NHK 歴史秘話ヒストリア
少年よ 大志を抱け! クラークと教え子たちの北海道物語
北海道開拓の父、クラーク博士
知られざる奮闘の物語
明治の初め、未開の原野が広がっていた北海道、クラークは酪農を教えるため教師としてやってきます。
episode1
クラーク 北海道へ
1826年、アメリカ東部マサチューセッツ州、クラークは裕福な医師の家に生まれます。…進学先は、全米屈指のエリート校・アーマスト大学、成績優秀なクラークは26歳の若さで教授に抜擢されます。
1861年 34歳、南北戦争に義勇兵として参加、クラークは生徒達とともに戦場に向かいました…待っていたのは過酷な現実、激しい戦闘の中、教え子は次々と銃弾に倒れていきました。
戦死者はアメリカ全土で62万人、多くの青年が命を落とし国土は荒れ果てました…国の為、若者の為、自分に何が出来るのか…クラークは問い続けます。
”若者たちに農業を教えよう” …内戦で荒廃した国を救うには農業が必要だと考えたのです。
1867年 40歳、マサチューセッツ農科大学を設立、自ら学長となります。酪農に力を入れます…当時最先端の農業技術でした。
1876(明治9)年 49歳、日本から使者が訪れ、日本で酪農の教師に迎えたいと要請を受けます。…北海道で2年間かけて酪農の専門家を育てて欲しいという依頼です。
大学理事会、家族からも猛反対を受けます…しかし戊辰戦争で荒れ果てた日本の現状を感が見、クラークは決断します。 同じく内戦で傷ついた ”日本を救おう” …でした。
クラークは、大学理事会、生徒たち、家族に、「2年分の仕事を1年で終わらせて帰ってくると」 言い残して日本に向かったのです。
episode2
熱血教師クラーク VS. やんちゃな生徒たち
明治9(1876)年 49歳、クラークは横浜に到着…生徒は16歳~20歳の24人…船で北海道へ向かったのです。
明治9(1876)年8月14日、札幌到着…札幌農学校が開校します。しかし連日のように宿舎で酒を飲んでは暴れる生徒たち、授業もままなりません。
開校から1カ月で5人が退学処分に…更に学外でも…開拓をするには欠かせない農家との関係が行き詰ります。
”牛の餌は草” 牧草を育てる必要があります…近くの農家に依頼するも…「は?…異人さん畑に草を植えてどうするんだい」 …協力は得られません。
反発する生徒に進まない酪農、逆境の中クラークは立ち上がりました…生徒を集めます…実はクラーク自身、大の酒好き…アメリカからお気に入りのワインを大量に持参していました。
それを生徒の見ている前で全部たたき割ったのです。
”私は今後、一切酒を飲まない” …生徒に禁酒させるため自ら酒を断つ事を宣言したのです。
更に校則をその場で破り捨て… ”紳士であれ”(Be gentleman) 規則は紳士である事、ただそれだけ、生徒を一人の大人として扱い、その自主性を重んじる事にしたのです。
(誓約書…イエスを信ずる者の誓約)
生徒たち直筆の誓約書が残っています…酒を止め、勉学に励む事を誓った誓約書に15人の生徒全員が署名しました。
そして生徒たちの意識を根底から覆す出来事が起こります。…植物観察の為、クラークと教え子たちが山に登ったときの事。
木の幹に珍しい苔を見つけたのです…しかし手が届きません…するとクラークが四つん這いになり、自分の背中に乗り苔を取れと指示したのです。
当時の日本で生徒が師の背に乗るなんて考えられません…しかしクラークは有無を言わせません。…この時採取された苔は後に新種である事が判明し、クラーク苔と名付けられました。
教師と生徒という立場を超え、クラークと教え子たちは強い絆で結ばれて行くことになるのです。
同志社大学 社史資料センター 小枝弘和さん
「兄のような人、ものすごくとっつきやすい、学生と距離が近い人だったようです。だから生徒には熱を入れてしまう…近さがクラークの最大の魅力だったんです」
いつしか生徒たちは酪農技術の習得に没頭して行くことになったのです。
episode3
時計台 愛と別れのメッセージ
明治10(1877)年2月、クラークが日本に来て8カ月がたちました…酪農は少しずつ根づき始め開拓は順調に運んでいました。
帰国の日が近づく中で西南戦争が勃発します…西郷隆盛を旗頭に元武士の勢力が明治政府に反旗を翻します。
教え子たちの為に何が出来るか…クラークは自分の帰国後、北海道の開拓をどのように進めるべきか、その提言をまとめ政府に提出します。
(札幌農学校一年報)
そこに記されているのが… ”military drill hall 演舞場”、…生徒たちが軍事訓練を行う為の施設を建設する事でした。
(演武場設計図 …現在の札幌時計台)
(演武場開講式 …現在の札幌時計台)
1階は普通の教室、2階は、軍事訓練場です。…武器を保管する部屋もありました。クラークはここで生徒たちに武器の取り扱いや格闘術など身を守る術を学ばせようと考えたのです。
札幌時計台 次長 門谷陽さん
「クラーク博士は、アメリカの南北戦争で学生たちが兵士としての訓練をしていないから、有能な学生たちがバタバタと死んでゆく姿を目の当たりにした。…戦争が起こったときに農学校の生徒が対応できるように演武場を提案したのです」
札幌市時計台、そこには二度と生徒を戦いで失いたくないというクラークの強い願いが込められていたのです。
明治10(1877)年4月16日、クラークが札幌を去る日がやってきました…クラークと生徒たちの別れの時、これからは自分たちだけの力で開拓を進めなければならない。生徒たちは不安と決意を胸に見送りに集まりました。
いよいよ別れの時が来た
先生は進み出て
私たち一人ひとりと握手された
私たちは誰も顔を上げる事が出来なかった
あたかも父を失うような思いであった
(『見送った生徒の回想』より)
帰国の途につくため馬上の人となったクラーク、そしてあの明言を口にします。
”Boys,be ambitious 少年よ大志を抱け”
大変有名なこの言葉、実は続きがあります。
”Boys,be ambitious like this old man.少年よ大志を抱け、この老人のごとく”
少年よ大志を抱け この老人のごとく
そう叫ぶなり
さっとばかりに行ってしまわれた
クラーク先生はもうおられない
(『見送った生徒の回想』より)
挑戦することの大切さを、自分の生き方から学んでほしい…それが教え子たちに残した最後のメッセージでした。