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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

痛快!江戸のお騒がせ男 天才・平賀源内の先走り人生

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NHK 歴史秘話ヒストリア
痛快!江戸のお騒がせ男 天才・平賀源内の先走り人生

平賀源内は、江戸時代半ばの天才文化人です
・日本で初めて電気を発する機械、エレキテルを制作
・日本人で初めて油絵を描いて西洋画の技術を世に広めたり
・娯楽小説のベストセラー出す
・商品の宣伝文句を書くコピーライターとして名を上げたり

と何でもできるスーパースター・・しかしこれほど人気と実力があるのにどういうわけか『貧家銭ない』で借金まみれ・・平賀源内の謎の借金生活、それは天才ならではの時代を先走り過ぎたための悲劇だったのです。

享保13(1728)年 江戸時代半ば、高松藩香川県)で下級武士の子として誕生します・・手先が器用で人を驚かすことが好きな源内は天狗小僧と呼ばれていました・・成人した源内の仕事は、ただ米蔵を守り、薬草園の世話をする事だった。

宝暦2(1752)年 源内25歳で大きく運命が変わります・・九州長崎への遊学です・・外国から様々な珍しいものが入ってきました。

望遠鏡、映写機、見た事もない動物が書かれた学術書、世界の広さを垣間見た源内は決意します。

「藩の枠から飛び出そう!」

長崎から戻るや源内は破天荒な行動に出ます・・藩の仕事をやめ浪人となり、大都会江戸へ飛び出したのです。

宝暦6(1756)年 源内29歳、江戸に到着、そして湯島の学問所(湯島聖堂)に身をよせ最先端の学問『本草学』を学び始めます・・珍しい動植物や鉱物を研究し、そこから新たな産業を生み出そうとする注目の分野です。

初めの源内の新しい発想:全国から珍しいものを集め物産展を開きましょう(当時の藩の枠を取っ払う斬新な考え)・・で大盛況!

そして源内は、「日本国内の産物を出し尽くせばオランダや中国から持ち込まなくとも事足りるはずである」・・輸入に頼らず国内の物産で産業を起こして国益につなげる・・これが源内の目標となったのです。

明和元(1764)年 源内37歳、源内は秩父石綿アスベスト)を見つけます・・源内はひらめきます「これを布として編み出せれば国益につながる」・・そして出来たのが小さな試作品(2センチ四方)『火浣布』燃えない布です。

幕府の役人に大きなものは織れるかと尋ねられますが源内 「もちろんです」 と応えます・・早速幕府が中国の商人から注文をとりつけます。2m70㎝×70㎝と大きなもの・・結局、この大きなものを制作するのは困難で話は流れます。

源内は、『火浣布』をほったらかして金の採掘事業にのめり込みます・・他にも突然、長崎から羊を連れてきて毛織物作りを試みたり・・『源内焼』と名付けた安く作れる陶器を研究・開発したり・・国の利益を目指すとはいえ興味のわくまま次から次へ。

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源内に会えば何か面白い事が起きる・・源内の自宅は有名人のサロンのようになっていました。
杉田玄白が『解体新書』を作るキッカケとなった西洋の書物の翻訳の案
・浮世絵をカラフルな色彩にした錦絵で名を残した鈴木春信も多色刷りのアイデアを得た
・日本で遠近法を取り入れた小野田直武は、源内から遠近法を習った

源内は、他にも様々な文化人にアイデアを授けていたと言われますから本人の名前が出ていないところでも江戸の文化を幅広く支えていたのです。

劇作と呼ばれる大衆向けの読み物でヒットを連発します・・まさにお江戸のベストセラー作家・・その上、広告の宣伝文から流行の仕掛け人まで多種多彩に活躍します。

あらゆる分野でヒットを飛ばす源内先生、しかし自分の事を『貧家銭内』と書くほどお金に困っていました・・貧乏の原因は、社会の仕組みにありました。

印税も特許も無かった時代、源内にはあまり見返りがなかったのです・・それと源内が積極的に取組んでいた鉱山の開発でした・・人件費など初期投資が膨大な鉱山開発、鉱脈が見つかるかは感と運しだい・・鉱山開発が事業として成功するの当時は、まれだったのです。

・ひと山当てる(万一を狙って成功し、もうける)
・山勘(勘を働かせ、万が一の幸運を望んで物事を行う)
・山師(他人を欺いて利益をはかる人)

と言った言葉は、鉱山の開発で成功するのがどれほど難しいか、お金を巡ってトラブルが起きやすかったかがわかります。

それでも国の利益に前のめりな源内は、各地を歩き回り、金山や鉄の採掘事業を計画します・・その結果、鉱脈は見つけるのですが事業としては殆んど失敗、借金は現代の貨幣で2億円に上ったと推測されています。

安永5(1776)年 源内49歳、源内最大の功績とされるエレキテルを6年に及ぶ苦闘の末、修復に成功させます・・しかし時代が早すぎたのです。

結局、見世物せ終わってしまい・・高額な見物料を取る源内は、山師と呼ばれさげすまれるのです。

安永8(1779)年、エレキテル完成から3年後、源内は人違いで人を殺めてしまいます・・捕えられた源内は獄中で破傷風にかかり、1カ月後に死去。

平賀源内 死去 享年52

江戸を賑わせた天才の最後は、孤独なものでした。