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新島八重 逆境に生きるサムライ・ウーマン

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NHK BS歴史館
新島八重 逆境に生きるサムライ・ウーマン

2013年の大河ドラマ『八重の桜』の主人公、八重が歴史のひのき舞台に颯爽と登場したのが幕末の会津戦争(慶応4年)…紙を切り、侍のいでたちで戦場に現れた彼女は、最新式の銃を操り、新政府軍の最強軍隊を狙い撃ち、会津ジャンヌ・ダルクと呼ばれます。

そして明治を迎えると八重は、京都を舞台にいち早くモダンレディーに変身、日清・日露戦争では看護師として従軍、日本のナイチンゲールと呼ばれました。

会津ジャンヌ・ダルクから日本のナイチンゲールへ華麗な変身を遂げながら侍の精神を貫いた新島八重、その魅力を語り尽くします。

作家 鈴木由紀子(著書『ハンサムウーマン新島八重』ほか)
「こんな女性があの頑固な会津にいたというのが驚き…しかもスペンサー銃って最新兵器を持って城に入り、打ちまくってる…驚きです」

作家 島田雅彦
綾瀬はるか 嬢も演じがいがあるんじゃないですかね…回を進めるごとに違うコスチュームで出て来れますからね」

麗澤大学教授 松本健一
「新しい近代に入って八重さんが髪を切ったということも…男でさえ髷は切らないわけですから…女の命の髪を切って御城に入ってゆく…ここに至っては封建武士の精神を乗り越える…彼女の近代が始まる感じですかね」

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新島八重の故郷、福島県会津若松市、幕末消えゆく徳川幕府に忠節をつくし、明治新政府に最後まで抵抗した悲劇の会津藩、その象徴が籠城戦で多くの多くの藩士た家族が自決した鶴ヶ城です。

この鶴ヶ城に立てこもって新政府軍を食い止め、1か月に渡る籠城戦に持ち込んだのが八重でした。

私の実家は、
砲術指南役でございましたので
元込め7連発銃を担いでまいりました

弟の三郎と申しますのが
戦いで討死しましたので

私はすなわち三郎だという
心持でその形見の装束を着て
城に入りましたのでございます
(『夫人世界』明治42年(1909))

慶応4(1868)年8月21日、新政府軍は会津の藩境を攻撃、会津藩の主力部隊は防備に大わらわでした。

8月23日早朝、八重が鶴ヶ城に乗り込んだ時、城を守るのは女、子供、老兵たちだけだったのです。…そこへ板垣退助率いる新政府軍の先方隊3000人が異例の速さで進軍、一気に城まで迫ってきます。

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その最前線に立ちふさがったのが八重でした。…彼女は最新式の銃で指揮官を狙い撃ち、隊長クラスが次々に銃弾に倒れます。当時薩摩の砲台頭で後の陸軍元帥・大山巌も右足を八重に撃ち抜かれています。

作家の中村彰彦さんは、八重の能力をこう評価しています。

作家 中村彰彦
「誰を撃てば全体の兵力がガタンと落ちるのか分かっていたんです…指揮官は赤い小旗を持っていたんです。旗を持っている指揮官を撃ちまくったんです…これはたまりませんよ」

予想外の防御に驚いた新政府軍は、ひとまず城の外郭まで後退しました。

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8月26日、新政府軍は、小田山を制圧、ここから天守閣の砲撃を開始します。…八重はこれに対し大砲を据えて迎撃、…

「小田山へ打ち出す大砲にて敵を悩ませし也、大砲を発する技、誤らず敵中へ破裂す…諸人目を驚かす」(『明治日誌』荒川勝茂)

作家 中村彰彦
「獅子奮迅とはこの事…彼女の力で食い止めている、彼女がいなかったら負けてますね」

新政府軍は持久戦を余儀なくされました、1か月に及ぶ篭城戦が始まり、八重は戦いの中で更に大きな活躍をして行くのです。


作家 鈴木由紀子(著書『ハンサムウーマン新島八重』ほか)
「八重は戦っていただけではありません。女性としても城にいたのです…兵糧炊き(城中は5200人)、傷病者の介護も女性の役割です」

麗澤大学教授 松本健一
「城の中には兵士はいない分けです…兵士はみな国境、国境に出陣していますから…同時に戦わなければならない分けです」

作家 鈴木由紀子(著書『ハンサムウーマン新島八重』ほか)
「新政府軍の先方隊3000人は、土佐藩の軍が主力で鶴ヶ城内には、老人、子供、婦女子しかいなかったわけです」

麗澤大学教授 松本健一
「戦う軍隊はなかったわけです。彼女が一人で指揮者になって城の戦略を作って実際に戦い続けるんです」

しかし、新政府軍の包囲網は徐々に狭まって来ます。昼夜をとわない砲撃によって死者は累々と増え、八重の父・権八も戦死、奮戦むなしく食料も尽きて行きました。

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明治元(1868)年9月22日、ついに会津軍は降伏、新政府軍の入城を語った八重の言葉からはいいようのない悔しさが伝わってきます。

入城する西軍が
「ドッドッドッド……」と
足音をたてつつ繰り込んだ
この時の無念さ

一同、思わず「ウム……残念だ…奸賊共…」
と切歯扼椀したのであります

新政府軍は処分が決まるまで生き残りの会津藩士を猪苗代へ連行、女子供はお構いなしとされたにも関わらず、八重は自ら男たちの列に加わります。…3000人以上の犠牲者を出して会津攻防戦は集結、そして八重の命を懸けた戦いも終わりました。


逆境に生きる サムライ・ウーマン
八重のその後は…

会津藩士の多くは流浪の民となって散らばり、八重もまた山形の米沢に一時、移り住みました。

明治4(1871)年、八重の元に驚くべき報せが届きました。行方不明だった兄・覚馬が京都で生きていたのです。…八重は早速、兄のもとへ向かいます。

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幕末、藩主・松平容保に従って京都にいた覚馬は鳥羽・伏見の戦いの直後、薩摩藩に捕らえられ、しかも失明していました。

覚馬は獄中で『管見』という建白書をまとめ、新政府軍に提出しました。それを認めた西郷隆盛岩倉具視ら政府要人は覚馬を釈放し、京都府顧問に大抜擢、京都の復興を任せます。

幕末に戦場となった京都の町は荒れ果てていました。火災による焼失区域は全市街の5分の3に渡り、更に東京遷都で人口も激減しました。

覚馬は京都の復興に邁進します。…復興策の一つは新しい産業の育成です。明治5年、産業博覧会を開催、外国人に旅券を与えて京都に招き、日本の物産を世界に紹介しました。

翌年には、外国人観光客の為に英語版ガイドブックも作成、国際観光都市、京都はここから始まったのです。

 

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京都に来た八重は、覚馬の目となり足となって協力します。足も不自由になっていた覚馬を背負い政府要人との会合にも必ず同席しました。

「岩倉さん、木戸さん、江藤新平さん…あの人たちの所へ度々参りました。私、力があったものですから兄を肩にかけて御座敷に入りました。…兄は目が見えないから人さんの申される言葉のご様子が分からないので嫌な顔をされる事は私が見ておって言いました。…江藤さんは、お兄さんのお話をあまり、お快くお聞きでなかった事を申し上げると、そうかなと言っておりました」

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覚馬が京都復興の柱としたのが教育の力でした。

我が国を外国と
並び立つようにすることが
今の急務であるから
まずは人材を教育しなければならない
山本覚馬

明治2(1869)年、全国に先駆けて小学校を開校、その年の内に京都市に64校を一挙に開校しました。

明治5(1872)年、には女学校の先駆けである「女紅場」も開校、そこで八重は教師となり、養蚕や紡績を教えました。彼女は教育の現場に新たな生きる道を見つけたのです。


八重の人生を変えた
出会いとは?

八重は京都でまったく新しい人生をスタートさせます。…キリスト教徒の出会いです。覚馬の勧めによるもの、覚馬は博覧会見物に来ていたアメリカ人宣教師、M.L.ゴードンからキリスト教の教義を漢文で現した『天道遡源』を手に入れました。

「この本を読んで人心を改善するのは、この宗教によるべきだということがわかった」(山本覚馬

明治の西欧化とともに徐々に普及したキリスト教、そこに新しい時代の息吹を感じていました。八重も英語とキリスト教を学び始めました。

そしてゴードンの家で運命の人、新島襄と出合います。その場面をこう振り返っています。

ある日のこといつもの通り
ゴルドンさんのお宅へ
馬太伝(マタイ)を読みに参りますと
ちょうどそこへ
襄が参っておりまして
玄関で靴を磨いておりました

私はゴルドンさんのボーイが
靴を磨いていると思いましたから
別に挨拶もせず中に通りました

間もなくするとゴルドンさんの奥さんが
襄に合わせてくれました
(『新島八重子回想録』)

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八重がボーイと間違えた男・新島襄天保14(1843)年上州安中藩に生まれ、江戸湾でオランダ軍艦を見て海外渡航の夢を持ちます。

元治元(1864)年、函館から密出国に成功、アメリカでキリスト教を学んだ襄、…「軍艦を作るより人間を作る方が大切だ」と悟ります。

帰国後、京都で教育に力をいれている山本覚馬を訪ね、キリスト教の学校を作るべく準備を始めます。…これが後の同志社大学でした。

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八重は襄に聖書を学ぶようになり、次第に惹かれあって行きました。…明治8(1875)年10月、そして二人は婚約します。

しかし二人は、京都の人々の大きな反発を受けます。…江戸時代を通して禁教だったキリスト教に対する抵抗は強く、とりわけ神社・仏閣の多い京都では強い排斥運動が起こります。

明治8(1875)年11月29日、その逆風に負けず、襄は同志社英学校を開校、八重もまた周囲の目を気にせず洗礼を受け、明治9(1876)年1月2日にクリスチャンになりました。

その翌日、二人はキリスト教の結婚式を挙げます。日本人としては京都で初めてのものでした。…更に八重は、後に同志社女子大学となる、女子塾を始めます。

同志社を二人三脚で大きくしていった、襄と八重…11月29日は同志社大学創立記念日、早朝、多くの学生や卒業生が新島夫妻の墓参りに訪れます。

襄は八重の物怖じしない生き方をハンサムと評しました…

彼女は決して
美人ではありません
しかし行いが
ハンサムなのです
新島襄


新島八重
モダンレディー?古風な女性?

出会うべくして出会った二人、八重は家で洋風料理に挑戦、二人でレディーファーストも実践します。八重は会津ジャンヌダルクから京都のモダンレディーに大変身しました。

しかし、その振る舞いに対して今度は同志社大学の学生たちが攻撃します…八重に付けられたあだ名は、 ”ぬえ” 八重と対立する急先鋒は、徳富蘇峰新島襄と対等に振舞う八重に強く反発し、演説会で批判しました。

頭と足は西洋
胴体は日本の夜鳥(ぬえ)がいる。

ぬえ、とは様々な動物が混ざり合った伝説の怪物、尻尾は蛇、手足は虎、顔は猿という姿をしています。…徳富蘇峰が ”夜鳥(ぬえ)” と呼んだ八重の姿です。

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洋風の帽子を持っていますが服装は着物、そして足元は洋風の靴、和洋折衷の八重の姿を ”夜鳥(ぬえ)” と呼んだのです。…外ではキリスト教の理念や教えを実践した八重、一方で日本的な暮らしや考え方を大切にし続けました。

そんな八重に最後の試練がやってきました…明治23(1890)年1月 新島襄 死去…襄は八重の腕の中で最後の言葉を残して息を引き取りました。

狼狽するなかれ
グッドバイ また会わん
新島襄

大きな悲しみを乗り越え、八重は新たな人生を歩きだします。

明治23(1890)年4月、襄が亡くなって3ヶ月後、八重は日本赤十字社に入社、日清・日露戦争で敵味方の分け隔てなく、看護活動に従事します。

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そして昭和3(1928)年、新島八重(82歳)、彼女の会津人としての念願がかないます。朝敵の汚名を受けた会津藩主・松平容保の孫娘、勢津子が秩父宮親王の妃になったのです。

いくとせか
峰にかかれる
むらくもの

はれてうれしき
光をぞ見る
新島八重

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白虎隊記念館 館長 早川廣中さん
「なぜ会津が賊軍だと言われるのか…会津の人はみな納得できないで悶々とした気持ちでいたわけです。その一人として八重さんもやっと胸が晴れた…日本の近代国家に我々も堂々と参加できるようになった」

新島八重…彼女は86歳で亡くなる最後まで
会津侍魂を忘れませんでした。

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