国人770人を含む、4万もの人が訪れ大成功を収めました。…これに気を良くした京都の人々、翌年は天皇のいなくなった御所を借りて博覧会を開催し、40万の人出でにぎわいました。

博覧会を訪れた外国人たちは、覚馬の思い通り、ガイドブックを持って京都の街へ飛び出したのです。…外国人のための宿泊先、食事、警護と京都府は外国人に対してそうとう気を使った事が資料に残っています。


episode3
美しい景色を生んだ
奇跡の復興プロジェクト

平安神宮は桜の名所としても有名です…この風景、水があってこそですよね。…同じく桜の名所、哲学の道、ここも平安神宮と同じ時期につくられた水辺の風景です。桜はもちろん紅葉の時期にも多くの観光客でにぎわいます。

 

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他にも京都の景観には水は欠かせません…これらの京都らしい水辺の景色も明治の復興計画の一環として出来たものだったのです。

その計画とは、琵琶湖と京都を運河で結ぶ琵琶湖疏水計画です。

海がなく、港がない京都では主な輸送手段は人や牛、そのため大量な物資を輸送する事が出来なかったのです。…京都が復興し、更に発展するには物流の大動脈が必要だったのです。

その建設に指名されたのが当時最先端のトンネル掘削技術を身に着けていたが、まだ学校を出たばかりの田辺朔郎(たなべ さくろう)です。

 

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田辺の計画は、琵琶湖と京都の間に横たわる山に6本のトンネルを掘り、20キロに渡る運河を通すということです。現在のお金で総工費1兆円という巨大プロジェクトです。

京都の運命が21歳の若き技術者に託されたのです。

 

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明治18(1885)年6月、いよいよ疎水工事が始まりました。当時は掘削機械など無く、人力での工事でした…犠牲者も続出しての難工事、それでも田辺は成し遂げます。(世界最長のインクラインも完成)

着工から5年たった明治23(1890)年4月、全長20キロ、延べ400万人が従事した琵琶湖疏水はついに完成します。

竣工式の日、京都復興の期待を胸に疏水を一目見ようと多くの市民が会場に押し掛けました…盛大な竣工式の影で田辺は一人、工事で犠牲になった人々に思いをはせていたということです。

工事で亡くなった仲間たちに
見事に完成したこの疏水を
見せてやりたい
(「田邉の言葉」より)

 

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疏水の完成によって京都には、大量の武士が安全、迅速に運びこまれるようになりました…年間5万隻の船と2万トンの物資は疏水を行き交い京都復興の牽引力となっていったのです。

更に当初の予想を大きく越えて疏水が一役買ったものがあります。…電力です。インクラインの急勾配と豊富な水量を活かして日本初の事業用水力発電所が設置されたのです。

明治28(1895)年には日本初の電車が誕生し、更に市内の1300軒の家々で電燈がともされました。…電気を使った大工場が立ち並び、京都の工業はいち早く近代化に成功します。

琵琶湖疏水記念館 白木正俊さん
琵琶湖疏水は色々な多目的の水利事業でありまして京都の近代化に貢献したという意味では非常に先駆的だった」

疏水は京都の観光にも大きな役割を果たします。
疏水沿いには桜や紅葉が植えられ、舟遊びを楽しむ人で街は賑わいました。

平安神宮を始め、東山の庭園では疎水から水を引き、水と木々が織りなす京都独特の美しい景観が誕生しました。

絶え間なく流れる疏水の水によって
京都は産業都市、観光都市として
新たに生まれ変わったのです。