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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

世界が認めた日本外交…陸奥宗光、小村寿太郎

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田原総一朗の仰天歴史塾 日本のリーダー列伝
世界が認めた日本外交…陸奥宗光小村寿太郎

田原総一朗
『日本はアメリカのペリーが4隻の軍艦を率いてやって来て、無理やり開国させられた…遅れに遅れてです。…当時は、帝国主義の時代で日本が植民地にされてもおかしくなかった。

ところが日本は列強に互して5大国になった…発展した…これは奇跡に近いというか奇跡です。…何でこんなことが出来たのかこの事を考えていきたいと思います。

今回、取り上げるリーダーは、陸奥宗光小村寿太郎です。

 

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陸奥宗光(1844-1897)


陸奥宗光は、1844年、和歌山県紀州藩重臣の息子として生まれるしかし、父親が失脚し脱藩、勝海舟の海軍操練所に入所、その後、坂本龍馬海援隊に加わる、明治に入ると紀州藩だけで徴兵制を敷いて2万人の軍隊を作った、神奈川県の知事、大蔵省関係の仕事をしたりした。

ところが西南戦争の時、陸奥は西郷派なんです…大久保利通暗殺を謀るの…それが露見して投獄、1883年、特赦によって出獄、出獄するとすぐヨーロッパに外遊、帰国後、衆議院議員になる。

そして伊藤内閣の外務大臣になる…暗殺を試みて監獄に入った人間が外務大臣になる…明治って面白いね。

彼はカミソリ大臣と呼ばれる…そういう人物、今、こういう男がいたら面白いだろうね…陸奥は刀を使わずに逃げ延びるのが信条って事で走って逃げる喧嘩ばっかりやってたんだって…で坂本龍馬が刀なしでこれから生きて行けるのは、「俺と陸奥だ」といった。』


1880年以降、列強の干渉と政治の混乱により、朝鮮の国民は苦しい生活を続けていた…閔紀(びんぴ)
を中心とした挑戦王室は自らの手で改革を行う事が出来ずにいた。

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不満が頂点に達した民衆は各地で反乱を起こし、1894年、朝鮮全土の内乱へと発展する…東学党の乱である。

田原総一朗
東学党の乱が起きる、朝鮮は困って清・中国に助けてくれと頼む、朝鮮政府は中国の子分みたいな関係だった。…実は1885年に清との間に天津条約という清が出兵する時は日本も兵を出すという条約が締結されていた。

それで日本も軍隊を出す…ところが日本と清の軍隊が朝鮮に行った頃、東学党の乱が終わってしまった…そこで清は軍隊を引き揚げて帰っちゃった…ところが日本は帰りたくない…理由は清と戦争したかった…清と戦争するキッカケが欲しい。

そこで日本は、「清の子分なんてつまらない、真の独立を果たそう…全面的に独立を応援します」と大院君(朝鮮皇帝の父)をおだて上げる、クーデター政権を樹立、…そして大院君に「清を討て!」と日本に命令させた。

こんな上手い話あるわけない…でも大院君は日本の話に乗ってしまったんです。…日本に「清を討て!」と言ったったんです。…日本は絶好のチャンス、清と戦争を始めたんです。

でも伊藤博文明治天皇は戦争に反対だった…明治天皇は「朕の戦争に非ず」と言った…つまり、お前ら勝手に戦争するなら俺は知らないよって事です。…明治天皇は大反。

実はこの時、陸奥たちは伊藤博文に2000人の軍隊を出しますと報告しながら6000人送ってた…当時は、主権在民じゃなかった主権は天皇にだけあった…そういう首相の伊藤博文天皇をだまして戦争をやっちゃう。

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でいざ戦争が始まると連戦連勝、なんで大国・清がこんなに弱かったのか…
理由1.この頃、清は西太后という女性が力を持っていた…清は軍艦を3隻作る予定だった…しかし、西太后が軍艦製造の予算を自分の隠居後に住む家の庭園の改築に使っちゃった。

理由2.アジアの大国・清に国力では大きく下回る日本がなぜ勝てたのか…勝因は日本の側にもある、そう語るのは、元外交官で陸奥宗光の人生に詳しい岡崎久彦さんに聞きます。

岡崎研究所 岡崎久彦
『勝利の一因は、日本人の資質です。その当時の中国と日本の戦争の概念の違いです…中国は大軍でドラを大いに鳴らして威嚇する、そうすると敵は逃げるんです…しかし日本兵は逃げない…突っ込めというと突っ込むんです。…日本は散兵戦ができる。

中国もそうですが当時はヨーロッパも戦争は傭兵がやっていた…後ろで監視していないと逃げちゃう…だから隊列を組んで進ませる。

しかし、日本は一人一人散って進む散兵戦ができたのです…命を惜しまない日本人の特質、国民性があったのです…ここが大きな違いです。』

1895年 下関講和条約、日本側全権は首相・伊藤博文外務大臣陸奥宗光…清の全権・李鴻章

条約交渉で日本が得たものは…
1.朝鮮の独立承認
2.賠償金2億両(日本の国家予算の4倍)
3.遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲

ところが列強、ロシア、フランス、ドイツの3国はこれに待ったをかけた…三国干渉である。

田原総一朗
『もう一つ陸奥の凄いところが、みなさん教科書で日清戦争に勝ったから不平等条約を撤廃できたと思ってる人が多いけど、あれは教科書が誤りなの…実は日清戦争が始まる前までに陸奥宗光が交渉して全て解決している。…しかし発行が5年後。

5年後に事裁判権、12年後に関税自由化になる…日清戦争が始める前の明治27年の条約に書いてある…教科書は長い間、間違いを書いていたんです…だからあれは全部、陸奥の仕事だった。』

陸奥は、日清戦争が終わってから2年後(1897年)、肺結核のため53歳で死去しています…やる事やったって感じですね。

 

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小村寿太郎(1855-1911)
1870年、大学南校(東大)に入学、後にハーバード大学で法律を学び外務省翻訳局に勤務する超エリート、…清代理公使時代、国交断絶し公使館を閉鎖した英断を陸奥に買われ、…1901年、桂内閣外務大臣に任命される。

19世紀末から20世紀初頭の世界
下記地図の紫がロシア領、ピンクがイギリス領、まさに19世紀末はロシアとイギリス、2国が世界の覇権を争っていました。

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イギリスは小さな国だけど東へ東へ…つまり、イギリスは世界一の侵略大国、対してロシアは大きいけどシベリアはあまり使えない、だから西へ進んだ。

でもロシアは、ドーバー海峡があってイギリスに意地悪される…だから何とか極東の冬でも凍らない港、旅順が欲しかった。…シベリア鉄道を旅順まで引っ張る計画だった。

田原総一朗
『元老・伊藤博文は、ロシアの南下が怖いのでロシアと仲良くしようとする(日露協調派)…対して小村寿太郎、桂首相はイギリスと手を組んでロシアをやっつけよう(親英派)の2つに割れます。

この頃、中国に外国排斥を目的とした義和団の乱が起きる…これを討伐しようと日本、ロシアを含む列強が軍隊を送り込む…これが北清事変(1900年)、一番多く兵隊を入れたのがロシア1万5000、次が日本1万2000、乱が収まり撤収となるがロシアが兵を引かない…いくら言ってものらりくらり言い訳をしてロシアは兵を引かない。

三国干渉のときの恨みもあるし、それで日本はロシアと戦争しようという機運が出てきた…その時のトップが小村寿太郎、しかし元老・伊藤博文はなんとか穏便にすませたいのでロシアと交渉をする。

満州はロシア、しかし朝鮮には手を出さないで欲しいと言うがロシアは聞き入れない…伊藤が困っているところ小村が日英同盟(1902年)を結んじゃう。

反対している伊藤は枢密院議長(権限なし)にされ、ロシアでも穏健派が追放される…こうなれば戦争しかない。

ロシアはシベリア鉄道完成を急ぐ、…どう急いだかというと線路は単線、行ったら戻らなきゃならない、だからヨーロッパから資材をおくった列車は戻さず燃やしちゃう…どんどん片道列車を送り込んだ…この鉄道が完成したら日本に勝ち目はない…小村たちは焦る。

日露戦争開戦時の国力比
面積
ロシア 2400万平方キロメートル
日本  37万平方キロメートル

鉄鋼生産
ロシア 270万トン
日本  4万トン

人口
ロシア 約1億2千万人
日本  約4千6百万人

国家の歳入
ロシア 約20億8千万円
日本  約2億9千万円

動員可能兵力
ロシア 約200万人
日本  約100万人

日露戦争投入兵力
ロシア 約50万人
日本  約30万人

戦費
ロシア 22億円
日本  15億円

軍艦の総排水量
ロシア 約80万トン
日本  約22万トン

こんなに差があってと思うけど日本に有利なのは、ロシアはシベリアまで来れない…だからシベリアまで鉄道が引かれたら負ける。

小村は開戦を急ぐが反対しているのが明治天皇伊藤博文…それと当時、マスコミも反対していたでも戦争が近づくと賛成に回った…弾圧じゃない…戦争反対だと新聞が売れなくなるから。

で結局、マスコミもか「やれやれ!」状態、伊藤は枢密院議長で動けない…そこで明治天皇日露戦争の直前歌った有名な句…

「よもの海 みなはらはらと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」(明治天皇 御製)…意味は、「四方の海にある国々は、みな兄弟姉妹と思うのに、なぜ波風がたつのか」と反戦の歌をうたった。

しかし明治憲法では、本当の権利は大臣に預けてしまっている…だからこの歌を詠むのが精一杯。

例えば昭和天皇昭和16年9月6日、御前会議で昭和天皇も反対だけど結局、この明治天皇の歌を詠むんです…「よもの海 みなはらはらと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」、昭和天皇も詠んだ。』


日露戦争開戦へ…

1902年、日英同盟を結んだ日本は、7つの海を支配するイギリスから世界の情報を手に入れ、債権を発行して戦費を調達した。

1904年 日露開戦、満州征服を画策し、朝鮮半島にも進出し始めていたロシア、ロシアの脅威を取り除くには戦争をするしかない、そう考えていた小村寿太郎は開戦を避けようとする天皇や元老・伊藤博文を説得しシベリア鉄道が完成する前に開戦にこぎつけた。

岡崎研究所 岡崎久彦 所長
『なぜ大国ロシアに勝てたかというと日本の下士官は世界最高、昔も今も世界一、…日本は下士官は優秀だけど将軍はダメ…アメリカの将軍とドイツの将校と日本の下士官を使ったら世界最強と言われています。

戦後日本の復興も下士官の能力です…ろくな政治家いないですからね…企業で言うと係長、現場主任、とにかく現場は優秀です。

アメリカがベトナム戦争で負けたのも国内で反戦運動が激しくなったからでロシアの場合もそうです…日本は国力で絶対かなわない相手、清国、ロシア、アメリカと戦争しています。

清国もロシアもあすこで戦争をやめていなかったら勝ってますよ…圧倒的に戦力があるんだけど厭戦気分でやめてる。

奉天の大会戦を何とか勝利して児玉源太郎が日本に帰ってくる…矢も鉄砲も尽きた、もう駄目だ…士官がいないんです…士官学校出たばかりの将校は弾よけっていうんです。

突撃というときに真っ先に先頭切って走って行くのが士官で兵隊は後ろからついて行くんです…だからみんな死んじゃう…特に小隊長は殆ど死んじゃう…奉天会戦後、残った戦力は半分しかない。

ところがロシアは、最精鋭の兵隊を50個師団ぐらい集められる…だから日本が勝てるわけが無い。…でも日本がこれだけ疲弊しているのは秘密なんです…軍事機密、日本が弱くなってる事は。

だから仲介に入ったアメリカのルーズベルト大統領だって日本がこのまま続ければ勝つだろうと思ってた…真実を知らないルーズベルトは誤解してロシアに強気で日本との停戦交渉を進めた。

こんな軍事機密、日本の国民が知らないのは当たり前ですよ。』


田原総一朗
『そして1905年アメリカのポースマスで講和会議が開かれます…でもロシアは負けたとは思ってない…

日本の要求:賠償金50億円、樺太全土の割譲、遼東半島の租借権
結果は:南樺太を割譲、賠償金は無し

日本の新聞は、勝ったかったと騒いでる…しかし賠償金も取れない…なにも実情を知らないので国民は怒りますよ…日比谷焼き打ち事件(1905年)が起きる。

そして小村に非難が集中する…「戦争に勝ったのに賠償金も取れない」と言われる…小村の人気がドーンと落ちる…今の教科書でもポースマス条約は失敗的なニュアンスで言われてる。

大きな犠牲にも関わらず見合う対価が得られなかった日本は、その後、日韓併合して利権を求め満州へ進出するわけです。』


東京千代田区日比谷公園、1905年9月、ポーツマス条約反対を唱える民衆たちは、ここで決起集会を開き暴徒となって大臣官邸や新聞社を襲った。

実は戦争継続を訴えていた小村寿太郎、しかし陸軍劣勢の中、これ以上ロシアとの戦争を続ける事は出来なかった…小村は不利な条件での講和条約になる事を承知で全権大使となり、弱腰外交となる国民の批判を黙って受け入れた。