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坂本龍馬 幻の国家プランに迫る!

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NHK BS歴史観 坂本龍馬 幻の国家プランに迫る!

幕末の英雄、坂本龍馬…混迷の時代を駆け抜け、日本の夜明けをもたらした男。…しかし、志し半ばで非業の最期を遂げました。

その龍馬が死の直前、日本に向けたラストメッセージを残していた事をご存知でしょうか。…貴重な資料が下関の博物館に残されています。

1867年の11月に書かれた『坂本龍馬の新政府綱領八策』 自筆です。
日本の大改革を掲げた、龍馬による国家プランと呼ぶべきものです。

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そこに記されているのは、国家に必要な人材を選ぶための選挙…憲法の制定、二院制の議会、海軍陸軍の創設といった当時としては画期的なものばかり…。そして、いずれも明治新政府の時代に実現したのです。

土佐の脱藩浪士だった龍馬がなぜこれほどの国家プランを思い描く事が出来たのか…。

更に近年、新たに注目を集めた龍馬の意外な事実があります。…「幕府を倒したければ贋金を作れ」 龍馬の贋金製造計画に故郷の土佐藩は騒然となります。…しかしこの大胆な発想が日本を動かして行く事になるのです。

そして龍馬の国家プランの最大の謎、…『新政府のリーダーは000?』 実名を伏せて記したのです。

そこに秘めた龍馬の思惑とは・・・。

 

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青山学院大学 教授 榊原英資
「龍馬の真骨頂は商人的発想です。経済がわかっている。…商人的な事は司馬遼太郎は強調していません。薩長同盟も経済的取引を仲介したのです。商人的なDNAを持っていたのです。金銭的な事を抜きに幕末の志士的な発想で龍馬を見ても理解できませんよ…商人として見るのが一番正しいでしょう」

明海大学 教授 岩下哲典
「龍馬はいろんな人と出会う中で常に成長していった人です。…私は情報の人、龍馬という見方をしています」

作家 童門冬二
「僕は幕末を第二の戦国時代だと思っていますから、坂本龍馬は心優しき織田信長だと思っています」

明海大学 教授 岩下哲典
船中八策というのは信頼できる写本がありません…ですから有名な『船中八策』ですが歴史学で使う事ははばかられます…確実に龍馬のものだと言われているのがこの『新政府綱領八策』です。


龍馬はなぜ国家プランを作ったか?
『新政府綱領八策』とは…

第一義:世の中から広く有能な人材を募り、朝廷(天皇)を中心とする体制を作る
第二義:第一義と同様
第三議:その新体制が作る議会によって外交が行われる
第四義:国家の大典=憲法の制定
第五義:二院制議会
第六義:海陸軍の創設
第七義:親兵
第八義:国際通貨である金銀のレートを世界と同じにする
※外交、軍事、経済と当時の日本が目指すべき国家の全体像が示されているのです。


龍馬発想の原点! 運命を変えた出会い

龍馬が新政府綱領八策を下記上げたのは、土佐藩を脱藩してから僅か5年後のこと、一介の浪士でしかなかった若者がなぜ自ら国家プランを描くまでに至ったのか。

それは、勝海舟との出会いだったのです。

 

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文久2年(1862)江戸、龍馬28歳…藩命により、剣の修行のため江戸に滞在していた時の事でした。日本の将来を憂いた龍馬が訪ねたのが勝海舟でした。

この時、龍馬は返答次第では海舟を切り捨てる覚悟だったといいます。…しかし、龍馬は海舟の言葉に強く心を動かされるのです。

「これからは幕府の時代ではない。全国の有能な諸藩の代表が集まって連合政権を作り、欧米列強に負けない近代国家へと日本を変えるべきだ」

もはや幕府は必要ではない… 幕臣でありながらそう言い放つ男に龍馬は敬服、なんとその場で弟子入りを志願します。

勝海舟勝麟太郎)、彼こそ幕末の開国政策を進め、日本の近代化を導こうとした幕府開明派の一人です。…アメリカに渡った海舟は、当時の世界情勢を知る数少ない知識人でもありました。

そんな海舟との出会いの感動を龍馬は故郷の乙女姉さんへの手紙にユーモアをこめて書き記しています。…「さてさて人間の一生とは分からぬもの、運の悪い者は風呂から出ようとしてきんたまをぶつけて死ぬようなものもおります。それに比べて私などは運が強い…今は日本第一の人物、勝麟太郎先生の弟子となって海運の修行に励んでおります」

海舟の弟子となった龍馬は、日本にとって史上初となる国軍としての海軍の創設に奔走します。


幕末も押しつまり、日本は薩摩藩など有力な諸藩が単独で外国と戦争を起こすという不穏な状況を迎えようとしておりました。(文久3年(1863)7月 薩英戦争)

押し寄せる外圧に対し、もはや藩ごとの軍隊では対応は不可能だと海舟は強力な海軍を作り、それを引き金に日本の近代化を推し進めようとしたのです。

元冶元年(1864)5月、そして神戸に創設されたのが海軍操練所です。…全国の諸藩から多くの若者が集い、軍艦の操縦や航海術を学びました。…じつは、勝海舟のこの発想が龍馬の成長に大きく影響を与えたのです。


龍馬 長崎が育んだ情報力

龍馬を変えた海舟との出会い、そしてそれが人生の次への飛躍につながります…薩摩藩西郷隆盛との出会いです。

海舟から龍馬を紹介された西郷は、薩摩藩の貿易を手助けしてほしいと龍馬に頼みます。…その舞台となったのが長崎、…幕府の開国政策によって日本最大の国際貿易都市に変貌していました。

 

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港には欧米からの貿易船が頻繁に行き交っていました。…その長崎で龍馬が始めたのが『亀山社中』あの海援隊の母体となった日本最初の会社です。

亀山社中の仕事は、長崎を拠点に薩摩藩のための商取引を行うという、いわばエージェントのようなもの…この長崎での経験が龍馬に卓越した情報収集能力を得たのです。

龍馬がいかに卓越した情報収集能力を持っていたかを示す資料があります。…龍馬の書いた近時新聞(最新ニュース)と題した手紙です。

近時新聞「このところ薩摩藩に対し幕府は、媚びるような態度をとっていましたが新たな将軍の慶喜公は、これまでと異なるところが多く、みな油断できないと言っております」

京都の情勢や幕府の内部事情を龍馬は極秘に入手していたのです。…この情報を受け取っていたのが木戸孝允を筆頭地する長州藩でした。

当時、長州は幕府と戦争を起こし孤立した状態でした。そんな長州にとって龍馬からの情報は欠かすことのできないものだったのです。

更に長崎にいたイギリスの武器商人、トーマス・グラバーとも取引を行い、長州への武力援助にもつなげて行きます。

シーボルト記念館 館長 織田毅さん
「最新で確実なニュースを見つけてくる…それが龍馬の政治的基盤であったのです…情報を分析して発信する事によって政治的感覚を磨いていったのです」

勝海舟オールジャパンの発想で目覚めた龍馬
長崎で情報の重要性をみおもって知った龍馬
かれは次第に来るべき時代の日本の姿に思いを巡らせて行く事になるのです。


龍馬は志士か商人か?

青山学院大学 教授 榊原英資
「元々、龍馬の本家は才谷家です。豪商ですよね…土佐の…商人的なDNAを持っているわけですよ。海援隊=総合商社ですよ」

「非常に重要なのはトーマス・グラバーとのやり取りです。グラバーが密輸入で持ってきた武器を薩摩の名義で買って長州に流したんです…その頃、長州は朝敵ですから直接買えないのです。…だからちゃんとニーズはどこにあってそれを仲介すれば商売になる事を龍馬はわかっていたのです」

「グラバーは言ってますよ…”幕府を倒したのは俺だ” とね」

 

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作家 童門冬二
海援隊規約に書いてあるんです…海援隊の経費というのは自分達の行う貿易で賄うと…金がなければ何もできないという事を一番知っていたのが龍馬」

士農工商の意識で武士は金銭を扱う事を卑しいと思っていた。 ”武士は食わねど高楊枝” 的な思想が残ってるんです。龍馬は真な事かまわないから…つまり ”武士は食わねど高楊枝” 的な観念をたたき壊したってところですね」

明海大学 教授 岩下哲典
勝海舟は当時最高の知識人です…当時の西洋の状況を一番良く知っている人間です…そういう人と出会う事によって長崎において経済感覚、国際感覚を身に付けたと思います」


天下国家は金で動く!
龍馬の贋金計画とは?

近年、龍馬を巡る意外な事実が注目を集めています。幕府を倒すために指示したという贋金製造計画です。…それは龍馬と入魂の間柄にあったある土佐藩士の書簡に記されてありました。

土佐藩重臣 佐々木高行(「保古飛呂比」より)
「龍馬からこんな言伝がありました。薩摩藩が密造している、万延二分金の贋金を入手して来い。そして手に入れたら作り方を調べ、土佐藩でも同じものを作るべきだ」

この書簡が書かれたのが慶応3年10月4日、その10日後には、徳川慶喜によって大政奉還が宣言されようとされていた時期です。…龍馬は何のために贋金を作れと言ったのか…その真相について調査を行った作家の竹下倫一さんはこう語ります。

作家 竹下倫一 著作『坂本龍馬の「贋金」製造計画』 
「今後、大政奉還が成るにしろ、成らぬにしろ、国内が戦争状態になるだろうと龍馬は思っていました。その為の軍資金を用意しておけと…その為に土佐藩で裏金をつくれと進言したのです」

混乱の時代に備えて贋金を作れ、…その背後には幕末ならではの特殊な経済事情が読みとれます。

龍馬が贋金を作ろうとしていたのが『万延二分金』…幕府発行の金貨です。金貨といっても銀を混ぜ金の含有率を落としたいわゆる改鋳貨幣、…幕府はこの万延二分金を大量に作り、財政難と軍資金に当てました。…その発行額は今なら数兆円に上るといいます。…(つまり幕府自体が質を落とした貨幣で軍資金を得ていたわけなんですね)

龍馬は幕府が巨大な軍資金を手にし、巨大化することを危惧したと見られます。

商人の家に生まれ、亀山社中海援隊と入用の金は全て自分で用意してきた龍馬、何をするにも金がいる…彼は経済の力が武力に劣らず大きな決め手になる事を身をもって知っていたのです。

しかし土佐藩では贋金作りは立派な違法行為、武士として恥ずべき行いだと躊躇し、龍馬の計画を刎ねつけます。…ところが結局、龍馬の死後、幕府方との武力衝突を契機に土佐藩は贋金作りに手を染める事になるのです。

実は当時、貨幣の密造は全国のあらゆる藩で行われていました…幕末、経済戦争が繰り広げられていたのです。財政難に瀕していた諸藩は、来るべき内戦に備え、海外から武器を購入するために貨幣を密造していました。…その中には佐幕派の代表であった会津藩も含まれていました。

 

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龍馬は、倒幕を実現するためには経済を制する必要があると見抜いていたのです…共に政治工作を行った土佐藩後藤象二郎に宛てこんな事を記しています。

「江戸にある銀座造幣局を朝廷のある京都に移す事です。これさえ実行できれば将軍など名ばかりで実が無くなり、幕府を恐れる事などなくなります」

龍馬の人並み外れた経済感覚、それは彼自身の国家プランにどのように反映していったのでしょうか・・・。

青山学院大学 教授 榊原英資
「造幣権は強大です…それだけの価値の無い物をそれだけに使わせるのですら…1万円札だって原価は何十円か知らないけど1万円だろ言うわけですからね…これは幕府の信用です…鋳造権を奪うということは信用を奪うのです」

作家 童門冬二
海援隊規約に書いてあるんです…海援隊の経費というのは自分達の行う貿易で賄うと…金がなければ何もできないという事を一番知っていたのが龍馬」

士農工商の意識で武士は金銭を扱う事を卑しいと思っていた。 ”武士は食わねど高楊枝” 的な思想が残ってるんです。龍馬は真な事かまわないから…つまり ”武士は食わねど高楊枝” 的な観念をたたき壊したってところですね」

明海大学 教授 岩下哲典
勝海舟は当時最高の知識人です…当時の西洋の状況を一番良く知っている人間です…そういう人と出会う事によって長崎において経済感覚、国際感覚を身に付けたと思います」

 

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龍馬奮闘!
000の謎とは?

龍馬が暗殺直前に書き上げたという新政府綱領八策…そこには幕末の混乱を切り開く龍馬ならではの起死回生のアイディアが隠されています。

慶応2年(1866)1月、龍馬32歳、龍馬立会いのもと西郷隆盛木戸孝允が会談、…薩長同盟が結ばれます。薩摩藩が幕府と敵対する長州藩を援助する事を約束…一気に武力倒幕の流れが出来たかに見えました。

しかし、倒幕勢力は決して一枚岩ではありませんでした。…各藩それぞれの思惑が蠢いていたのです。

 

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慶応3年(1867)6月、龍馬33歳、…土佐藩薩摩藩が薩土同盟を結びます。…土佐藩は徳川家が政権を朝廷に返上する事で平和裏に新政権を樹立すべきだと主張。…その意見に薩摩藩も同意したのです。

そしてこの同盟の仲介人も龍馬でした。

するとそんな龍馬に対し、武力討幕を推進する長州藩木戸孝允が怒りを露わにします。…「初めは強く出ていたのに終わりで女のようになるのは土佐藩のいつもの癖だ…最後まで脱兎のごとくあってもらわねば困る」(慶応3年8月21日、木戸孝允が龍馬に宛てた手紙より)

武力による倒幕か平和路線か…どちらの勢力ともつながりを持つにいたった龍馬は苦境に立ちます。…そんな状況下で渦中の人物であった徳川慶喜が突然動きます。

慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜大政奉還を宣言! …自ら政権を返上する事で武力倒幕派大義名分を失わせるのが目的でした。

龍馬はこれを機に幕府に代わる新政府の樹立を図ろうと動き出します。

慶喜は新政府の体制を話し合うため全国の大名たちに京都に集まるよう呼びかけます。…ところがここで事態は思うように展開しませんでした。…慶喜の呼びかけに殆どの大名が応じなかったのです。

新体制の実現を目の前に日本の政治に空白の期間が生じました。…そして正にこの時期、龍馬が書き上げたのが『新政府綱領八策』でした。…緊迫する中で龍馬はなぜ、あえて自らの国家プランを書いたのか…その理由を幕末史研究家の松浦玲さんはこう語ります。

幕末史研究家 松浦玲
「京都に大名を集める事が出来ないわけですからね…出てこない。大丈夫だから出てこいというだけの旗を振る勢力が京都に出来ないと駄目なんです…焦りというと表現が悪いけど、行き詰っている状況を打開しようととにかく動きだそうという呼びかけですよね」

そして龍馬は自らの国家プランである『新政府綱領八策』をこんな謎めいた言葉で締めくくっているのです。

 

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「以上八つの議題を数名の開明的な人物と話し合いたい…000自らが議会の名士となって議論を決し、朝廷と天下万民に知らせるものとする」

新たな政府の名士となる人物は『000』 …龍馬はこの新政府綱領八策を複数書き要人たちに送りました。…新政府のリーダーの名前をあえて書かなかったのはなぜなのか…


龍馬のラストメッセージ
暗殺直前! 幻の国家プラン

新政府綱領八策の日付は慶応3年11月と記されていますが、龍馬が刺客の手によって暗殺されるのが11月15日…。

幕末史研究家 松浦玲
「000というのは、受け取った側がしかるべく解釈して読めという事でしょうね」

受け取った側が新政府のリーダーとなるにふさわしい人物を勝手に入れて読む事が出来るよう、あえて ”000” と空欄にしたというのです。

幕府であれば徳川慶喜
土佐であれば山内容堂
薩摩であれば島津久光

独自の国家プランとセットで示した ”000” という新たな日本のリーダー…龍馬の真意はどこにあったのでしょうか…。


龍馬の国家プラン
その最終局面は…? 龍馬最後の日々を追う

大政奉還後、自らの国家プランを書き上げた龍馬、ところが実はこの時、龍馬も知り得なかった事態が水面下で動き出していたのです。

徳川慶喜大政奉還を宣言したその日、極秘に画策を続けていた薩摩藩長州藩と共に驚くべき計画を企てていました。…慶喜を抹殺せよとの朝廷命令。…倒幕の密勅です。

この倒幕の密勅を切り札に西郷、大久保、木戸ら武力倒幕派は一気に巻き返しを図ります。

 

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一方、何も知らない龍馬は新政府を平和裏に樹立させるため京都で奔走していました。…暗殺の4日前、龍馬は同志に宛てこんな手紙を書いています。

「行動すべき時は今なのです。私は幕臣の永井玄蕃の元を訪れ、これからの事について、いろいろと議論を交わしました。・・・・・永井と私の関係はヒタ同心、考えも行動も一心同体であるとお考えください」(慶応3年11月11日 林謙三宛て書簡)

 

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龍馬が今後の日本について語り合った人物とは、当時慶喜の側近であった永井玄蕃、恩師勝海舟の上役にあたる幕府開明派の重鎮です。…龍馬はその永井と何度も密会を交し、来るべき新政府の構想を練っていたのです。…この時、龍馬は永井に対し、新政府の中枢に慶喜を迎えるべきだと進言します。

幕末史研究家 松浦玲
「もう戦争の必要はないということを永井にしゃべって平和裏に新政権の方へ持っていくという話があって龍馬はそれの中心であると…しかし、これは西郷や大久保にとっては困った事なんです」

そして慶応3年(1867)11月15日、京都…国家プランの実現に向け走り出したその矢先、龍馬は京都の潜伏先で暗殺されます。…龍馬暗殺(享年33)

志し半ばの無念の死でした…。

動乱の時代と格闘し続けた龍馬…がんじがらめの体制を打破し、新しい日本の姿を追い求め行動し続けた龍馬…龍馬は念願の新政府誕生をその目で見る事無くこの世を去りました。

しかし、憲法や議会、軍隊の創設といった国家プランはその後、誕生する明治新政府によって受け継がれる事になるのです。