NHK 先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)
既得権を打ち破れ 大久保利通
幕末、大久保は薩摩藩士として260年以上続いた大既得権者、徳川幕府を倒すため中心的な役割を果たしました。
しかし、大久保には息つく暇もありません。新政府の中心メンバーとなった大久保は、今度は武士が支配する世をいかに終わらせるかという難題に挑まなければならなかったのです。
幕府を倒したのだからあらゆる権力が新政府に集中しただろうと思われますよね…でも実は全国には、270もの藩が存在し、軍事力、経済力を持っていました。あたかも独立国家が日本中にあるような状況でした。
一方、大久保の新政府はというと、予算も乏しく、軍隊もないありさま…強力な中央集権国家を作るためには、藩を解体し、武士の存在をなくしていかなければなりませんでした。…そこで大久保は、矢継ぎ早に策を打ってゆきます。
版籍奉還:藩が持っていた土地と人民を天皇に返還する
廃藩置県:藩を無くし、新たに県を置く
廃刀令:刀を身につける事を禁ずる
しかし、武士の既得権を否定して行くこうした改革にマグマのように不満を募らせる者がいました。…士族たちです。
抵抗勢力となった士族たち…その動きはついに西郷隆盛を巻き込んで行く事になります。大久保と西郷、竹馬の友で共に力を合わせて明治維新を牽引した、二人の対決は避けられないものとなりました。
武士の既得権を崩してゆくこの仕上げの時期に、大久保はどんな手を打ってゆくのか
避けられない運命
西郷との対決
作家・歴史家 加来耕三
「西郷隆盛というのは一番人気です。明治政府の信用よりも彼、個人の信用の方が重かったんです。…何かあると西郷さんが戻ってくるとそれで政府は落ち着くんです。…「大久保は実務者ではあるんですが、大久保利通、個人のカリスマ性はないんです。…新政府というのは、ほとんど西郷さんの人気に負っているところが多かったんです」
「廃藩置県は、藩を潰したわけですから武士を解体しなければいけません。これまで武士の特権だった、刀を差して戦争は自分たちがするんだと言えなくなってしまったんです。…武士そのものが、どんどん追い詰められていくんです…それを西郷が守ろうとするんです」
知恵その一
勝利への布石は二重三重に打て!
大久保と西郷の対決、第一ラウンドは外交問題を巡っておきました。…征韓論争です。
当時、明治新政府の中には、新政府を認めず鎖国を続ける朝鮮に対して強硬な態度で臨もうとする動きがありました。
明治6年8月、西郷は、開国交渉のため自ら使節として朝鮮に赴く事を政府に願い出ます。…交渉が上手く行かなければ武力行使も持さない覚悟でした。
征韓論は不平士族に強く支持されていました…彼らは自分たちの活躍の場を求めていたのです。…この動きに真っ向から反対したのが大久保利通です。
大久保は、岩倉使節団の一員として欧米視察旅行から帰国したばかり、欧米列強と日本の国力の違いを、まざまざと見せつけられた大久保は、今日本は戦争している時ではないと考えたのです。
西郷との対決を決意した大久保が息子たちに宛てた遺書があります。
この国難に万一命を
落とそうとも
国家の恩に報いるため
この任務を引き受ける
(『息子に宛てた遺書』より)
西郷を支持する不平士族によって命を落とすかもしれない…それでも覚悟を持って西郷と対決するというものでした。
その対決を制するために大久保は、ある布石を打ちます。政府のトップ、太政大臣、三条実美と右大臣、岩倉具視に西郷の派遣に賛成しないという内容の念書を書かせたのです。
ここには大久保の一つの計算がありました。
この時、征韓論に賛成すると見られた閣僚は8人中5人…しかし大臣の支持を取り付けておけば、なんとか賛成派を抑えられるのではないかと思ったのです。
明治6年10月14日、大久保は征韓論を議論する閣議に臨みます。大久保は、今は朝鮮との緊張関係を作るより、国力を上げる事に専念すべきだと主張しました。
審議の結果、二人の参議が大久保に同調、大臣の二人も大久保と同じ慎重論を唱え、派遣延期の声が半数に達しました。…大久保は西郷の行動をひとまず押しとどめています。
明治6年10月14日、ところが翌日事態は急変します…。強硬に派遣を訴えた西郷の気迫に押され、三条が寝返ったのです。
絶体絶命のピンチに陥った大久保、…しかし大久保は次なる布石を繰り出してゆきます。…当時の閣議決定は太政大臣から天皇に奏上され承認を受けます。
大久保は、奏上がなされる前に天皇に接近し、派遣を承認しないよう説得工作を図ろうとしたのです。…しかし、大久保が天皇に直接意見する事は組織や役職上、難しい事でした。
この工作を可能にしたのが大久保が宮中改革のために宮内省に送りこんでいた、薩摩出身の官僚・吉井友実でした。
明治6年10月19日、作戦決行の日が来ました。大久保は吉井を介して天皇の側近へ、西郷の派遣を延期するよう働きかける画策しました。
明治6年10月19日、そして5日後、天皇が決定を下します。…「西郷の朝鮮への派遣は、当面延期とす」、事実上の中止です。
大久保の命をかけた裏工作は成功しました。
西郷と賛成派の参議たちは全て辞職、戦争に活路を見出そうとした不平士族の狙いはついえたのです。
知恵その二
ことを成すには憎まれる覚悟を持て
征韓論争に敗れた不平士族たち、その不満の声は高まる一方でした。…大久保は本格的にそうした士族たちの解体に着手します。
明治6年11月、大久保は内政全般を統括する内務省を創設、自ら長官に就任します。内務省は治安維持につながる警察力を握っていました。
明治7年2月、佐賀で不平士族の反乱が勃発、大久保は自ら陣頭指揮にあたり、1万2000人の士族たちを鎮圧します。
明治9年に相次いでおきた、熊本、福岡、山口の反乱でも容赦することはありませんでした。
そして明治10年2月、ついに大久保の出身地鹿児島でも士族の不満は頂点に達します。…不平士族は西郷を担ぎあげ決起、史上最大の士族の反乱、西南戦争(西南の役)が勃発しました。
大久保は、伊藤博文宛ての手紙で西郷への思いを吐露しています。
万々一、西郷が
誤るようなことがあれば
残念千万ではあるが
それまでのことと
断念する他はない
(伊藤博文への手紙)
「西郷を倒すのは忍びない、しかし近代国家建設のためには、私情を差しはさむ余地はない」…大久保の信念の強さがうかがえます。
明治10年9月24日、開戦から7カ月、西郷は鹿児島城山の地で自決…大久保は西南戦争の終結を持って士族の反乱に決着をつけました。
しかし、不平士族への弾圧は、大久保の命をも奪う事になります。
明治11年5月14日、西南戦争の8ヶ月後、大久保は自宅から内務省に向う途中、紀尾井坂で暗殺されます。…襲ったのは、石川県士族ら6人の不平士族たちでした。
士族の恨みを一身に受けて散った大久保利通、しかし、この日の朝、大久保の元を訪れた福島県の役人にこんな事を語っています。
華士族のの現状は
時勢のやむを得ない結果で
彼らの罪ではなく
政府も好んで処分を
行ってきたわけではない
この際、理屈にこだわらず
特別の保護を加えたいのだ
(暗殺の日の朝、大久保が語った言葉)
実は、大久保は士族の解体を進める一方で、士族の手による東北の開拓事業を進めていました。…この時、大久保は事業に参加する士族のために国家予算まで組もうとしていたのです。
自らも士族であった大久保は、士族の行く末を案じ、近代化に貢献できる別の道を切り開く事を模索していたのです。
作家・歴史家 加来耕三
「大久保という人は、『私』がないんです。…本当に国家に尽くす事が好きで好きで仕方がない…自分の天命だと思ってるんでしょうね」
「大久保が亡くなった時にですね、大久保を嫌いな人が…政府のトップ、独裁者ですかえら ”さぞ貯め込んでいただろう、儲けただろう” と思って金庫を開けてみたら借金の証文しかないんです」
「…当時は明治政府より、大久保の信用の方が高いんです。…大久保が借金するのと明治政府が借金するのでは、大久保をとるんです」
「…つまり政府のために自分の名前を使って借金をしたんです」