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ミッドウェー海戦の悲劇 ~日本空母部隊壊滅の時~

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NHK そのとき歴史が動いた
ミッドウェー海戦の悲劇 ~日本空母部隊壊滅の時~

昭和17(1942)年6月5日、太平洋戦争の大きな転機となった戦いがありました…ミッドウェー海戦です。それまで連戦連勝を続けていた日本軍は、ハワイの西にあるミッドウェー基地攻略のために空母4隻を中心とする大艦隊を派遣します。

ミッドウェーを占領するとともにもし敵の空母が現れればそれも撃滅しようという2面作戦でした。しかし日本の暗号を解読していたアメリカ軍は、あらかじめ網を張って日本の攻撃隊を待ち受けていました。

日本艦隊は思惑とは逆にアメリカ軍の奇襲を受け、空母4隻を失うという大敗北を喫しました。…これまで不運の敗北といわれてきたこの結果ですが残された戦闘記録から敗北の真相が浮かび上がります。

ずさんな計画や勝利に酔った驕り、そして度重なる方針の転換、そこには日本海軍が組織として陥ってしまった様々な問題が露呈していました。…この海戦を堺に太平洋戦争の戦局は逆転、以後日本軍は次々と敗北を重ねてゆきます。

太平洋戦争の決定的な分岐点となったミッドウェーの敗北、その悲劇はなぜ起こったのか…日本の運命を変えた一瞬を解き明かします。


ミッドウェー海戦はなぜおきたのか

昭和16(1941)年12月8日、日本海軍の空母部隊はハワイ真珠湾アメリカ海軍基地を奇襲、太平洋戦争が勃発しました。…アメリカの不意を衝いた日本軍はまず飛行場を空襲し、アメリカ軍の航空機を封じ込めました。

そして大きな抵抗を受けないまま戦艦4隻を含むアメリカ艦隊主力を戦闘不能にする大戦果を上げました…ハワイ奇襲の日本空母部隊は太平洋上を駆け回り、連戦連勝を続けます。

ラバウルニューギニア、オーストラリアを空襲し、インド洋ではイギリス海軍を圧倒、相次ぐ勝利に日本の空母部隊は無敵であるという印象が広がりました。…しかし海軍の山本五十六大将はアメリカの空母部隊を脅威に感じていました。

ハワイ奇襲の時、たまたま出航していたアメリカ空母部隊は日本軍の攻撃を免れていたのです…アメリカ軍空母の脅威は、間もなく現実のものとなりました…昭和17年4月、アメリカ軍は空母を日本近海にまで接近させ爆撃機を飛ばし、東京、大阪を空襲したのです。…この時の被害は軽微でしたが首都防衛に責任を持つ軍部には大きな衝撃でした…急遽アメリカ軍空母部隊への対策が実行に移されることになりました。
 
海軍が目を付けたのはミッドウェーでした…ここの敵基地を空襲して占領し、ハワイのアメリカ空母部隊を牽制して日本本土を攻撃できないようにしようというのです。…敵空母が出てくればそれも撃滅するという2面作戦でした。


甘い見通しの図上演習

攻撃部隊の中核は、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母4隻、連勝を重ねる日本海軍の主力です…この空母部隊の司令官に任命されたのが南雲忠一中将でした。

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     (南雲忠一中将)

海軍兵学校を優秀な成績で卒業したエリートですが当時の最新兵器である空母は専門ではありませんでした…一方、空母を使う戦いの専門家である山口多聞少将は、南雲中将より位が低く年功も積んでいませんでした…山口少将は旗艦赤城の司令部には加えられず空母飛龍に乗ることになりました。

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     (山口多聞少将)

昭和17年5月1日、ミッドウェー海戦の一月前、海軍は広島県呉の基地で図上演習を行いました…図上演習とは机の上で模擬的に作戦を実施し、問題点がないかどうかを検討するものです。

この時の演習には南雲忠一をはじめ、ミッドウェー作戦の司令官や参謀が集まりました…参加者は青の日本軍側と赤のアメリカ軍側に別れ、空母や航空機をゲームのように動かして戦闘を行います。

勝敗を客観的に決めるために爆弾などが命中したかどうかはサイコロの目で判定します…演習では日本の空母部隊に爆弾が9発命中、旗艦赤城は沈没するという思いがけない結果が出ました。

しかしその時、演習の審判をしていた宇垣参謀長から異議が唱えられました…「今のアメリカ軍の命中弾は1/3の3発とする」…アメリカ軍の攻撃能力は日本軍の1/3しかないというのです。

演習での日本軍の被害は僅かなものとなりました…ハワイ奇襲以来、日本軍は敵をすっかり見くびっていました。…南雲中将をはじめこの判定に異議を唱えるものはいませんでした。

ミッドウェー作戦の重大な危険性に誰もが目をつぶってしまったのです。…当事、海軍参謀だった奥宮正武さんは、この演習に参加してサイコロを振る係りでした。

元海軍参謀 奥宮正武さん
「本当は規則どおりやれば良かったんですがそうしないのは結局、日本の航空母艦の部隊の力を過信していたのです。…自信満々で演習なんか勝手にやれというような雰囲気でした」


アメリカ軍、万全の迎撃体制

一方その頃、アメリカ軍は日本軍の暗号を解読し、ミッドウェー攻撃の全貌を掴んでいました。…アメリカ軍はすぐさま対応をとります。

ミッドウェー基地の対空砲火を大幅に強化し、日本軍の空襲に備える体制をとりました…また爆撃機55機、哨戒機30機など航空機を増やし、日本の空母を逆襲しようと待ち構えました。

昭和17(1942)年5月27日、日本海軍空母部隊はミッドウェーに向けて出撃しました…運命の海戦の9日前のことでした。

昭和17(1942)年5月31日、赤城以下4隻の空母を主力とする日本艦隊はミッドウェーに1200キロの海域まで迫りました。…暗号解読により日本軍の接近を知ったアメリカ軍はミッドウェーの周囲に哨戒機を飛ばし警戒を強めます。

また同時にハワイにいた空母3隻が出撃、ミッドウェーを攻撃する日本艦隊を迎え撃とうとします。

一方、日本軍はアメリカ空母部隊監視のためミッドウェーとハワイの間に潜水艦部隊を派遣しました…しかし潜水艦が配置についた時、アメリカ空母は既にその哨戒線をすり抜けた後でした。…日本軍は敵空母の監視に失敗したのです。

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昭和17(1942)年6月5日、午前1時30分(日本時間)、日本海軍の4隻の空母からミッドウェーのアメリカ軍基地に向け、攻撃隊が出撃しました。…攻撃隊は108機、この時、日本の攻撃部隊にはまだ72機の攻撃機が残されていました…万が一、アメリカ空母が現れた時のためでした。


アメリカ空母不在を前提とした作戦

付近に敵空母はいないとしながらも司令部は念のため偵察機を放ちました…広い海で空母を発見するためには、きめ細かく割り振った範囲をそれぞれ偵察機を2回に分けて発信させます。…ところがこの時は、偵察範囲のキメは荒く、しかも1回しか偵察を行いませんでした。

付近に敵の空母はいないという先入観によって行ったおざなりの偵察、その結果は致命的な見落としとなって現れました。…この時、一機の出発が遅れ、一機は悪天候のため海面を確認できませんでした。

その為、偵察範囲に空白が生まれました、実はこの空白の範囲の中にアメリカ空母部隊は潜んでいたのです。

2時32分、ミッドウェーから飛んで来たアメリカ軍哨戒機が日本空母部隊を早々と発見しました…その正確な位置を全軍に伝えます。

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2時53分、ミッドウェー基地からアメリカ軍攻撃隊が日本空母部隊に向け出撃しました。…4時過ぎこの攻撃隊は日本空母部隊に襲い掛かります。…日本艦隊はただちに戦闘機を発信させて敵を迎え撃ちました。…優秀なパイロットを擁する日本の戦闘機隊は、次々にアメリカの攻撃隊を打ち落とします。

空母部隊もまた魚雷や爆弾を巧みにかわし、何とかアメリカ軍の攻撃を撥ね退ける事に成功しました。…しかし、この時、新たな敵、アメリカ空母部隊が密かに日本空母部隊に迫りつつありました。…日本空母部隊壊滅の3時間前のことでした。

3時34分、日本の攻撃隊がミッドウェー上空に到達、攻撃態勢に入りました…しかし日本軍を待っていたのは、強力な対空砲火…ハワイ攻撃の時と違って奇襲が出来なかった攻撃は不十分な結果に終わりました。

4時15分、ミッドウェーに向かった攻撃隊からの報告が赤城の司令部に入ります…『第2次攻撃の要あり』…ミッドウェーに第2の攻撃の必要があるというのです。


繰り返される失策

この報告は基地の攻撃が簡単に済むと思っていた司令部にとって予想外の事でした…参謀の源田實中佐は、日本空母部隊に残っている72機の航空機をミッドウェーへの第2次攻撃に使うよう進言します。

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     (源田實中佐)

しかし、その時、残っていた航空機が装備していたのは空母を攻撃するための魚雷でした…陸上攻撃用の爆弾を積んだ航空機は全て出撃していたからです…魚雷では地上の基地を攻撃することは出来ません。

南雲中将は、「第2次攻撃隊の兵装を陸上攻撃用にせよ」と命じました。…つまり待機中の航空機が積んでいる魚雷を爆弾に積み替えろと言うのです。

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しかし魚雷を爆弾に代えてしまうと万一、敵空母が現れたときには十分な攻撃が出来なくなります。この時、赤城の艦内で待機していたパイロットの川橋善作さんはこの命令に驚きました。

空母赤城攻撃隊 搭乗員 川橋善作さん
「あくまでも第一目標は発艦する前から決まっている訳です…ですから私ら雷撃隊に陸上爆弾を積む事はないわけです…魚雷を積んで発艦する予定を変更する事は、それまで一度もない事でした…ミッドウェーの時が初めてです」

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800キロの魚雷を手作業で爆弾に取り替えるには、1時間以上はかかります…艦内はにわかに慌しくなりました。…この頃、アメリカ空母部隊は日本空母部隊の東240キロに迫っていました。

午前5時、空母エンタープライズとホーネットから日本空母部隊に向け100機以上の攻撃隊が出撃しました…

5時30分、日本の攻撃部隊は魚雷から爆弾への積み替えをようやく終えようとしていました…その時、遅れて飛び立っていた偵察機から報告が届きます。『敵空母発見』という驚くべきものでした。

初めて敵空母が付近にいる事を知った司令部は愕然としました…この時、空母飛龍の山口多聞少将から司令部に進言が届きます。…『直ちに攻撃隊発進の要あると認む』…航空機を使う空母同士の戦いは一瞬の差が勝敗を分けます…一刻も早く攻撃すべきと言うのです。

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しかし司令部の参謀たちはこの進言を却下します…爆弾ではなかなか敵空母を撃沈できない…喫水線の下を狙う魚雷でなければ効果はない…もう一度、魚雷を積みなおそうとしたのです。

そしてその作業の合間にミッドウェー攻撃から帰ってくる航空機を収容し、戦力を増やして敵空母を攻撃しようとしたのです。

南雲中将は、一度、魚雷から積み替えた爆弾をもう一度魚雷に積替えろという命令を発しました。魚雷への再転換は整備員だけでなくパイロットも動員されました…。大混乱の中の積み替え作業で格納庫には爆弾や魚雷が未整理のまま投げ出されました。


迫り来るアメリカ軍攻撃隊

時間は刻々と過ぎてゆきます…この時、アメリカ空母を飛び立った攻撃隊は日本空母部隊まで120キロまで迫っていました。(日本空母部隊壊滅まで2時間前のことでした)

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6時過ぎ、アメリカ空母部隊から発進した100機あまりの攻撃隊が日本空母部隊の上空に達しました…攻撃隊は赤城、飛龍など日本の空母に次々と襲い掛かります…回避運動を繰り返す空母の回りには、爆弾による水柱が次々と上がります。

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丁度この時、日本軍の攻撃隊がミッドウェー基地から帰ってきました…日本軍の航空機は空襲の合間を縫い危険を冒して着艦しました。…日本艦隊司令部は帰って来た航空機に敵空母への攻撃を命じます。

この時、日本空母部隊は60機にも及ぶアメリカ軍航空機部隊の魚雷攻撃を受けていました…日本の空母を守る戦闘機は20機足らず…敵への攻撃に重点を置いて空母の守りに戦闘機を割かなかったのです。

日本軍戦闘機は魚雷を積んだ敵の航空機を打ち落とすため全て海面近くに集まってきました…次々にアメリカ軍機を打ち落とす戦闘機隊を見て参謀の源田中佐は言いました…「敵の技量は大した事はない…今日の戦も勝ち戦だ」…。

ところがその時、遅れてやってきたアメリカ軍攻撃隊が遥か上空に姿を現しました…日本軍の戦闘機は全て海面近くに下りて空母の上空はがら空きでした…空母の艦内では爆弾を魚雷に取り替える作業が必死で行われていました。

やがて作業が完了する…そうすれば敵空母を殲滅できる…それが司令部の考えでした。

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そしてその時!!

昭和17(1942)年6月5日、午前7時26分(日本時間)、空母赤城の頭上からアメリカ軍の急降下爆撃機が襲い掛かり爆弾を投下しました…爆弾は赤城に命中して甲板を貫きます。

甲板の下には燃料を満載にした航空機や魚雷、爆弾がひしめいていました…爆弾の1発や2発は軽い被害しか与えないはずでした…しかしその炸裂は付近の魚雷や爆弾を次々に爆発させ大火災を起しました。

赤城と同様に加賀、蒼龍も被弾炎上、日本海軍は一瞬の内に空母3隻を失いました…この時、爆撃を免れた空母は飛龍1隻だけでした。

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飛龍は残りの攻撃機を集めて反撃、アメリカ軍の空母1隻を大破させます…しかし4時3分、アメリカ軍の航空機24機の空襲にあい飛龍も大破炎上、やがて沈没、ミッドウェー攻撃に参加した日本の空母部隊は全滅しました。

この海戦で日本海軍は、空母4隻と巡洋艦1隻、200機以上の航空機、120人以上の搭乗員を失い二度とその打撃から立ち直ることは出来ませんでした。

ミッドウェー海戦の敗北は、太平洋戦争の戦局を逆転させました…しかし軍部はこの事実を国民に隠すため生き残りのパイロットたちを隔離します。

空母赤城の格納庫にいて奇跡的に助かった川橋さんは、一ヵ月後激戦地のガダルカナルに移されました。…川橋さんを待っていたのは圧倒的に優勢なアメリカ軍の物量の前に苦戦を強いられる日々でした。

ミッドウェー基地の空襲に参加した丸山さんは、その後、別の空母の搭乗員となり各地を転戦しました…しかしミッドウェーで戦力を喪失した日本空母部隊は二度と優位を取り戻す事は出来ませんでした。

その後も次々に空母を失った日本軍は苦しい戦局を打開するため特別攻撃隊を編成し、体当たり攻撃を行うまでに追いつめられました。

昭和20年8月、敗戦の時、日本海軍は艦船と航空機の殆どを失っていました…日本海軍の根拠地だった広島呉の海軍基地、ここには200隻以上の軍艦の乗組員の慰霊碑が建てられています。

300万人以上の犠牲を出した太平洋戦争、その転機となったミッドウェー海戦敗北の事実を国民の多くが知ったのは、3年余り後、戦争が終わった昭和20年夏になってからの事でした。