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上杉鷹山 天災と戦う なせばなる!奇跡の復興物語

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NHK 歴史秘話ヒストリア
上杉鷹山 天災と戦う なせばなる!奇跡の復興物語

江戸時代の名君として知られる上杉鷹山、…日本に首相となってほしい歴史上の人物を訪ねた最近のアンケート調査…
1位 織田信長
2位 坂本龍馬
3位 上杉鷹山
信長、龍馬は超メジャーですから選ばれるでしょうけど…3位入った上杉鷹山は知る人ぞ知るって感じでしょうかね。

でも皆さん次の有名な言葉、一度は耳にした事あるでしょう…「なせばなる なさねばならぬ何事も」…やる気にさえなれば不可能も可能になるビジネスマンに大人気のメッセージです…この言葉、鷹山が35歳の時に書かれた書状の一節なんですよ。


episode1
デストロイヤー鷹山
倹約改革が招いた悲劇

寛延4(1751)年、鷹山は江戸に生まれます…実家は九州に領地のある大名でした。…人生の転機が訪れたのは10歳の時、親戚だった上杉家の養子となり、米沢藩15万石の次期藩主に内定したのです。

米沢藩といえば戦国の世に名をとどろかせた上杉謙信を先祖に持つ藩、かつては120万石を誇った名門中の名門でした。

明和4(1767)年 鷹山17歳で家督を継いだ後、2年後に米沢に入ります…しかし米沢藩の村々の様子は、鷹山に衝撃を与えます。…18世紀後半、東北地方は異常気象に見舞われていたのです。

米沢市の図書館には、この頃の悲惨な状況を物語る資料が残されています。

「一村亡所」、「捨て売り」、「人亡ひ土地廃れ」(米沢藩の記録より)…村人が逃げて村が成り立たない…農民がただ同然で田畑を売り、餓死するものも多く農地が荒れ放題だと記録に残っています。

茨城大学人文学部 磯田道史 准教授
米沢藩の人口は、13万人から10万人を割るところまで減っていた…これほどまでに悲惨な藩はないという状態で打つ手なし、というのが鷹山が藩主になった頃の米沢藩の現状でした」

一方、米沢藩は構造的な問題も抱えていたのです…石高120万石だった米沢藩は、鷹山が来た時は幕府の命令で15万石に減らされていました…しかし家臣の数は変わらず5000人、同じ石高の他の藩の3倍もの家臣を抱えていたのです。

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多すぎる家臣たちを養うため借金は膨れ上がり、その額は16万両、藩の収入の5年分に相当する莫大な量になっていました…まさに破産寸前。

上杉鷹山 がけっぷち「大倹約令」
「上杉家はもはや大きな家ではなく、小さな家となった」(鷹山の命令文より)…鷹山は家臣たちに名門の誇りにこだわる意識を捨て生まれ変わる事を求めたのです。

1.大倹約令を発令
家臣は絹をやめ木綿とする…食事は一汁一菜(汁一椀、おかず一品)鷹山も生活費を1/7に…。

2.家臣による新田開発
鷹山は逃げ出して荒れ果てた農村に多すぎる武士を労働力として送り込む策を断行したのです…この時、動員した家臣たちの延べ人数13000人。

3.「備籾倉」の設置
飢饉が起きた時の備えとして米を貯蔵する倉の設置、…武士から農民に至るまで半ば強制的に籾の供出を命じたのです。

強引ともいえる手法で次々と改革を断行して行きます…ところが安永2(1773)年、鷹山23歳のとき改革に反対する重臣7人が改革の中止を強く求めたのです。

「武士を農地の開発などに動員するのは鹿を馬とするもので的外れである…しょせん御屋形様は他家から入り家督を継がれた方、上杉家の伝統はわかりますまい」(『七家諌争状』より)

七家騒動と呼ばれるこの事件、保守派の重臣たちと体制を一気に改革させようとする改革派の鷹山は激しく対立し、藩の運営は大混乱に陥ります。

このままでは改革は進まず、米沢藩の崩壊にもつながりかねない…苦悩の末、鷹山が下した決断は、重臣2人に切腹を命じ、さらに首謀者は打ち首という厳しいもの…かたい決意で始まった鷹山の改革は、家臣の血を流すという悲劇を招く事になったのです。


episode2
お年寄りを大切に!
鷹山 立て直しの秘策

重臣たちが引き起こした騒動によって国のまとまりが揺らぐ中、鷹山に大きな試練が襲いかかります。

天明3(1983)年、鷹山 33歳、浅間山が大噴火、噴煙が関東から東北にかけて広がりました…噴煙での日照不足に天候不順が重なり米の収穫が激減、天明の飢饉が起こります。

東北諸藩の村々では食べ物が底をつき、餓死、病死者が30万人を超えたと記録されています…米沢藩も収穫が石高の半分にも満たない大凶作となります。

米沢も飢饉となりますがこの時の米沢藩の餓死者は、他の藩に比べて格段に少なかったといわれます…功を奏したのは鷹山が反感を買いながらも進めていた「備籾倉」の備蓄米でした。…藩は各地に設置されていたこの倉から米を供出し急場をしのいだのです。

しかし、この飢饉で米沢の農村の荒廃はさらに進みました…村からの年貢の現象は続き藩財政は悪化、家臣の大幅な給与カットも行われました…米沢藩は破綻寸前です。

天明5(1785)年 鷹山 35歳で突如引退し藩主の座を下ります…さすがの鷹山も諦めたかと思いきや実は秘めた意図があったのです。

米沢市上杉博物館 角屋由美子 学芸員
「藩主の立場だと参勤交代で米沢と江戸を行き来しなければなりません…隠居すれば米沢にいられる…集中して藩政改革ができるのです」

鷹山の民政改革
1.育児手当の支給:子供を育てられないほど困窮している農家には1両を与える事が決められました。
2.敬老の進め:高齢者には特別手当を支給することとし、お年寄りを大事に扱うよう呼びかけています。

鷹山が行ったのは、老人など弱いものに注目した政策でした…米沢藩では90歳を超えた者に対し、酒や菓子でもてなし褒美を与えました。…催しには鷹山自らも出席し、老人たちの話に耳を傾けたといいます。

茨城大学人文学部 磯田道史 准教授
「鷹山が生きた天明の大飢饉の時代は、実は幕府も藩も大きな転換期に入っていたのです…それまでは武力で年貢を取り上げる政権だった。…しかしこの頃から民を大事にしなければという江戸的な福祉国家の考えが浸透して行きます。先駆けとなったのが上杉鷹山率いる米沢藩だったのです。」

安心して子を育て老後を迎えられる国づくりへと舵を切った鷹山、農村にも人が戻り始めてきたのです。

 

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episode3
ヒット商品が国を救う奇跡の復興物語

上記写真は『透綾』(すきや)といわれる絹織物、今から200年ほど前に米沢で作られました…暑い夏用に作られたものでとても涼しそう…元祖クールビズです。

実は財政破綻寸前の米沢藩を救った大ヒット商品がこういった絹織物だったのです…鷹山のリーダーシップの元、武士から農民まで藩全体が一丸となり、まさに全員野球で挑んだ奇跡の復興プロジェクトです。

米沢藩に依然重くのしかかる借金、農村改革は進みましたが財政再建には程遠く、更なる収入を増やす新たな手段が必要でした。

米以外の収入源、特産品を考え出します…米沢の特産として今も有名な鯉料理、鯉は貴重な蛋白源でもあり飢饉のときも役立つものとして鷹山の時代に養殖が盛んになりました。…しかし、藩全体を潤すほど決定的なものではありません。

そうした中、大きな収入源が浮かび上がって来ました…養蚕です…カイコの餌となる桑は山に囲まれ荒れ地の多い米沢盆地でも栽培に期待が持てる作物でした。

寛政4(1792)年 鷹山42歳…生糸の生産を藩の正式な事業とし、一大プロジェクトを立ち上げました「養蚕役場」という実施本部を作り一気に体制作りに取り掛かります。

生糸の生産に本格的に乗り出すとともに藩ではもう一つ力を入れたものがありました…最先端の織物技術の導入です。…生糸や養蚕はすでに全国に多くの名生産地があり、後発の米沢は有利とはいえませんでした。

そこで米沢では生糸だけでなく、織物加工まで行う事で付加価値を付け、他の生産地と差別化を図ろうとしたのです。…京都から職人を招き、最新の機織り技術を取り入れて行きました。

この作業を主に担う事となったのが武士の妻や娘たちです…家にいる武家の女性たちの力も借り、有効に活かそうというのです。

鷹山たちが考えたシステムです…
1.まず農民たちに桑の苗木を無料で配り、養蚕を盛んにします。
2.取れた生糸は武士の家族に織らせます。
3.出来た織物を藩が販売。
それぞれが役割を果たし、藩全体で利潤を生み出す体制を目指します。

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さらに農民たちに桑畑の開拓資金を有利な条件で貸し付けたり、農耕馬を貸したりした…また『養蚕手引』というマニュアル本を作って配布し、カイコの飼育方法を地域に根付かせたのです。

農民たちは荒れ地を次々と切り開き、植えた桑の苗木は150万本にのぼったといいます。…こうなってくると弱点であった藩士の多さが生産力となり逆に強みとなったのです…増産に次ぐ増産で大きな利益を生み出すようになるのです。

茨城大学人文学部 磯田道史 准教授
「お米じゃなくてもお金が入ってくる仕組みを作る…その為には誰かが投資をしたり、作り方を教えたり、製品を売ってあげないといけない…まさに藩が現代の商社のような働きをしていたのです」

こうした藩を上げて取り組んだ事によって生まれた新たな特産品が米沢織でした…その傑作といわれるのが上記写真の『透綾』です。

薄く織り上げるという高い技術をようする透綾は下級武士が創意工夫で発明した絹織物でした…鷹山が火付け役となった米沢織、その知名度は次第に高まり絹織物は藩を支える主力産業に育って行きました。

茨城大学人文学部 磯田道史 准教授
「賢い家老を作ってやらせるのが普通のやり方、しかし鷹山の顔が常に見える改革だった…あきらめない覚悟を見せるリーダーということが鷹山改革の大きな特徴だったと思います。」

鷹山の改革が軌道に乗り始めると減り続けていた米沢の村の人口も徐々に回復し始めます…鷹山が晩年の頃には年貢も村から安定して治められるようになり、米沢藩は借金の全てをついに返済する事ができたのです。

文政5(1822)年 上杉鷹山 死去(享年72)

鷹山の死後も気候変動による凶作は相次ぎ、鷹山の死後、10年後に起きた天保の飢饉は全国で大量の犠牲者が出ました。

しかし、この時、鷹山が次なる飢饉に備え、生前手を打っていたあるものが米沢に住む人の命を救いました。…それは『かてもの』…鷹山が配っていた非常食マニュアルです。

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飢饉のときでも食べられる山野草など80種類もの食べ方や調理法を具体的に記したもの、これにより多くの人が餓死を免れたのです。

この『かてもの』は140年後の太平洋戦争の際にも米沢市民に配られて厳しい食糧難を乗り切るため活用されました。

長きにわたって米沢を救い続けた鷹山、米沢市内にあるほとんどの小中学校には、今も鷹山の肖像画が掲げられているのです。