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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

ああ、討ち入りさえなかったら…3つの裏忠臣蔵

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NHK 歴史秘話ヒストリア
ああ、討ち入りさえなかったら…3つの裏忠臣蔵、その1

すべてはここから始まりました…
「上野介!この間の遺恨、覚えたるか!」…刃を振るうは赤穂5万石の大名・浅野内匠頭…その切っ先は旗本高家吉良上野介へ…それは、江戸城内で起こった前代未聞の刃傷事件でした。

責めを負って内匠頭は即日切腹、亡き主君の無念を晴らすべく赤穂四十七士はいざ討入りへ…時に元禄15年12月14日…。

江戸時代から多くの日本人に親しまれてきた忠臣蔵、この武勇伝、討入りを果たした四十七士以外の目線で描けば、まったく違った物語になります。

忠臣蔵の悪役、吉良上野介…実際は領民思いの優しいお殿様でした…そんな上野介にとって忠臣蔵は、理不尽な人生転落物語だったのです…吉良上野介が絶大な人気を誇る町があります。

町民は…
「私たちにとっては神様です」
「吉良様、吉良様です」
「あんまり、悪役にしないで欲しいと思いますね」
「まったくひどい話ですよ…年寄りの家に完全武装の大の男が47人も乗り込んでね…」

その町の名は、愛知県にある吉良町(愛知県西尾市)、吉良氏の出身地です…町のあちこちには、馬に乗って微笑む吉良上野介の像が建てられています。…上野介は海を干拓して田畑を作り、堤防を築いて水害から農民を守ったと伝えられています。

吉良赤馬製造 8代目 井上裕美さん
「テレビでやているようなお殿様ではなくて、地元にとっては、すごく良いお殿様だったんだよって、私も子供の頃から思ってきました」


episode 1
真面目に仕事したのに…
礼儀作法の達人、吉良上野介

その男、名を吉良上野介義央、寛永18(1641)年9月2日生
役職:高家肝煎
冠位:従四位上近衛少将
趣味:茶の湯
特技:折り紙

幕府が開かれて100年、この頃ようやく体制も固まり、武士の社会では、江戸城内の行事をつつがなく行う事が重要なお勤めになっていました。

上野介の役職は、高家、幕府が行う礼儀作法などを大名たちに指導するのが仕事です…長野県の山間の町(木曽郡上松町)に上野介の仕事ぶりが覗える史料が残っています。

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ここ臨川寺には、礼儀作法の教科書、吉良流礼法が100点以上保管されています…この地方を治めていた尾張徳川家が吉良家に教わった時のものです。

記されているのは弓矢の扱いや鎧の着付け、婚礼の作法から料理の献立などあらゆる礼儀作法です。

花岳寺住職・吉良氏研究家 鈴木悦道さん
「江戸時代に吉良流礼法が一番重んじられて大名たちの間には、殆んど吉良流が徹底していました」

刀の紐の結び方なども儀式や用途によって全て異なっています…それぞれに決められた細かい約束事、全てを覚えなければならなかったのです。

上野介は幼いころから父親に礼法を厳しく仕込まれて育ちました…まさに、この吉良流礼法こそが吉良家の秘伝、すなわち吉良家の生きる糧だったのです。

元禄14(1701)年、上野介61歳の時の事です…新年の挨拶のため天皇の使者が江戸を訪れました。この年、上野介の指導の下、江戸滞在中の使者を接待する事になったのが赤穂5万石の大名・浅野内匠頭でした。

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内匠頭の役目は、使者が江戸にいる間の宿や食事の世話はもちろん、使者に高価な贈り物を献上したり、話し相手になったりすることです。

更には出かける先々でしきたりに合った道具を揃えるなど様々な段取りをこなさなければなりません…その全てに渡り、上野介が厳しい指導を行っていました。

事件が起きたのは、滞在が終盤にさしかかった3月14日のことです…儀式の準備中に突然、内匠頭が吉良上野介に斬りつけたのです…江戸城内での予期せぬ宣戦布告、いったい二人の間に何があったのでしょうか?

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当時世間では、内匠頭が上野介に賄賂を贈らなかった為に意地悪をされたためと取りざたされました。(『徳川実記』より)

江戸時代の研究家、山本博文さんは、仮に上野介が賄賂をもらったとしても当時の常識からすれば、それはごく当たり前の事だったといいます。

東京大学大学院教授 山本博文さん
吉良上野介が吉良家に蓄積している知識を提供する訳ですから、当然それに対するお礼というものが必要なわけです…吉良上野介としてみれば、当然の事を要求しているだけで悪い事をしているという意識は、まったく無いと思います」

赤穂藩は5万石、そのうえ広大な塩田を所有し、塩により莫大な収入を上げていました…僅か4200石の上野介からすれば裕福な赤穂藩から謝礼をもらう事は、当然の事でした。

額の傷は13センチにも及びました…上野介にとっては、まさに降って湧いた災難、この事件を境に吉良家の運命は変わります。

幕府の裁きは、内匠頭が切腹で上野介は、おとがめなし…世間では不公平だという意見とともに吉良憎しという風潮が高まります。

「名を惜しめ、惜しむな命、赤穂衆、御主のかたき、きらせ給へや」…赤穂の武士たちは主君、浅野内匠頭の無念を晴らすために敵討ちをするべきだと江戸の町民が詠んだ歌です。

一方、幕府や他の武士たちにとってこの騒動は困ったものでした…吉良邸の隣に住んでいた武士が幕府に一通の伺いを立てています。…「もし討ち入りがあった場合、どうしたら良いでしょうか?」の問いかけに老中は吉良に冷たいこんな答えを出しています。

「一切構うな」

やがて幕府は上野介に転居を命じます…移った先は当時の江戸の町外れ、江戸城から遠く、隅田川を越えたところにある本所でした。…「これでは内匠頭の家来たちに吉良を討てといっているようなものではないか」上野介の親戚が交わした会話です。

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この頃、上野介は隠居し息子に家を継がせます…そして赤穂の武士たちの襲撃に怯え、新しい屋敷の完成後も親戚の家などに滞在し、家を不在にする事が多くなった。…ところが用心深く振舞ってきた上野介が取り返しのつかないミスを犯してしまいます。

元禄15(1702)年12月14日、上野介は自宅で盛大な茶会を開きました…招かれた客は、老中をはじめとする幕府の高官達です。

上野介をテーマとした歴史小説を書いている作家の岳真也さん…岳さんは、この茶会は上野介にとって特別な意味があったと考えています。

作家 岳真也さん
「吉良家は、まだまだ健在で跡を継ぐ養子も取って、いよいよ高家の見習いとしてスタートしたと…それで…皆さんよろしくお引き立て願いますと、そのPRをする為に、しかも忘年会でもあるしということで、かなり派手にやったということです」

ところがひにくな事に吉良家の健在を世に示す茶会が赤穂の武士たちに上野介の在宅を知らせる事になったのです。…人々が寝静まったその日の深夜、冬の澄みわたった空気を切り裂いて屋敷に向かう一団がいました…赤穂の武士たちです。

台所にいた上野介は、脇差を抜いて立ち向かいました…礼法に生きた上野介でしたが最期は武士らしく戦ったのです。しかし、上野介に二度と夜明けは訪れませんでした。

討ち入りによる不運は、吉良上野介だけでなく、その家族や家臣たちにも容赦なく襲いかかりました…上野介の跡継ぎ、吉良義周(きらよしちか)は、吉良家の主として四十七士に立ち向かい肋骨に達する深い傷を負います。

しかし無情にも義周に対する幕府の扱いは、”討入りを防げなかった不届き者”吉良家はお取り潰し、義周は囚われの身となります。やがて身体を壊し、3年後、21歳で亡くなります。

吉良側で一番の被害者は、何の責任もないのに若くして世を去らねばならなかった吉良義周だったのかもしれません。

家臣の遺族の中には、吉良家に厳しい世間の目をはばかり、苗字を変えたり、お墓の戒名を削り落したりした人までいたそうです。

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
ああ、討ち入りさえなかったら…3つの裏忠臣蔵、その2

犬を殺したら死刑、額にとまった蚊を叩いたら流罪、水の中にいるボウフラが死ぬので打ち水禁止、ご存知江戸時代の珍政策、生類憐みの令…この命令を出した徳川綱吉こそ討入りが起きた時の将軍でした。

犬や蚊を殺しただけでもこの有様なのに、47人の男たちが屋敷に乱入して人を斬ったら…将軍様以下、幕府は大混乱の巻き…。ここでは徳川綱吉から見た忠臣蔵です。


episode 2 
立派な将軍になりたかったのに…
徳川綱吉から見た忠臣蔵
その男、名は徳川綱吉 正保3(1646)年1月8日生
官位:正二位内大臣 征夷大将軍
趣味:書道
愛玩動物:狆(ちん)

延宝8(1680)年 綱吉38歳…綱吉が将軍になったのは、討入りのおよそ20年前、これは4男だった綱吉には想定外の事でした…兄の急死で将軍の座が転がり込んだ綱吉は、兄よりも優れた権威ある将軍になろうと張り切ります。

綱吉は、施政方針を表明する為に幕府にとっての憲法と言うべき武家諸法度を改めました…元々の第1条は、「文武弓馬の道専ら相たしなむべき事」…それを綱吉は次のように変えます。

「文武忠孝を励まし、礼儀をただすべき事」、武士にとって弓や馬の技術を見に付けるよりも忠義や孝行、礼儀など心を磨くほうが大事だと定めます。

戦国時代から80年、太平の世になっても武士たちの荒々しい気風は変わっていませんでした…綱吉は殺伐とした日本を文化的な国に生まれ変わらせようと大改革に乗り出したのです。

理想に燃える綱吉は、大名たちを集め忠義を重んじる最も重要な学問、儒教の講義を自ら行います…それは8年間、合計200回を超えました。…更に忠義孝行の頂点である天皇を敬い、伝統的な儀式や礼儀作法を重んじる事にしました。

その綱吉が最も勢力を注いだ政策が生類憐みの令でした…犬を大切にする他、生きた鳥や魚を売ってはならない、ノミ、蚊、ハエにいたるまで生き物を殺してはならないなどの通達を相次いで出したのです。

これまで綱吉の作ったこの法律は、人間よりも動物を大切にする天下の悪法だと思われていました…しかし、綱吉の政治を研究しているボダルト・ベイリーさんは、生類憐みの令を優れた政策だと評価しています。

大妻女子大学教授(比較文化) B.M.ボダルト・ベイリーさん
「将軍の中で本当に良い政治を行う使命感があったのは綱吉だった…生類憐みの令は、実は庶民の生活を改善する令だった」

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実は、綱吉は人間に対しても捨て子を禁止したり、ホームレスの人に食事や宿泊所を与えるなど命を大事にする命令を次々と出していました。生類憐みの令は福祉政策でもあったのです。

武家諸法度と生類憐みの令で改革を推し進める綱吉、しかし忠臣蔵の事件によって、この二枚看板は最大の矛盾を突きつけられる事になります。

元禄14(1701)年 綱吉56歳、綱吉が将軍となって21年目の春、天皇の使者を迎える儀式の日、浅野内匠頭が突如、吉良上野介に斬りかかります。…それは殺生を禁じ文化的な政策を掲げてきた綱吉を否定するかのような行い。

しかも、よりによって綱吉が敬い続けた天皇の使者を御招きする時に…激怒した綱吉は、内匠頭をその日のうちに切腹させます。…一方、刀を抜かなかった上野介には、優しい言葉をかけました。

「刀のつかにも手をかけなかった慎み神妙である…帰って傷の保養をせよ」(『多門伝八郎覚書』より)

元禄15(1702)年12月14日、ところが翌年、赤穂の武士たちが吉良邸に討入り上野介の命を奪います…この事態にどう対応したら良いのか困ってしまったのが、他ならぬ将軍綱吉でした。

生類憐みの令の精神からすれば、徒党を組んで無実の老人を殺害するなどもっての外…しかし、彼らが主君の為に行動した事も事実であり、まさしく綱吉、自ら定めた忠義の行いに他なりません。

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彼らを犯罪者として処罰すべきなのか?…それとも忠義のお手本として褒め称えるべきなのでしょうか?…困った綱吉は、幕府の学問をつかさどる儒学者の林大学頭に意見を聞きました。

林は次のように答えます…「彼らの行いは、亡き主君の意志を継いだ忠義の行いです…しかし、天下の法に逆らいこれを破った事は間違いありません」(林大学『復讐論』より)

林は赤穂の武士たちを厳しく処罰すべきだと主張しました…確かにここで天下の法を破ったものを許しては、今後、同じようなものが次々と現れ世が乱れてしまうかもしれません。

ところが世間は、討入りに拍手喝さい…江戸の町ではこんな歌が…「たのもしや内匠の家に内蔵ありて、武士の鏡をとり出しけり」…浅野内匠頭には、大石内蔵助という頼もしい家来がいて敵討ちという武士の鏡のような行いをしてくれた。

庶民だけではなく、身内である幕府の高官までこう褒め称えました…「このような節義の武士が出たのは、国家の盛事である」(『赤穂義人録』より)

やはり赤穂の武士たちを助けるべきなのでしょうか…しかし、内匠頭を切腹させ上野介を無罪とする裁きを下したのは綱吉自身です。将軍の決定に立て付くような行為を将軍の自分が認めるのはプライドが許しません。

結論が出ないまま年を越した綱吉は、思い切って別の人物に意見を求めました…公弁法親王、当時最も尊敬されていた僧侶の一人です。

綱吉は、法親王の方から彼らの命を救うよう提言があれば、それを理由に許す方向に考えていたと伝えられています。…ところが「彼らを助けたいのはやまやまでございますが、すでに彼らの志は成りました。もう思い残す事はないでしょう…武士の道を立てて腹を切らせてやれば、彼らの志もむなしからずと存じます」(『徳川実記』より)

罪人として打ち首にするのではなく、自ら命を断つ切腹をさせる事が彼らの名誉にもなると言うのです。…討入りから一月半後の2月1日、綱吉は処分を発表しました。

大石以下、打ち入った武士たちは切腹、それが悩みに悩んだ末の綱吉の決断でした。

討ち入り事件をキッカケとするかのように、その後、綱吉の政治は綻びを見せて行きます…討入りの明くる年、M8以上と推定される大地震が関東地方を直撃、当時の人々は綱吉に下った天罰だと噂したそうです。

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-富士山爆発

綱吉もそう思ったのか、災害に苦しむ庶民の負担を軽くしようと生類憐みの令を緩め減税に務めます…ところがしの4年後、なんと富士山が大噴火(宝永4(1707)年11月~12月)どうしたらいいのか分からなくなった綱吉は、今度は生類憐みの令をより厳しくします…それは綱吉が亡くなるまで続いたのです。

綱吉は15代の将軍の中で最も不人気な将軍様になってしまったのです。

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
ああ、討ち入りさえなかったら…3つの裏忠臣蔵、その3

兵庫県豊岡市忠臣蔵・討入りのリーダー大石内蔵助の妻、大石理玖の実家があった町です…有るお宅に理玖所縁の品が大切に保管されています。高さ12㎝の小さな観音像です。

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観音像は別のお宅にも有りました…更にこちらのお寺(理玖の実家の菩提寺・正福寺)には120体、どれも全て元々は、3000体も観音像として一ヶ所にあったものです。

生前、理玖はこの3000体の観音像に、討入りを果たして切腹した夫と長男の冥福を祈り続けたといいます。…残された妻が歩んだその後の人生を見つめます。


episode 3
大石内蔵助の妻から見た忠臣蔵

義士の妻として強く生きる 大石理玖(りく)
元禄14(1701)年3月 理玖33歳…赤穂で暮らしていた大石理玖は、夫の内蔵助から恐ろしい知らせを聞きます。

お家取り潰し

浅野内匠頭江戸城内で吉良上野介に斬りつけ、その日のうちに切腹、家臣たちも領地の赤穂を追われる事になったのです。それは、まさに青天の霹靂でした。

理玖が大石家に嫁いだのは、15年前、に2男2女の子宝にも恵まれ、幸せな家庭を築いてきました…事件が起こる前に理玖が父親に送った手紙が残っています。

新そばの季節となりました
そちらで手に入りましたら
少しでも結構ですから、お送りください
大石が今すぐにでも食べたいと申しております
本当に本当に好きなのです。(理玖の手紙より)

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中無妻じい夫婦の姿、しかし、その幸せな日々も終わりを告げる事になります。…赤穂を追われた一家、一まず京都に落ち着いたものの間もなく離れ離れになります。

元禄15(1702)年4月 理玖34歳…身ごもっていた理玖は、内蔵助や長男の力と別れ、出産のために実家のある豊岡に帰ります。これが夫との今生の別れとなりました。

授かったのは男の子、苦難に負けず大きく育ってほしいという願いからでしょうか理玖は、大三郎と名付けています。…内蔵助からは、喜びの声が寄せられました。

「大三郎と名付けたそうですね…一目会いたいものです」(大石の手紙より)

しかし、間もなく内蔵助から理玖の父親宛てに一通の手紙が届きます。…そこには、理玖を離縁する事がしたためられていました。

豊岡で理玖の研究を続ける瀬戸谷晧さんは、理玖は、この離縁状に至る内蔵助の動きから、既に討入りを悟っていたと考えています。

但馬歴史文化研究所 瀬戸谷晧さん
「討入りに向かって自分たち家族の動きが決まってくるという事は、当然覚悟していると思います。…二男・吉之進とか男児にとって父親の事件が影響してくる…要するに累が及ぶという事になるから離婚しておけば、家族に及ばないだろうと…」

夫の真意を汲み取った理玖は、豊岡の円通寺に次男の吉之進を僧侶として預けます…出家させれば追求を免れるとうい考えからでした…円通寺には、この時の理玖の心の内を伺わせるものが残されています。

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それは、仏具を乗せるための敷物です。理玖が嫁入りに着た内掛けを仕立て直し、吉之進に持たせました…そこには長寿の象徴である鶴と亀が描かれていました。

円通寺住職 町田直道さん
「大石家がどうにか血がつながるという思いがあって…どうぞ頼みますという強い思いだと思います」

武士の妻として、そして母として大切なものを守りたい…理玖は全ての思いを次男に託したのかも知れません。…更に理玖は、生後僅か4ヶ月の3男・大三郎の居場所を隠すため、密かに隣の藩の医者に養子に出したのです。

元禄15(1702)年12月14日、内蔵助引き入る赤穂の侍、47人は、吉良邸に討入り、見事に亡き主君の無念を晴らします。理玖の実家の菩提寺・正福寺には、かつて理玖の祖父が作らせた3000体の観音像がありました。

理玖は、ここで討入りの成功と手放さざるを得なかった我が子の幸せを祈ったといわれます。…「討ち入りが成し遂げられた事は、見仏の御加護と感謝いたします」(理玖の手紙より)

元禄16(1703)年2月4日 理玖35歳…幕府の決定により、夫・内蔵助と長男・力は切腹します。

「理玖様は、その後も特にお変わりなく、お元気に暮らしておられます…ただ少し悲しいご様子をお見せになる事もあります…女性の身であり、その心中を思うと本当にお気の毒でなりません」(家臣の手紙より)

内蔵助と理玖が危惧したように子供たちにも討ち入りの余波が広がり始めました…幕府は、討入りに参加した武士たちの親類縁者を全て調べあげ、残された子供たちの内、15歳以上の男子は島流しと決めます。

密かに養子に出した大三郎の居所も付き止められてしまいます…一旦は理玖の手元に戻りましたが15歳になれば島流しにされる運命です。

僧になった次男・吉之進は、刑を免れたもののしばらくして重い病にかかってしまいます。

「看病するうちに次男が少しずつですが元の我が子らしくなってきました…だんだんと病が進んでいるようで痛ましくて耐えられません」(理玖の手紙より)

理玖の看病むなしく吉之進は19歳で亡くなりました…皮肉にもその年、宝永6(1709)年、将軍綱吉も世を去ります。そして遺族たちの罪が許される事になったのです。

やがて心静かに仏に向かう日々を送っていた理玖に願っても無い報せが届きます…赤穂浅野家の親戚にあたる広島42万石の大大名・浅野家がただ一人残った息子の大三郎を召抱えたいというのです。

しかも父・内蔵助と同じ、1500石…広島の浅野家は100人以上の行列を仕立て、莫大な経費をかけて理玖と大三郎を迎え入れます。

肩を寄せ合うように暮らしてきた二人に再び幸せな日々が訪れました…。

「殿様が大三郎の事をさすがは、内蔵助の子である…立派なものだと褒めて下さいましたそうな、幸せの限りでございます」(理玖の手紙より)

赤穂の英雄である父の顔を見る事無く育った大三郎、16歳で立派に元服を迎えました…理玖の喜びを伝える言葉です。…「大三郎が元服しました。聡明な誠の男に成長させたいものです」(理玖の手紙より)

理玖は、68歳で亡くなります…悲しみを胸の奥にしまい武士の妻としてキリリとした人生でした。

理玖以外の四十七士の遺族たち、その行く末はどのようなものだったのでしょうか…残された子供たちの内、男の子は19人、その内、大三郎のように他の大名に召抱えられた者は僅か4人、出家して僧侶となったものは11人に上ります。

女の子は24人いたもののその後の消息は不明、ちなみに四十七士の妻たちのその後も殆んどわかっていません。…理玖と大三郎のようなケースは、極めて稀だったのです。

おおくの人々の人生を変え、四十七士が各々の幸せを捨てて決行した討ち入り、討つ方、討たれる方、双方に多大な犠牲を強いながら江戸の世、そして日本人の心に大きな影響を与えた事件でした。


理玖のゆかりの地は今…

豊岡市で毎年秋に開かれている大石りくまつり(10月23日)…運命に翻弄されながらも必死に生き抜いた理玖…その姿は感銘を生み地元に語り継がれています。

市民がふんする大石一家、祭りは、あいにくの雨でしたが子供達も元気に行進しました。…選ばれた二人のりく娘、古の理玖の人生に思いをはせ、その生誕地に花束をたむけました。

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長い間、交流が無かった赤穂市吉良町、歩み寄りの機運が熟し、平成の世になって和解を果たしました(忠臣蔵サミット)以来、様々な交流が続いています。

昨年は、赤穂高校と吉良高校の初めての親善試合が行われました…300年の時を超えて平和な時代が再び結びつけた赤穂と吉良の真剣勝負その結果は、1対1の引き分けでした。

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