(楢崎龍 1842-1906)
NHK 歴史秘話ヒストリア
龍馬が愛した女 ~お龍 知られざる素顔~
幕末のヒーロー、坂本龍馬…その龍馬が愛し、妻として生涯の支えとしたのが、お龍です。
・ピストルの腕前は男より上
・月琴という珍しい楽器の名手
…世の中の常識にとらわれない不思議な魅力を持つお龍は、あの龍馬をして ”おもしろき女” として言わしめたほどでした。
(お龍 1842-1906)
上記は龍馬の妻、お龍の64歳の時の写真、…明治以来、若い頃のお龍の写真は無いと言われています。ところが近年、お龍ではないかという写真が見つかりました。
京都国立博物館(京都市東山区)に所蔵された明治時代初期に作られたアルバム、中井弘という薩摩藩出身で京都府知事を勤めた人物が残しました。
幕末に活躍した、岩倉具視、勝海舟、大久保利通、木戸孝允など中井と関係のあった重要人物が次々と出てきます。
この中で唯一女性の写真があります。… 『お竜』 と書かれたこの女性こそ坂本龍馬の妻・お龍ではないかというのです。
証言によれば、お龍は瓜実顔の美人であったといいます。
平成20(2008)年、警視庁・科学警察研究所が真相究明に乗り出します…科学警察研究所は、犯罪捜査で使われる技術を応用して、晩年のお龍と写真の女性が同一人物かどうかを鑑定しました。
目・鼻・口・耳などの各パーツに加え、年齢による変化の出ない顔の骨格など、様々な検討が重ねられました。
その鑑定結果は、… 「よく似た特徴が散見される為、同一人物の可能性がある」 …しかし、本人だという決定的な根拠は見つからず、今も写真の真相は解明されていません。
謎に包まれた、お龍の素顔、お龍とはいったいどのような女性だったのでしょうか。
episode1
龍馬とお龍の出会い
天保12(1841)年、お龍は京都の医者の娘として生まれます。裕福な家庭で華道、香道、茶の湯などを修めた女性でした。
医者でありながら熱心な勤王派だった父の元には、長州など幕府に批判的な藩の武士が多く集まった。こうした環境で育ったお龍は、当時の政治状況にも明るかったのです。
文久2(1862)年 お龍22歳、転機が訪れます。父は病死し、一家は暮らしに困り、母はだまされ、妹が身売りに出されてしまいます。
その時の、お龍の行動が手紙に残されています。…騙されたと知ったお龍は、妹を追いかけて単身大阪に乗り込みました。
「妹を返せ…面白い、殺せ!」(『坂本龍馬の手紙』より)
相手が一瞬ひるんだ隙に、お龍は金を返して妹を取り戻しました。普段はおしとやかなお嬢さんですが、家族を守るためには命も顧みない、そんな男勝りの一面も持っていたのです。
龍馬とお龍の出会いは、京都三十三間堂近くに龍馬の隠れ家があり、そこでお龍の母・貞がまかないとして働いていたのです。
お龍は母を手伝ううちに龍馬と知り合ったのです。
元治元(1864)年 お龍24歳、6歳年上の龍馬と出合います。お龍は回想録で龍馬との出会いをこう語っています。
「名前は、聞かれ、『お龍』 と答えると 『わしと同じじゃ』 と二人はすぐに打ち解けました。お互いの身の上話で大いに盛り上がりました」(『千里駒後日譚』より)
対して龍馬は、お龍をどう思っていたのか…
(龍馬が姉・乙女に宛てた手紙)
2段に分かれた手紙、お龍の話は下の段いっぱいに書かれています。
京都国立博物館 学芸部企画室長 宮川禎一
「この手紙、実はもともと一枚の巻紙の表と裏に書かれたものです。龍馬は身売りされた妹を取り返す話を表に一気に書いて、その次に紙を裏返して他の用件を書いています。
龍馬は最初に、お龍の面白さ、おかしさ、ユニークさを実家のお姉さん・乙女へ知らせようとしたんです。
手紙全体の構成からすると、最初にお龍さんの事をお姉さん・家族に知らせようとした手紙である事が分かります。…」
「まことに面白き女、…花いけ、香をきき、茶の湯」(『龍馬が姉・乙女に宛てた手紙』より)
龍馬は、お龍の事を、華道、香道、茶の湯をたしなみ女性でありながら、ときには無法者とも渡り合う、そんなお龍の不思議な魅力を龍馬は夢中になって家族へ伝えようとしていた事が手紙から伺えます。
(龍馬が姉・乙女に宛てた手紙)
一方、お龍は龍馬をこんな風に見ていました…
龍馬は、それは妙な男でして
まるで人さんとは
一風違っていたのです。
少しでも間違ったことは
どこまでも正さねば承知せず
明白に謝りさえすれば
すぐに許してくれまして
「この後は、かくかくせねばならぬぞ」
と丁寧に教えてくれました。
(『千里駒後日譚』より)
それからお龍は、男装をして龍馬と茶屋で遊んだり、当時の女性ではあり得ない事もしています。
元治元(1864)年6月、池田屋事件で長州・土佐藩の武士を新撰組が襲い50人近い犠牲を出します。この時、新撰組の手は龍馬の隠れ家にも及び、お龍の母・貞が拘束されるなどの事件が起こります。
そして龍馬は決断します…お龍やその家族を守るため、お龍を妻に迎えます。祝言は親しい仲間だけ、お龍と出会ってから3カ月のスピード結婚です。
episode2
龍馬を救え! お龍決死の活躍
晴れて夫婦になったお龍と龍馬ですが、二人は新居を構えたわけではありません。龍馬は、お龍を伏見(京都から10キロ)の寺田屋という船宿に預けます。
新たな日本を作る為、龍馬は各地を飛び回り、その合間にお龍のいる寺田屋に何日か滞在しました。お龍はその間、龍馬の世話をしていたのです。
実は、二人の結婚は仲間内だけが知る秘密だったのです。
慶応2(1866)年1月22日、京都の薩摩藩邸で龍馬の立会いの元、薩長同盟が成立します…時代は討幕へと動き出します。
(寺田屋)
慶応2(1866)年1月23日深夜、伏見奉行所の捕り方が寺田屋を襲います…この時、1階にはお龍、2階に龍馬と護衛・三吉慎蔵、…
私は風呂にはいっておりました
ところがコツン・コツンという音が
聞こえるので
変だと思っている間もなく
風呂の外から私の肩先へ
槍を突き出しました。
(『千里駒後日譚』より)
慌てて風呂から出たその時…2階にいるのは誰だと聞かれ、「薩摩の西郷さん、もう一人はわかりません…」 お龍はとっさに龍馬をかばいました。
捕り手たちが表玄関へ回っている間に、お龍は秘密の裏階段で2階へ上がり、龍馬の部屋に先回りします。
龍馬はすぐに護身用のピストルを手に取り、三吉は槍を構えます。捕り手との小競り合いが始まり、龍馬は手を斬られ負傷、何とか2階から脱出します。
(伏見)
塀を破って寺田屋の北側に出た龍馬と三吉、二人は800m北の薩摩藩邸を目指します…ところが幕府の厳重な警戒にあい、一旦川沿いの材木置き場に身を潜めます。
「龍馬手傷…材木置き場…血染め、羽織」(『伏見奉行所 報告書』より)
龍馬は大量に出血し、薩摩屋敷まで歩けない状態でした。…一方、お龍は龍馬とは別の道を逃げていました…
豊後橋まで走りつき振り返ると
町はいっぱいの高張提灯です
人のいる所は、そろそろと
知らぬ顔で歩き
人に見えぬところは下駄を脱いで
一生懸命に走りました。
(『千里駒後日譚』より)
一旦、お龍は捕り手から逃げるため、龍馬たちと反対方向へ逃げますが、Uターンするのです。
歴史地理史学者 中村武生
「回想録でお龍は、 ”もう会えないかもしれないのでもう一度顔を見たかった” と言っています」
…町中に戻ったお龍は、龍馬が逃げ込むであろう薩摩屋敷を目指しました。
ところが捕り手を避けて走るうちに薩摩屋敷を通り越し、竹田街道に出てしまいます…
竹田街道へ出ましたので
これは駄目だと思ってまた引き返し
かや夜明け方となって
やっとの事で薩摩屋敷へつきました。
(『千里駒後日譚』より)
お龍から事情を聞いて初めて事件を知った薩摩藩は驚き、龍馬救出へ動き出します。一方、材木置き場の龍馬はどんどん弱って行きます。
三吉は逃げるのを諦め切腹しようと言いだします。…しかし龍馬は諦めません。三吉を一人で薩摩屋敷に救援を求めに行かせます。
三吉がいない間に龍馬が見つかれば万事休す…危険な賭けでした。
やっとの事で三吉が屋敷に到着すると既に龍馬救出の準備が進んでいましたす。すぐさま救援隊が送られ、龍馬は間一髪で保護されたのです。
真夜中から夜明けまで必死で走り続けた甲斐あって、お龍は龍馬と再び会う事ができました。
歴史地理史学者 中村武生
「… やはり、お龍が薩摩屋敷に事件を伝えた事が大きいです。大名屋敷は一つの役所です。三吉慎蔵が駆け込んできたとしても、扉を開けさせて、留守居役を起こして事件を伝えるだけで相当な時間がかかるのです。
三吉が来る前に、お龍が駆け込んでいて、龍馬救出の準備が出来た状態で三吉を迎えることが出来たから、速やかに龍馬救出に行けた点が大きかったと考えます。…」
薩摩屋敷で、お龍は献身的な看護を行います…その甲斐あって龍馬は一月ほどで回復します。
「この龍女おればこそ、龍馬の命は助かりたり」(『龍馬が姉・乙女に宛てた手紙』より)
以後、龍馬は、お龍を自分の妻だと周囲に明らかにしたのです。
歴史研究家 鈴木かほる
「龍馬は、寺田屋騒動の後は、お龍を公然と連れて歩きます。仲間から 『女を連れて』 とあれこれ言われながらも連れて歩くんです。それは龍馬がお龍の事を真のパートナーと見たからだと考えます」
秘密の妻から、誰もが認める龍馬夫人へ…お龍は龍馬にとってかけがいの無いパートナーとして共に歩んで行く事になるのです。
episode3
お龍と龍馬、永遠の愛
慶応2(1866)年3月、怪我から回復した龍馬は、お龍とともに汽船に乗って旅に出るのです…二人の身を案じた薩摩藩・西郷隆盛が手配したものでした。
行先は薩摩、往復3ヶ月のこの旅行は、日本初の新婚旅行と言われています。
塩浸温泉(鹿児島県)、高千穂峰(鹿児島・宮崎県)などをを訪れ、ニニギノミコトの天逆鉾を引き抜いたなどの言い伝えは有名です。
しかし時代は龍馬をいつまでも休ませてはくれません…龍馬は再び京の都にもどり、お龍は危険をせる為、下関の知人に預けられたのです。
龍馬は大政奉還の実現に奔走、その合間を縫ってお龍に手紙を書きます…「京には30日ばかりいる予定、用事が済めば、すぐ長崎に戻ります。その時必ず必ず下関にちょっとだけでも帰ります」(『龍馬の手紙』より)
慶応3(1867)年10月、徳川慶喜は将軍職を返上、大政奉還が実現、250年の徳川の世は終わりを告げ、龍馬の目指す新しい日本が目前に迫っていました。
その2ヶ月後
龍馬の護衛、三吉がお龍を訪ねます
慶応3(1867)年11月15日、幕府配下の見回り組に襲われ、龍馬暗殺を伝えられたのです。
お龍は黙って三吉の言葉に耳を傾けていました…
仏の前に座り
しばらく合掌していましたが
大ばさみを手にもつやいなや
黒髪をぷっつり切って白紙に包み
仏前に供えて
わっと泣き出しました
今まで我慢に我慢をして
泣いては女々しいと
耐えていたものが
龍馬生存中のいろいろが
胸に浮かんできて
我慢がしきれなくなって
思わず泣き倒れたままでした。
(『反魂香』より)
龍馬の死からしばらくして、お龍は下関の桜山神社を訪れています…この神社には、龍馬と親しかった高杉晋作の発案で吉田松陰を始め、維新の動乱の中で亡くなった人々の慰霊碑が建てられていました。
お龍は龍馬に代わって、それらの人々を弔うために歌を詠みます…
もののふの
屍はここに桜山
花は散れども
名こそ止むれ
命は散っても、この地に眠る人々の栄誉は永遠に散る事は無い…龍馬亡き後もお龍は、龍馬夫人としての務めを懸命に果たそうとしたのです。
その後、戊辰戦争を経て新しい時代、明治を迎えます…世の中は文明開化一色となり、坂本龍馬もやがて人々の記憶から遠ざかって行きました。
明治16(1883)年、そんな中、ある本が出版されます。龍馬の伝記小説 『汗血千里駒』 …このい本によって明治維新の立役者、龍馬の活躍が初めて脚光を浴びたのです。
(龍馬の伝記小説 『汗血千里駒』)
これをキッカケに坂本龍馬は、幕末維新の英雄として西郷隆盛と並び称されるようになります。…そんな中、横須賀の侘しい裏長屋を訪ねる青年がいました。
青年が訪ねた相手こそ、再婚して 「西村ツル」 と名乗っていたお龍でした。青年は海援隊でお龍も知っている隊士の息子(『千里駒後日譚』の取材)でした。
久しぶりの再会を喜んだ、お龍の口からは、龍馬との思い出が次々と溢れ出てきました。
龍馬が生きておったなら
またなんとか面白いことも
あったでしょうが
これが運命というものでしょう
死んだのは
昨日のように思いますが
はや三十三年になりました。
(『千里駒後日譚』より)
明治39(1906)年 お龍永眠 享年66
晩年を過ごした横須賀・信楽寺に葬られました…墓石には、お龍の意志によって再婚後の、西村ツルではなく、坂本龍馬の妻・龍と刻まれています。
お龍は最後まで、龍馬を支えた妻としての人生を貫き通そうとしたのです。