NHKスペシャル
日本人はなぜ戦争へと向かったのか(戦中編) 「果てしなき戦争拡大の悲劇」
今から70年前、日本は国力でかけ離れたアメリカとの戦争に突入しました・・最初に半年間は奇襲が成功、石油など大量の資源を獲得します。
しかし戦場は当初の想定より遥かに超えて広がり、敵の激しい反撃や補給の途絶を招く事になります・・この自滅的とも思える戦線拡大が膨大な犠牲者へと繋がって行きました。
なぜ日本の戦いは、かくも無残なものになったのか原因は開戦直後の半年、無謀な戦線拡大を方向付けた国家にあったのです。
この無謀な拡大をしたのは、開戦から半年の日本が優位に戦いを進めていた時期の日本の指導者が下した戦略や決断に致命的な過ちがあったからです。
実は国の指導者たちは、この戦争をどう導き、どう最終的に終息させるか・・開戦直後から議論を始めていたのです・・半年にわたる議論にも係らず、陸海軍の主張は一本化されず、その結果、日本の戦争はなし崩し的に拡大を始めます。
やがて占領地における軍と経済界の結びつきが新たな混乱を生みます・・300万を超える悲惨な犠牲者を生んだ太平洋戦争、その再現の無い拡大はなぜ始まったのか・・開戦から半年、知られざる歴史の転換点に迫ります。
当初の進出目標は、豊富な資源があるインドネシアやマレーといった地域でした・・しかし戦いが始まってみると日本軍は遥か遠くまで部隊を進出させます。
日本の遥か南、インドネシアボルネオ島・・70年前、日本はこの地から産出される石油資源(タラカン油田)を求めてアメリカとの開戦に踏み切りました。
真珠湾への奇跡的とも思える奇襲成功で始まった太平洋戦争・・南へ向かった日本は、誰も想像しなかった勢いでアジア太平洋を席巻し始めました。
開戦前、アメリカなどの経済制裁により、石油や重要資源の輸入を断たれていた日本・・国家の機能が停止する前に欧米の勢力下にあった南方の資源地域を抑える事がこの戦争の最優先の目的でした。
蓋を開ければ1ヶ月でフィリピン・ボルネオ・マレー半島を制圧、2月初めにはシンガポール・スマトラ島に迫ります。
資源獲得見込み(開戦前比)
原油 263%
鉄鉱石 140%
ボーキサイト 230%
ニッケル 425%
スズ 480%
生ゴム 1090%
など今後取得を見込める量は、戦争前の水準を大幅に超えるものとなりました。
昭和17(1942)年2月、開戦から2カ月初期の目標地域の占領をほぼ確実とし国家のリーダー達が宮中に集合しました。
首相 陸軍大臣も兼ねていた東条英機
海軍大臣 嶋田繁太郎
企画院総裁 鈴木貞一
統帥部 海軍 軍令部総長 永野修身
統帥部 陸軍 参謀総長 杉山元
2か月前、開戦を決定したその同じメンバーが集まりました・・大本営政府連絡会議です・・軍と政府のトップが顔を揃える事実上の最高意思決定機関で再び重要な国家方針を定めようというのです。
1942年2月4日 大本営政府連絡会議:議題はこの先、戦争をどう進め最終的な決着を図るかだった。
首相 東条英機
「作戦は現在も続行中だが攻勢をいつどこで停止し、長期持久に入るか意見をまとめたい」
企画院総裁 鈴木貞一
「資源獲得の見通しの見えてきた今、そろそろ戦線拡大を停止しても良いのではとの希望を持っています」
すでに戦争は目的を達しつつあり、これ以上戦線拡大の必要があるのかとの見方が広がり始めていたのです。
興味深い事実が証言テープから明らかになりました政府と陸軍は資源取得の目途が立ったと見るや戦争終結の機会を模索し出したのです・・国家経済担当の企画院総裁の発言です。
企画院総裁 鈴木貞一(肉声テープ)
「資源地帯を占領したら戦争を日本はもう侵攻をやめたと宣言する方が良い・・日本は生きるために取るのだ・・その地域を占領したからそれ以上は戦争しないのだという『戦争中止論』だな」
陸軍の元々考えていた対米戦争は資源の獲得を第一とした地域を限定しての戦争でした・・進出の範囲は東はインドネシア、西はビルマ南部まで・・それ以上先は補給も防衛も困難なため手を広げず、資源も戦力も占領した地域を固め日本の守りを優先してつかうとするものでした。
これ以上、手を出さなければヨーロッパ情勢に手いっぱいのアメリカはわざわざ太平洋には出てこない・・やがてどこかの地点で思わぬ機会が訪れるとの予測に期待をかけていました。
東条英機陸軍大臣秘書 西浦進大佐(肉声テープ)
「大東亜戦争は考えてみると勝ち目はないわけですね・・勝つ方法というのは無いわけなんです・・南方をとる・・そして船でしっかりよい物を持ってきて今まで油やなにかで困っていたのを少しお腹がくちくなるようにしてもらう・・そこに何かあるか、神風か何か和平の空気がどこからか出てきやせんかと…」
実際に陸軍はこの後、警備に必要な兵だけを残し、残りの部隊を南方から引き上げる事を検討します・・こうした動きに戸惑った海軍側の最高幹部の肉声です。
海軍 軍令部第一部長 福留繁
「東条さんはね南方の占領戦が済んだら『これで戦争は済んだんだと』もう南方からどんどん資源を取ってくればいいと言って・・南方にいた兵力は35万ですよ・・それを20万に減らすって言うんですよ・・そんなべらぼうな事はあるかと・・もっと兵力を増してもらわなきゃいかん」
1942年2月9日 大本営連絡会議:攻勢の停止を検討し始めた陸軍や政府に海軍は反対との立場から海軍は釘を刺した。
海軍 軍令部総長 永野修身
「シンガポール攻略をこの後ひかえているそこで戦争が終わりかという印象を国民に与えるような事があってはならない・・戦争はなお長期にわたる旨を強調し、覚悟を求めるべきです」
海軍の考えは今後も攻撃は続行、というものだった・・アメリカが黙って日本を見逃すはずがないと考えていた。
海軍の考える戦争プランは陸軍の想定を遥かに超えた拡大策でした・・戦線を停止して守りに転換するどころか情勢が有利な今こそアメリカに決戦を挑む・・決戦場は、ハワイ・オーストラリア・セイロン島・・そこに資源と戦力を惜しまずつぎ込み圧勝を収めて初めて講和の可能性を引き出す事が出来るというものです。
海軍の拡大策は、陸軍の防御優先案と両立しないものでした・・特に拡大策を主張したのが連合艦隊の首脳部、強力なアメリカ艦隊を前に脅威を感じていました。
開戦時、海軍が密かに作成した日米の戦力予測の資料が残されていました・・アメリカ海軍の増強のペースは凄まじく数年で太刀打ちできないほどの差が開いてしまう・・そうなればいくら守りを固めても小さな持久圏などひとたまりもない。
相手の体制が整わないうちに先手を打ち戦意を喪失させるしかないとの分析でした・・制作の立案に係った海軍の幹部が陸軍の楽観論を批判していました。
海軍省南方政務部副長 高木惣吉
「真珠湾の攻撃が成功しても前途洋々ではないんだと・・それほど突き詰めて考えた人と・・南方資源でも確保したら5年か10年持ちこたえれば何とかなるだろうというふうに・・いくらかイージーに考えた者と違いがあったと思います」
戦争をどう終わらせるかの基本的プランのすり合わせが組織同士でまったく出来ていなかった・・首脳たちは開戦した後で事態の深刻さを悟ります。
防衛大学校 田中宏巳 名誉教授
「陸軍と海軍の言っている事は180度違います・・戦争が始まってから内輪もめしているんです・・まず戦略を立て方針を立ててから事を始めればいいんですが、逆にになってるもんですから混乱しますよ」
安易な開戦決定のツケを誰が払うのか戦争方針の一本化に軍の中堅官僚たちが動きました…
陸軍省軍務課長 佐藤賢了
「大きな戦争は日清・日露があるがどちらも戦争終結の見込みがないまま開戦した・・それが日本の陸海軍には頭に染みついていたんだ・・終結の方法を考えずに戦争に入る事をあたりまえのように考えるようになっていたと」(家族に語った言葉)
この時の政策立案者としての佐藤の大量の手記が残されていました…
「いかにして戦争を終末に導くか・・それが戦争指導の最大眼目である・・しかし今日の戦争は自主的計画も見通しも確立できなかった」(佐藤賢了 『大東亜戦争回想録』)
1942年2月22日 赤坂山王ホテル:今後の方針をまとめるため佐藤たち陸海軍中枢の課長10人が集まった・・激しい議論の応酬となった。
海軍省軍務局第二課長 石川信吾
「今は敵が立ち直って反攻に出る余裕を与えない事が寛容なのだ・・敵はオーストラリアから総反攻を開始してくる・・先手を打ってオーストラリアに作戦を進めるべきだ」
あくまでオーストラリア・ハワイ・インドまでの拡大を主張する海軍・・守り重視の陸軍は反論した…
陸軍省軍務課長 佐藤賢了
「無茶を言うな・・かりにオーストラリアを攻略するなら12個師団の兵、部隊の輸送に新たに船150万トンの徴用が必要となる・・そんな事をしたら国家経済が心臓麻痺を起してしまう」
軍令部第一課長 富岡定俊
「では陸軍はどうしたいのだ」
陸軍省軍事課長 真田穣一郎
「既定の計画に基づき占領地の開発、建設、資源を内地に運んで戦力化する事に専念する・・基地の要塞化も急務だ・・オーストラリア攻略などとんでもない」
太平洋方面では不拡大を主張する陸軍・・しかし大陸では別でした4年前から継続中の日中戦争になんとかけりをつけたいと中国の重要な補給ルートになっていたビルマの攻略なども検討していたのです。
陸軍省軍務課長 佐藤賢了(肉声テープ)
「陸軍というのは大陸ばかりにらんで国防をやっておる・・海軍はアメリカをにらんで西太平洋における決戦ということばかりを考えてやっておる・・これを本当に消化して日本の向かう国策はこっちだという・・このけじめが最後までつかないままでいたのです」
国際日本文化研究センター 戸部良一 教授
「陸軍はアメリカを叩くなんて事、考えていませんから・・一番基本的なすり合わせがなされないまま開戦してしまった・・アメリカとの戦争は海軍に預けて『あとは知らないよ』と・・あとは自分たちの戦争をやるよという行き方ですから海軍に対しても中々説得力を持ち得なかったと思います」
危機のさ中にあっても歩み寄る事が出来ない陸軍と海軍・・限られた国力で二兎追う事になれば戦争体制は破たんします。
シンガポール陥落、パレンバン占領・・相次ぐ陥落の報せに酔いしれる国民は国家の不安を知るよしもありませんでした。
戦争方針の一本化をめぐる陸海軍の調整は難航し、課長たちの焦りは次第に強まっていました。
1942年2月28日 赤坂 山王ホテル:海軍は政策の文言を戦線拡大の方針で固めようとした…
軍令部第一課長 富岡定俊
「大綱の第一項だが『既得の戦果を拡張し、英米の屈服を図る』ではどうか」
陸軍は、真っ向から反論した…
参謀本部作戦課長 服部卓四郎
「『既得の戦果を拡張し、英米の屈服を図る』この文言は戦線拡大のみ強調しているではないか・・『既得の戦果を確保し、長期不敗体制を確立する』とすべきだ・・自給体制構築が優先である」
佐藤賢了が妥協案を示した…
陸軍省軍務課長 佐藤賢了
「両者を合わせ『既得の戦果を確保し長期不敗体制を確立、機を見て積極的方策を講ず』ではどうか」
それは相いれない拡大と停止を強引につなげていた・・しかし海軍はその順番に噛みついた…
軍令部第一課長 富岡定俊
「長期不敗体制を確立が先であれば自給体制完成の後でなければ攻勢に出られないという事ではないか・・長期不敗という言葉を削りたい」
陸軍
「それでは全く意味が変わってしまうではないか」・・更に紛糾した…
1942年3月4日、陸海軍の課長たちはようやく一つの文案にまとめました・・「既得の戦果を拡充し、長期不敗体制を整えつつ機を見て積極方策を講ず」
※筆者・・陸海軍の超エリートが集まって『何やってんだ!』って感じですね。
結局、一本化は断念・・海軍の拡大路線を黙認した作文でした・・取りまとめに当たった佐藤賢了はこう記しています。
「趣旨不明確・・根本的調整なし」(佐藤賢了 『大東亜戦争回想録』)
中堅官僚たちが断念した方針一本化は、トップの手に委ねられる事になりました…
1942年3月7日 大本営連絡会議・・課長たちの作文に基づく統帥部の説明は互いに陸海軍ともに矛盾しかみ合っていなかった。
自分たちで調整する事を放棄してしまった統帥部(陸軍・海軍)しかし首相もどちらかに決めて従わせてしまうしまう指導力がなかった。
拡大策の事実上容認となる国策は、官僚たちの作文のまま採択され天皇に上奏される事になりました・・その直後、海軍が一線を超えます。
1942年3月8日 オーストラリアの目と鼻の先に位置するニューギニア島への上陸・・相いれない方針をそのままにした結果、その後の戦争拡大が決定づけられました。
この後、戦線は拡大し新たな占領地が出来てきます・・陸海両軍は優先的に開発する地域の割り当てを取り決めていました。
つまり新しい領地の開発には利権が生じます・・利権が生じれば産業界からの思惑が絡んできます・・こうした中で本来の戦争目的があいまいになって新たな戦争膨張のキッカケが作られてゆきます。
インドネシア・ジャワ島、60年前に日本軍が占領したこの島に一人の日本人兵士がいました・・元日本兵・小野盛さん(91歳)開戦間もなく小野さんは陸軍の一員としてジャワ島に上陸しました。
終戦後も現地に残ってインドネシアの独立戦争に参加、片腕を失いました・・小野さんは欧米支配からのアジアの解放を謳った大東亜共栄圏の実現を最後まで信じて戦いました。
しかし日本には戦争計画はもとより占領地経営の周到な計画もありませんでした・・占領した後の経済や政治の運営はどうするのか・・急遽持ち出されたのが大東亜共栄圏の構想だったのです。
1942年3月、首相官邸に大企業の経営者、経済界のリーダーが呼び集められました・・大東亜共栄圏の経済運営の検討に専門家としてかかわってもらうためです。
日本の膨張はビジネスチャンス・・早速、企業や経済界は軍の戦線拡大に期待を膨らませました…
満州重工業総裁 鮎川義介
「極端に言いますれば、向うから取って来た資源は対価を払わんでよろしい・・タダでとる・・いわゆる出世払い方針で支払は100年先でもよろしいと私は思うのであります」
王子製紙社長 藤原銀次郎
「しかしお前たちは裸でおれ・・食う物が無くなったら死んでもよいという政治を露骨に実行しうるかどうか」
鐘淵紡績社長 津田信吾
「日本を中心として搾取しねば続かないという意見はごもっともだと思いますが公明正大にカムフラージュすべきかと」
露骨な搾取に躊躇する一部の参加者達を政府代表が後押しします。
企画院総裁 鈴木貞一(肉声テープ)
「私はこう思う・・日本がやっている事は欧米の思想からすれば搾取であるかもしれぬ・・自分のなす事に正義感を持ってやる場合は搾取という思想にはならないと思う」
南方占領地に日本企業が続々と進出を始めました・・進出企業は資源開発や輸送、現地のインフラ整備など巨大商社から中小企業まで480社にのぼりました。
現地への進出には占領地軍政を統括する軍中央の意向が重要で企業は先を争うように便宜を求めて軍に接近しました・・現地の開発事情に通じていた企画院調査官が実際に聞いた企業家と軍官僚のやり取りを手記に残していました。
1942年3月中旬 霞が関 海軍省:海軍省の廊下には連日、南方進出を希望する業者が担当者との面会を求め列をなしていた。
ある夜の料亭…
開発業者「れいの海南島進出の件、どうしても無理でしょうか」
海軍軍務局中佐「あそこは大手の日本興業が採掘から輸送まで握っているから難しい・・今度の作戦でニューカレドニアを占領する予定だ・・あそこニッケルがとれるぞ・・どうだ」
企画院調査官 田中申一
「南方資源を取り巻く利権屋との醜悪なる野合こそ軍の汚辱の最たるものだった」(企画院調査官 田中申一の手記)
軍と企業の更に生々しい実態を伝える資料が見つかりました・・かつて通産省時代に商工省などの元官僚100人以上に戦前からの経済政策を聞き取りした音声テープ500本です。
当時、経済行政を担当する大勢の商工官僚が南方に派遣されそこで軍と企業が癒着を深める様を目の当たりにしていました。
商工省官僚 齊藤大助(肉声テープ)
「内地からいわゆる利権屋みたいな人もやってきて軍から命令がましく便宜を供与してやってくれと言ってくるのにはずいぶん手を焼いた」
商工省官僚 鈴木重郎(肉声テープ)
「現地軍は現地軍で勝手な事をやる・・我々が内地のそういう担当業者をみんな決めて・・こう言う仕事はどういう会社にやらせる・・例えば発電所を担当するにしても会社は各省庁で東京で全部決めてきているわけです・・ところが現地は現地でヤミ屋にたいな奴が出てきては、こう言う仕事をやらせろと持ち込んでくるんです・・ところが現地軍は現地の都合のいいやつらにやらせるわけだ・・あいつは良く協力しているからお前に一つ任せると・・無茶苦茶ですよ」
上記画像は、資源開発の優先分担地域を陸海軍で取り決めた図です・・赤が陸軍、青が海軍・・新たな占領地では企業間の早い者勝ちの競争が繰り広げられ、占領地が広がるほど軍と企業の利権は拡大しました。
南方政策を担当していた海軍省幹部の証言です…
海軍省南方政務部副長 高木惣吉(肉声テープ)
「海軍は田舎の方のボルネオとかスマトラばっかりでしたけれども・・それでさえもう実に乱脈を極めてですね・・それこそ素人ばっかりの軍人・・」
「ことに陸軍の方はもっとひどかったようですがね・・そこへ野心家が入ってきてかき回すんです利権ばかりあさって・・それを私は見てですね・・これじゃとても南方資源どころじゃないと・・国力の消耗に過ぎないのではないかという感を深くいたしましたね」
1942年4月下旬、陸軍と海軍は先を争うように新たな攻勢に転じ始めました・・海軍はオーストラリアへの進撃路の途中に位置するニューギニア・ポートモレスビーの攻略(モレスビー(MO)作戦)に乗り出しました。
同じ時期、陸軍はビルマ北部への侵攻を開始します・・それまで予定の無いビルマ北部への侵攻をひかえてきた陸軍が中国の補給路遮断と油田(エナンジャン油田)確保を目指して一線を超えたのです。
それぞれの思惑によって動き始めた陸軍と海軍・・一つの国家の中で2つもの戦争が始まりました・・戦争の主導権をめぐる陸海軍の対抗意識は激しさを増して行きます。
物資や予算の配分、特に鉄やアルミなど南方で獲得した戦略物資の奪い合いは熾烈さを極める事になりました。
海軍省兵備局 湊慶譲(肉声テープ)
「配分の計画を会議を開いて決めるわけですよ・・どっちもこれで良いという事は無いわけです」
陸軍省軍事課長 西浦進(肉声テープ)
「ようするに我々の努力のほとんど8割ぐらいまでは海軍との問題ですよ・・本当のところ陸海軍に投げ出して『おわけなさい』とこうなるわけです・・ちょうど飢えた2匹のオオカミの間に一片の肉を投げ込んだと同じですよ」
混乱は物資の輸送用に民間から徴用した船の分配をめぐっても引き起こされました。
企画院調査官 田中申一(肉声テープ)
「陸海軍の連中がワーワーといって・・軍の船舶の徴用が増えたわけですよ・・徴令が来て取られて・・」
取り合いで船が不足した結果、南方の資源を獲得したにも関わらず日本国内は鉄などの物不足に苦しむ事になりました・・戦争開始僅か半年足らず・・国家全体の利益より、組織の利益が優先され陸海軍の行動は連携を欠きました。
その結果、戦線拡大への歯止めはいよいよ失われようとしていました。
1942年5月、国家の調整機能の崩壊を象徴する作戦が動き始めます・・連合艦隊のミッドウェー攻略です。
アメリカを一気に叩いて早期終戦を目指す山本五十六長官、肝いりの作戦でその先にハワイ攻略も構想していました。
しかしミッドウェーもハワイも陸軍が考えていた持久圏の遥か外側です・・陸軍の意向を押し切っての強引な作戦には海軍内部からも異論が相次ぎました。
海軍省兵備局長 保科善四郎(肉声テープ)
「とてもハワイは持ち切れない・・あそこを持ちこたえる事が出来ないというんです・・それは戦線が南方にひろがってますからこれを補給するだけで大変です」
連合艦隊幹部 井上成美(肉声テープ)
「無駄だったというふうに私は考えていました・・手を広げれば広げるだけこっちの弱点が出てくる・・そんな事しなくたってもっとコンパクトにしときゃいいんだ・・あんなところまで何のために出て行くんだろ・・私は反対だった」
山本自身作戦の強引さは自覚していましたが方針を変えるつもりはありませんでした…
1942年6月5日 ミッドウェー海戦、アメリカの反撃により虎のこの空母4隻を始め日本の機動部隊は壊滅しました・・今後の攻勢にも占領地域の防衛にも影響する大敗北・・致命的損害でした。
しかしこの重要な情報も国家の首脳部で共有されませんでした・・海軍は拡大策の破綻を必死に隠そうとしたのです。
企画院総裁 鈴木貞一(肉声テープ)
「しょっちゅう海軍が連絡会議に来て情報部長が色々なことを説明するんだよ・・ところがミッドウェーのあった頃から何も戦の話をしないのだね・・」
一方、敗北の事実は内密に東条首相には知らされました・・東条側近の西浦大佐は衝撃的な事実を告白していました。
陸軍省軍事課長 西浦進(肉声テープ)
「その時、大臣は『うーん』と言っていました・・そして『4隻ともやられたか』といってさすがにうなってました・・しばらく経ってからこの秘密は守ろう・・海軍の頼みだから秘密は守ろう・・それから『この機会に海軍の非難は一切するな』ということだった」
この時もまたリーダーは国家の利益より、組織のバランスを優先する態度をとりました・・バラバラの戦争はこの後も放置され日本の破局はすぐそこまで近づいていました。
すでに戦場は当初の想定範囲を・・補給能力の限界を超えるところまで広がっていました・・ミッドウェーの敗戦後もこの拡大方針に変わりはありませんでした。
ミッドウェー上陸部隊は敗北をを伏せるため急遽、ガダルカナル島へ転進させられます・・十分な準備の無かった日本軍は武器も食料も失い2万人という大量の犠牲者を出しました。
その後日本軍は連合軍の激しい反撃の前に戦線の縮小に追込まれます・・しかしここに至っても陸海軍は協力して守りに徹する事無く場当たり的な攻撃作戦を繰り返しました・・7万2000人の犠牲を出した陸軍のインパール作戦はその最たるものです。
ニューギニア戦 死者18万人
やみくもな戦線の拡大が破たんした後の計画を何も持っていなかった日本・・国家の指導者たちは最後まで敗北を受入れる事をためらい続けました。
その先に待っていたのは想像を遥かに超える数の国内外の犠牲者でした。
改めて300万人の命の重さを思います・・開戦70年の今、私たちはこの教訓をどう受け止め得ているのでしょうか・・・。