NHK BS歴史館
皇女和宮 史上最大のロイヤルウエディング
・1954年、日本中があこがれた皇太子明仁親王と美智子様の御成婚
・1881年、世界が注目したチャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚
・文久元(1861)年、ロイヤルウエディング数あれど今から150年前、幕末の日本で史上最大のロイヤルウエディングが行われました。
それは、天皇の妹・和宮と14代将軍・徳川家茂の結婚、…皇女が徳川家に嫁ぐ降嫁は、前代未聞の事でした。
京都から江戸への花嫁行列は、3万人…かかった費用は900万両(幕府予算の2年分)、なぜこれほど大規模になったのか…。
幕末を揺るがした皇女・和宮の降嫁、国の命運をかけて行われたロイヤルウエディングの舞台裏に迫ります。
前代未聞!
皇女和宮 降嫁
万延元(1860)年8月、皇女和宮と14代将軍・徳川家茂の結婚が決まりました。世紀のロイヤルウエディングに向け日本列島が一気に動き出します。
和宮の花嫁行列は、中山道を通って江戸へ向かう事に決定、幕府から街道筋へ準備に取り掛かるよう通達が出されます。近年、周辺の宿場町が、いかに大わらわだったかをうかがわせる史料が出てきました。
たとえば京都から14番目の宿場町・赤坂(岐阜県大垣市)、…和宮一行が京都を出発する2か月前、赤坂宿に和宮通行のお触れが出ます。…これを受け、町全体で家屋を新しくする工事が行われました。
(御宿間数取調書上帳)
一行の宿泊に備え、街道の家々を調査(『御宿間数取調書上帳』)、ずらっと並んだ257の家屋と空き地、…古い建物は立替え、空き地には家屋を新築。
大垣市史編纂室 清水進さん
「48軒立替え、空き地に7軒新築、これが後に ”御嫁入り普請” となって今日まで語り継がれています」
古い建物や空き地は、見苦しいという理由で行われた工事、街全体が新しくなるほどの大掛かりなものでした。
同じ頃、京都から27番目の馬籠宿(岐阜県中津川市)でも準備に余念がありませんでした。ここには道路工事の記録が残されていました。
(馬籠宿の年寄り役人の日記『年内諸事日記帳』)
「8月24日、畳石に取り掛かる」
「10月23日、石垣を二尺引っ込め、道幅二間にする」
「見渡す限り全て道幅が二間になった」
未曽有の大行列の通行に備え、町中の道路を工事していたのです。このような大規模なインフラ整備が中山道全域で行われていました。
一方、和宮の行列とは別に婚礼道具は、美濃路から東海道を通って運ばれました。
文久元(1861)年10月16日、大垣宿、小さな宿場町で人々はパニックに陥っていました。荷物の状況を下見に行ったものから信じられない報告を受けたからです。
長さ:5間(9メートル)
幅:1丈(3メートル)
重さ300貫(1トン)
という巨大な荷物がやってくるという事、…これを7、80人で運んで来るのだと報告したのです。
これは大変だと、人々は荷物が来る前日、実寸大の模型を作って予行演習を実施、小さな橋は欄干を外して幅を広げ、通り抜けられない狭い門は取り壊し、こうして何とか荷物を通す事が出来ました。
和宮の降嫁は、中山道だけでなく、美濃路、東海道など広大な地域を巻き込んだ一大イベントでした。
和宮降嫁の背景
幕末 日本の国難
第2章 是が非でも手に入れたい花嫁 ”皇女和宮”
何としても和宮降嫁を実現したい幕府、縁談成立までの経緯を遡ってみましょう。
万延元(1860)年4月、和宮の京都出発から1年半前、幕府は朝廷に正式に降嫁を要請します。この時、和宮15歳、外国人の徘徊する江戸を恐れて嫌がります。
しかも和宮には、有栖川宮熾仁親王という婚約者がいました。兄である孝明天皇は和宮の意向をくみ要請を繰り返し断ります。
しかし幕府は必死、公武合体のシンボル、和宮の降嫁を実現しようと策を講じます。和宮の母親と叔父が降嫁に反対していると知ればその親類を使って説き伏せようとします。
更に婚約者の有栖川宮熾仁親王には、驚くべき策を使います。それを伝える史料。
(井伊家文書『島田龍章書状』)
「有栖川宮家に対しては、和宮が丙午生まれである事を理由に度々説得し、破談の約束を取り付けた」(井伊家文書『島田龍章書状』)
なんと丙午生まれの女は、災いをもたらすと脅し、破談させていたのです。…婚約問題をかたずけた幕府は再度、降嫁を要請してきました。
度重なる要求を受け、孝明天皇は近臣の岩倉具視に意見を求めました。
(岩倉具視)
『岩倉公実記』には、岩倉の天皇への進言が記されています。
外圧にさらされた皇国の危機を救うには、
国是を確立させる必要がございます。
朝廷権威を回復し、国是を確立させる必要がございます。
和宮の身は極めて思い者です。通
商条約を破棄するように命じ、
幕府がそれを約束するというならば
和宮を説得してはいかがでしょう
(『岩倉公実記』より)
天皇はついに決断します。…「幕府が蛮夷を拒絶するなら和宮を諭そう」 …通商条約と攘夷、つまり外国勢力の拒絶を求めた天皇。
対する幕府の返答は、…「7、8年ないし10年以内に条約を破棄する」 …この条約破棄の明言を受けて天皇は和宮降嫁を内諾したのです。
幕府の約束を取り付けた孝明天皇は、和宮説得に向け、一気に舵を切りました。しかし和宮は降嫁を徹底的に強い態度で拒絶します。
(孝明天皇)
そして追い詰められた天皇は決定的な言葉をはきます…「降嫁が実現しなければ、朕は譲位する」…自らの進退をかけた天皇の説得、和宮はついに決心するのです。
こうして朝廷と幕府、様々な思いを乗せて和宮降嫁が決定したのです。
第3章
天下太平のセレモニー 和宮降嫁
日本中が大注目
万歳!和宮降嫁
文久元(1861)年10月20日、京都を出発した和宮一行、庶民はどのように祝福したのか、和宮本人はどう思っていたのか。
道中読んだ歌です…
住みなれし 都路出て けふいく日
いそぐもつらき東路の旅
(住み慣れた都を出て幾日が経ったのか、急ぐのがつらい関東への旅路)
落ちていく 身と知りながらも もみじ葉の
人なつかしく これがこそすれ
(紅葉のように落ちて行く身と知りながら、人恋しく思ってしまいます)
そんな和宮の気持ちをよそに日本中がこの一大イベントに興味津津、様々なかわら版が出回ります。
「万歳 皇代のにぎわい」
「庶民はみな万歳を唱えよう」
行列を見物するための冊子、現代のガイドブックまでが出回る始末、随行する役人の名前や順番まで細かく記され、行列の見どころが一目でわかります。
次第に和宮本人にも変化が生まれます…随行した女官の日記 『和宮御側日記』 には…
「和宮様は、毎日御機嫌よくお目覚めになります」
「雨・嵐がきつくても、険しい山道が続いても動じません」
更に庶民のお祝いムードは高まって行くのです。
文久元(1861)年11月15日 和宮一行、江戸到着…京都を出発して25日が経っていました。
第4章
花嫁は皇女様 花婿は将軍様
世紀の御成婚のゆくえ…
幕府泥沼
降嫁が招いた悲劇
文久2(1862)年2月11日、盛大な婚儀が行われました。晴れて和宮は家茂の妻となりました。この時、二人は17歳、女官の日記からラブラブな新婚生活が伺えます。
「4月9日、和宮様は将軍様の乗馬を見学され、その夜はお泊りになりました」
「4月10日、将軍様がにわかにお出でになり、和宮様に金魚を送られました」
幸せな二人、しかしこの結婚がやがて幕府を窮地に陥れる事となるのです。事の発端は孝明天皇の要求でした。
5月15日、天皇は幕府の条約破棄を改めて求めます。…「幕府がぐずぐずしてこのまま外夷に屈したままならば、先皇に申し訳が立たない…10年以内に幕府が軍を起こさないならば、自分が最高司令官となって闘う」(『孝明天皇紀』より)
この発言が反幕府の気運に火を付けました。…京都では過激な攘夷派による天誅が横行、公武合体派の人々が次々に暗殺されます。朝廷関係者までが標的になるほど異常な事態となっていました。
不穏な空気が漂う中、孝明天皇の意志を家茂に伝えるという和宮の使命が重要になって行きます。和宮は家茂に上洛を薦めました。
夫が京都に行き、兄・孝明天皇と気持ちを一つにして攘夷を実行する事を望んだのです。こうして家茂の上洛が決定、しかしこの上洛が更に幕府を追い詰める事となるのです。
文久3(1863)年4月20日、攘夷の嵐が吹き荒れる京都に入った家茂は、こともあろうに攘夷期限を5月10日と約束、…7年~10年という曖昧な期限が突如、20日後せまってしまったのです。
家茂は命じます。… ”海岸防備を厳重にし、外国が襲来した場合は掃攘せよ” 。
文久3(1863)年5月10日、長州藩が実際にアメリカ商船を砲撃、戦争に発展します。翌年欧米4カ国の艦隊は下関を攻撃、長州藩は敗北します。…家茂は譲位問題に加え、暴発した長州の問題まで抱え込むこととなったのです。
家茂の心中を知ってか知らずか、必死に攘夷を迫る和宮、…「なにとぞ打ち払いになるように取り計らって下さい」(『和宮御側日記』文久3年11月7日)
(『和宮書状 徳川家茂宛』)
和宮が家茂に送った手紙には、攘夷は民衆のためと信じ続けた純粋な思いが込められていました。
皇国の威光を立たせて
天下泰平を保ち、万民に感謝されるような
方策を選んでくださいますようお願いします
天下泰平を願って手を尽くす和宮、しかしその役割は突如、終焉を迎えます。
慶応元(1865)年9月、4カ国の連合艦隊は、直接朝廷に通商条約の勅許を迫ってきました。京都からほど近い大阪湾に軍艦を停泊させるという脅迫行為に出たのです。…追い詰められた孝明天皇、…拒んだ条約を勅許せざる得ませんでした。
孝明天皇の条約勅許によって降嫁の意味を失った和宮は、…「何度も何度もおっしゃっている事が嘘である事を願っています」(『静寛院宮御文通留』より)
そして翌年、家茂が21歳で急逝、更に孝明天皇までも崩御してしまいました。
慶応3(1867)年10月、和宮は朝廷に帰京を願う書状を出します。…「異人が丸の内まで徘徊するようになりました。使命が果たせなかったので帰京したい」(『静寛院宮御文通留』より)
エピローグ
江戸を救った徳川の妻・和宮
夫・家茂と兄・孝明天皇を失い、失意の中で帰京を願い出た和宮、幕末の動乱に中で新たな使命を見出す事になります。
慶応3(1867)年10月14日、家茂の後を継いだ徳川慶喜は大政奉還を行い、政権を朝廷へ返還しました。
慶応4(1868)年1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発、薩摩・長州中心の反幕府軍は、錦の御旗を掲げて官軍となり、賊軍となった幕府の軍勢を打ち破ります。
徳川家を取り潰そうとする官軍は江戸へ向け進軍、和宮は朝廷へ徳川家の存続を嘆願します。
徳川の家名の存続は幾重にもお願いします
私の一命に代えてのお願いです
徳川家の滅亡を見ながら
生き残るわけにはいかないので
きっと覚悟を決めましょう
(『静寛院宮御日記』)
自らの命をかけた和宮の嘆願、…そして
慶応4(1868)年3月15日、江戸城明け渡しを条件に江戸への攻撃中止が決定、徳川家存続につながって行くのです。
しかし、この決定を不服とする幕臣たちは徹底抗戦を主張、和宮は全力で幕臣たちの抵抗を抑えます。
神君以来のご家名が立つ事を心がけ
謹慎を守ることが徳川家代々に対する
真の忠義です
そこには徳川家存続の強い思いがあったのです。
江戸を戦火から守った和宮、その後の和宮は、徳川家とも天皇家とも親交を保ちながら、穏やかな日々を過ごします。
明治10(1877)年9月2日、和宮 死去(享年32)
司会 渡辺真理
作家 鈴木由紀子
銅板画家 山本容子
大阪経済大学 教授 家近良樹